Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第2回] 鎮魂

 ヒーリング・タッチ修得者と触れ合えば、非常に興味深い経験が即座にできる。身体のどの箇所であれ、タッチを受けている部分に、ある特殊な意識の変化が起こるのだ。
 ポッと穏やかな火が灯ったような感覚とともに、その箇所の「自意識」が突然目覚める。「部分の自意識」とは、「その箇所それ自体が、自らの感覚を感じている状態」と、今は仮に定義しておこう。

 例えば、あなたの手首に私が指をそっと添える。
 開かれた感性を備えた人なら、次の瞬間、触れ合っている箇所から透明な衝撃波のごときものが発生し、全身を貫いていったことに気づくだろう。
 そして、私の指が支えている空間に何かが実体を現わすべく、存在感の焦点を結び始める。それは生理的に感じられるものだ。

 やがて、濃密な密度を備えるに至ったその「存在感」の正体が判明する。スーッと感覚のピントが合ってくる。
 驚くべきことに、それはあなた自身の「手首」だった! これが「手首の自意識が目覚めた状態」だ。手首が覚醒している。手首の心が目覚めている。手首の心とは、手首が手首自身を感じている自覚的意識のことだ。

 この時、肉体的手首と手首自身の意識とは、3次元空間内で完全に同じ位置を占めている。これがいわゆる心身統合だ。
 心身統合とは、文字通り、心(意識)の存在感と身体の存在感とがピタリ重なり合った状態をいう。
 心身統合の実体験がない人は、「心と体が1つになる」とは実際にいかなるものなのか、想像することが難しいだろう。体験を通じて知る以外に道はないわけだが、その体験へとあなた方が何らかの形で導かれるよう、私は様々な方面から今こうして働きかけている。

 心身が一如となれば、いずれが体でいずれが心か、区別することはもはや不可能だ。両者は分かちがたく融合して、マインド・ボディ(心身)という新しいあり方へとシフトしている。
 自分の手首がこれほど生き生きとリアルに感じられるのは、あなたにとって初めての体験かもしれない。時として、深く愛し合う恋人たちが触れ合う際、こうした生命力のスパークが自然に発生して意識の変容がもたらされることがある。
 それは非常に稀な現象だが、ヒーリング・タッチを使えば、いつでも自在に引き起こすことが可能だ。悟りを得た導師と触れ合うことで、弟子の霊的覚醒が促されるというインドのシャクティ・パットも、同種の術(わざ)だ。その意味では、ヒーリング・タッチとは覚醒をもたらす超意識のアートであるということもできる。

 あなたは、「手首は前腕を直角に横断している」、「手は、前腕から真っ直ぐに生えている(手と前腕は一直線である)」と頑なに思い込んでおり、これまでそれが事実かどうかと疑ったことなど、1度たりとてなかったのではなかろうか?
 尺骨(しゃっこつ)及び橈骨(とうこつ)の茎状突起(けいじょうとっき:手首両側のくびれている部分。写真参照)の位置関係を、自らの手首と触れ合って調べてみるといい。親指側の橈骨茎状突起と、小指側の尺骨茎状突起の位置を結ぶと、前腕を斜めにカットしたような角度になっていることがわかるだろう(腕の内側から見るとわかりやすい)。それが「手首の(おおよその)角度」だ。

 ヒーリング・タッチによって「手首が現われる」なんて無邪気な書き方をしたが、実際はそんな生易しいものではない。手首の位置感覚が変われば、体丸ごとが直ちに変化し始める。全身の骨格構造は有機的に連動しているので、部分の変化は即座に全体に影響を及ぼすのだ。
 こうした骨格の変化を、劇的な形で経験する人は多い。たいていの人は、私とソフトに触れ合っただけで、体がのけぞったりクネクネと自動的に動き出す。そのうち、突然叫び出したり、踊り出したり、泣き出したり、あるいは大笑いしたり・・・・そういう現象はヒーリング・アーツ体験者にとってはごく自然で日常的なものだが、一般の人々の目には奇異なものと映るかもしれない。
 彼らはいやしの爆発を体験しているのだ。ヒーリング・エクスプロージョンと私は呼んでいる。爆発といっても、岡本太郎が言うような「宇宙の果てまでパーッと拡がっていく、破壊を伴わない静かで透明な爆発」のことだ。

 手首の位置関係について、目で見て確かめるだけでなく、その部分の触覚でも感じようとしてみるといい。具体的方法を以下に伝授しよう。

 説明上、左手の橈骨茎状突起に右手親指を、左手の尺骨茎状突起に右手の人さし指を当てることにする。手首の両サイドを1度に感じようとせず、最初は片方ずつ交互に行なっていく。柔らかく触れ合うことがコツだ。そのためには、手首でごくわずかな圧迫を感じるまで、指を「小さく、柔らかく、ゆっくり、粒子状に」押し込んでいく。
 同時に、自分がどうやって指を押し込んでいっているのか、その流れに注意を払い続ける。流れの元となる、方向づけられた意識を、「コマンド」と呼ぶ。コマンドとは指令、指揮という意味だ。

 手首が圧迫されていると感じたら、指に働いているコマンドを再確認し、そのコマンドをオフにする。コマンドをうまくオフできた人は、意図をオフしていた時と比べて、オフ感覚が格段に精妙に、奥深くなったことがわかるだろう。両者の違いが感じられない人は、今はそれ以上追求しようとする必要はない。
 お分かりだろうか? 単に「柔らかく触れよう」としてそっと触れる時は、それ以上強く押さないよう、体を固めながらおずおずと指を差し出している。これは消極的、固体的触れ方だ。
 それに対して、上記で説明したレット・オフを使った触れ合い方では、余分に押したかすかな力が「指の中」を通って腕へと逆流していき、それに吸い上げられるように、手首からの反作用、押し込まれた部分が元に戻ろうとする力が増幅されて、その部分に集中してくる。触れ合っている指の腹と手首とが、非常に生き生きと感じられ始める。これが積極的・流体的触れ合い方だ。

「触れ合う」ために、指と手首を交互に感じることから始め、次第に両方の感覚を同時に感じるようにしていく。2つを1つのものとして意識野に収めるのでなく、それぞれを別個に感じている2つの状態を、各々の個別性を保ったままで、「同時に、均等に」感じるのだ。前者は足すこと(+)であり、後者はかけること(×)だ。あるいは前者を「2つを1つに積み上げること」、後者を「2つを天秤の左右に乗せてバランスを取ること」と表現することもできる。
 感覚を基盤として、2つ(以上)の意識を操作するこうした術(わざ)の体系は、ヒーリング・アーツにおいて「ヒーリング・バランス」と名づけられている。
 ヒーリング・バランスとは、触覚を通じて意識をクロスオーバーしていく術だ。指が手首に「触れる」。同時に、手首が指に触れている。その時指は、手首から「触れられて」いる。触れることと触れられることとでは、意識の、コマンドの方向が正反対だ。

 焦らず、1つ1つ丁寧に、小さく、柔らかく、粒子状に感じていくことだ。感覚が鈍く曇ってきたと感じたら、手を振り、凝集→レット・オフしたり、あるいはかしわ手を打ったりするといい。私がヒーリング・アーツを伝授する場では、いつもかしわ手の鋭い音が頻繁に鳴り響いている。
 時折、指の腹で手首をこすると、その部分の感覚をより感じやすい。その「こすり合っている感触」は、確かにそこにある。だが、「そこ」とは一体どこか? 3次元空間内のどの座標を占めているのか? 
「そこはそこだ」と頭(マインド)は言うだろう。「左斜め下、およそ30センチの距離だ」と。・・・しかしそれは、頭(目)から見ての大ざっぱな位置に過ぎない。勘の鋭い方はもう気づかれたと思うが、頭という中心と部分(ここでは手首)の位置関係に関する情報など、全身の統合という観点からは何の意味もなさないのだ。

 目を閉じて触覚だけで感じようとしてみたり、目も使って視覚と触覚を合致させようと試みたり、・・・・・あれこれやっているうちに、「感覚のピントが合って」きて、触れ合っている箇所の感触が、その箇所そのもので感じられる新しい(と同時にどこか懐かしい)状態が現われ始める。
 最初は、現われたかと思うとスーッと消えてしまったりするかもしれない。ピントが合ったりぼやけたりを繰り返すこともあるだろう。
 だが、根気よく、そしてリラックスして取り組んでいるうちに、「あッ、これか!」という理会が、体をベースとして起こるはずだ。
 それが、部分がそれ自体を感じている状態だ。それは体と心の単なる混合ではない。錬金術的な意識の変容により、<心身>という新たな状態へのシフトが起こっている。この時は、触れ合っている箇所が体全体の中のどの場所に位置しているのか、それが体丸ごとで感じられる。

 意識化とは、できるかできないかの二元論でとらえるようなものではなく、その間に無限の段階があることを覚えておくべきだ。注意深く練修を繰り返すことにより、さらに精細で鮮明な感覚/意識を感じられるようになっていく。
 触れ合っている箇所がリアルに感じられるようになれば、今まで何となく手首(ここでは尺骨側か橈骨側のどちらか一方)があると「思っていた」場所と、実際の手首との間に、ギャップが存在している事実に気づくことだろう。
 意識化するプロセスにおいて、触れ合っている場所が移動していく感覚が確かにあり、移動の結果として手首の心が灯って、そこにリアルな手首が現われるのだから、それ以前の手首はどこか別の場所にあったことは確かだ。
 タッチをやめてしばらくすれば、ほどなく元の状態に戻る。そこで再びヒーリング・タッチで触れ合えば、またしても移動感覚とともに「手首」が現われる。私が手を添えれば、両者の間を瞬時のうちに、何度でも行ったり来たりできる。これは無意識、通常の意識、超意識の間を自在に航行するシャーマンの術(わざ)に通じるものだ。

 ヒーリング・タッチによって現われた手首は、物質的リアリティと合致した、ありのままの自然な手首だ。「なるほど、これまでは無意識だったわけだ」と、あなたは無意識の真の意味も知らずに気楽に言うかもしれない。
 だが無意識とは何か? 感覚が麻痺して何も感じられなかったということだろうか? 手首がなかったということだろうか?
 だが、あなたは確かに手首を感じていると思っていたし、以前ご紹介した修法において、手首を振ったり、手首を凝集→レット・オフさせてきたのではなかったか? 今初めて、ごく一部に過ぎないとはいえ、手首が現われたとすると、あなたはこれまで一体何に対して働きかけていたのか?
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 ただ字面を追うだけなら、私のこれらの言葉は退屈極まりないことだろう。私は「感じ、動く」ことを前提として書いている。自らが感じ、動きながら、この感・動の一端なりともあなた方と分かち合えるよう祈りつつ書いている。
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 話をヒーリング・バランスに戻そう。
 先ほど、触れ合っている箇所を1つずつ意識していった。「触れること」と「触れられること」を、「同時に、均等に、意識する」ことで、その部分の自意識が目覚める。「同時に、均等に、意識する」なんて一々書くのは煩雑だから、今後は「クロスオーバーする」という表現で統一する。
 次なる作業は、クロスオーバーして意識化した手首のそれぞれの側を、さらにクロスオーバーするのだ。これはヒーリング・バランスを学び始めたばかりの初心者にはちょっと難しいかもしれないが、1箇所ずつ丁寧に練修していくうちに、自然にできるようになる。そして、実際に試してみるだけの価値が充分以上にある。

 手首両側の意識をクロスオーバーし得た時、その間に超次元的意識の火花が飛び散り、親指と中指で支えている空間内部がはっきり生理的に感じられるようになる。
 それが「手首」だ。
 何の奇もてらいもない、自然な、あなたのありのままの手首だ。だがしかし、それはあなたがこれまで決して感じたことがなかったようなものだ。少なくともそれを感じた記憶を、あなたは持っていないだろう。
 幼年期には、誰でもこういう自然な手首だったはずだ。だが、それはあまりにも自然なので、小さな子供はそれを自覚しない。それは無自覚的な自然であり、いとも簡単に見失われてしまう。そういう喪失を、古代日本人は「魂が体から離れた」と表現し、心や体の不調、あるいは人生が思わしく進まないことの直接原因であると考えた。そして失われた魂を元に戻すために、「鎮魂」を行なった。鎮魂の方法には諸説あるが、分離した体と心を瞬時に重ね合わせることができる術を、私は寡聞にしてヒーリング・アーツ以外に知らない。

 実際には、体から魂が離れるわけではない。体と心(意識)がブレるのだ。体も心も、どちらも本来の位置からずれている。ヒーリング・タッチやヒーリング・バランスを使えば、体と心の両方が移動接近して、ピタリと焦点が合うように重なっていくことを確かめられる。
 こうした心と肉体の分離を、ヒーリング・アーツでは仮想身体という。私たちは、頭を中心とする身体感覚を脳の中で構築し、それが自分の真の体だと仮想(かそう)しながら、ヴァーチャル身体の中で生きている。実際の身体はといえば、デタラメなコマンドによる不自然な作動を強要され続け、自然ならざる歪んだ状態に慢性的に置かれている。
 仮想身体には、「骨格の歪み」とか「神経症」などの様々な呼び方がある。が、いずれも一面からしか仮想身体を見ていない。

 ヒーリング・アーツによって、分離した意識と身体とが直ちに接近していく。自分の手首と触れ合う上記の修法が正しく実行されたなら、「手首」が現われ始めるとともに、そこから全身がガクガクと揺れながら調えられていく。
 これが、「部分の変化が、直ちに全身へと及ぶ」ということだ。初心者は、体中がギシギシきしむことだろう。手首の仮想が一部正されても、仮想の部分はまだ全身至るところに残っているからだ。だが、ほんの一部であれ、リアルな箇所が戻ってくれば、全身の統合感覚が明らかに変化する。動作の質も向上する。

 ヒーリング・アーツとは、現代的な鎮魂の法なのだ。手首1つでこれだけのことが起こる。身体の様々な箇所を丁寧に調べていけば、どこもかしこも仮想、仮想、仮想だらけの事実が判明する。私が「人は皆、仮想の身体に住んでいる」と言う意味が、本当に理会できてくる。そうなって初めて青ざめる呑気な人も多いようだ。
 私たちは全身まるごとが仮想状態になっている。もっと言うなら、現実とは異なる仮想の身体に住み、現実ならざる仮想の人生を生きている。仮想の身体で私たちが味わう感覚のすべてが仮想だ。イリュージョンだ。仮想の身体で努力し続けて得られる達成もまた、仮想だ。ヒーリング・タッチを修得すれば、誰でも自分の生理的実感を通じて、私が述べていることの真偽を確認できる。

 誰もが、別人の体の中で、別人の人生を生きている・・・・そんなとんでもないことを言われても、にわかには信じがたいかもしれない。それも当然だ。それは、「こちら」の側から見ればあまりにも明らかな事実なのだが、あなた方がいる側からは何も見えない構造になっているからだ。
 いったん無意識の暗闇の中に意識という灯火(ともしび)が持ち込まれれば、すべてのからくりが明るみの元にさらけ出される。すでに明かりを手にした者の助けを借りれば、理会はほぼ一瞬のうちに訪れる。そして、理会は直ちに実存的変容をもたらす。
 自らの身体と心とが合致していなければ、つまり自分自身を知らないままでは、仮想の身体とリアルな現実の身体との間で起こる葛藤に、私たちのエネルギーのほとんどが空費されてしまう。
 ディスコースのタイトルとなっているグノーティ・セアウトン(汝自身を知れ)とは、かつて古代ギリシャ最大の聖地・デルフィのアポロン神殿に掲げられていたという箴言だ。それは、古来より様々な道における名人・達人たちが主張してきたことにも合致する、万法に通じる極意・奥義なのだ。

<2007.05.31 麦秋至(ばくしゅういたる)>