Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第6回] 間(ま)

 手首両サイドへのヒーリング・タッチ(第2回、3回で解説)を、改めて一緒に実践してみよう。ゆっくり、柔らかく、粒子状に、だ。

 まず手を振り・ほどく準備練修から始める。
 かしわ手を打って粒子感覚を活性化させた手を、ユラユラ振るわせつつ、ゆっくり拳を軽く握っていく。あまりに固く握りしめすぎないように。
 腕がどんどん重くなるだろう。振る動作もより単調に、直線的になっていくはずだ。
 なおも振り続けつつ、拳を握るという行為の意図それ自体に注意を払い、「握ろうとする」ことのスイッチを切る。くれぐれも、自分でパッと手を開いてしまわないように。ただ、「握ろうとすること」をオフにする。そして、振り続けながら静かに待つ。能動的に求めようとしない。

 ここのところの機微がまだよくわからない人は、「拳の握り方を少し緩める」くらいのつもりで研究してみるといい。強く握った拳を、ほんの少しでいいから、自分の力で「わざと」開こうとしてみる。実際には動かないくらいの、ごくかすかな力で構わない。より繊細な力を使えば使うほど、力がどういう風に働いているか、その流れをはっきり感じることができる。
 拳を握った状態からさらに開こうとすれば、相反する力がぶつかり合い、手全体がぐっと固くなるのがわかるだろう。だから、「握ること」を「やめて」、それ以外のことを一切しないようにすればいいのだ。

 拳がふっと自然に緩む感覚が得られれば、今の段階では充分だ。その状態で手、腕を柔らかく振れば、拳がバラリと「ほどけ」ていくだろう。
 試みに拳が完全に静止した状態で、同じように「握ろうとすること」をレット・オフしてみるといい。拳は緩むが、半握りくらいのところで止まってしまう。・・・・そろそろこの修法の意味が実感できてきただろうか?
 改めて手を振りつつ、拳をゆっくり握っていき、腕が重くなってきたら、もう少しだけ拳の握りを強くしようとし(意図のみ)、その意図に伴って生じる方向性を生理的に感じ、そのコマンドをオフにしてしまう。言葉で書けば複雑だが、実際には「手を打って、振って、結んで、開いて(結ぶのを反転させて)」いるだけのことだ。

 さて、腕を振りつつ拳を握り、それをオフにするとどうなるか? 
 私たちは、オフの「機(きざし)」を凝集(拳)内部で点火した。それによってオフの連鎖反応が一気に燃え広がっていく。その波に乗り、内なるサーフィンを楽しむのがレット・オフだ。
 私はこの修法でレット・オフの位相に入ると、重かった腕がサーッと軽くなり始めるのを、まず最初に感じる。
 オフに委ねつつさらに振り続けると、前腕の中が液体のようにユラユラ揺れ始める。最大の変化は、先ほどまでは「していた」のに、今は「していない」ということだ。「自分がすること」を手離していけばいくほど、どんどん自由になる。開放される。

 さて、改めてかしわ手を打ち、充分に緩んだ手、腕の粒子感覚を響き合わせたなら、手首のくびれ(尺骨と橈骨の茎状突起)にそっとヒーリング・タッチしてみよう。私は親指と人差し指の腹を使うことが多いが、親指と中指でもよいし、他の組み合わせも自由だ。慣れれば、人指し指と中指で手首をはさむようにして術(わざ)をかけることもできる。

 この術を実際に修してみてすぐ気づくのは、指でタッチしている箇所の位置感覚の曖昧さだろう。目を閉じると、それが一体どこにあるのか、全然わからなくなる人も多いと思う。
 そこで目を開け、まず橈骨(親指側)の茎状突起を意識化する作業に取りかかる。
 こちら側を仮にAとしよう。そこに親指でタッチしているものとして説明するが、親指の腹で手首のくびれを柔らかくこすったり、どこでもいいから感じ取りやすいところから意識をゆっくり拡げ、それ(意識)と「触れ合いの感触」とを重ね合わせていく。
 親指に凝集のコマンドを起こし、そしてレット・オフすれば、触れられている橈骨部分の感覚が次第に鮮やかになってくるだろう。
 指の腹でさらに柔らかくこすりつつ、それによって生じる感覚全体から、指の感覚だけを分離して意識していくという手もある。最後に残るのが、Aそれ自身の感覚だ。
 それが自らを意識する際には、「指に触れられている」という感覚から「指に触れていっている」という感覚へとシフトが起こる。こちらから見ているのではなく、あちらに見られている、という実感が生じる。それも目と手首を隔てる外部空間を通してではなく、腕や肩、首の内部をぐるりと巡って脳と結び合った感触を、身体内でありありと生理的に感じる。

 手首の反対側(B)も同様に意識化し、さらにAとBをクロスオーバーする。
 クロスオーバーをこれまでと違う言葉で説明するなら、自意識に目覚めたAとBがお互いを同時に発見し合い、両者が同時に「自己/他者」を感じている状態だ。それを「統合」と私は呼んでいる。
 ここまで説明したことを正しく実践すれば、クオンタム・リープの超越的霊光が静かに炸裂する。それは意識の降誕だ。
 このようにして、身体を意識の宿り場とすることができる。それは最初、部分的で一時的なものだ。希望の灯(あかり)が灯ったかと思うと、やがて暗くなって消えてしまう。そんなことが何度も何度も繰り返される。
 だが、根気よく点火し続けるうちに、生命の炎が全面的に燃え上がり、私たちを燃やし尽くす。それが私の言うヒーリングだ。

 改めてAとBをクロスオーバーさせ、両者の<間>を感じてみよう。それは空間であると同時に、「間(ま)」をも表わしている。
 間とは、相反する双方向の意識をクロスオーバーした時に感じられる、生々しい空間性だ。ヒーリング・バランスは間を取る術(アート)だ。
 当然のことだが、AとBの間(あいだ)に間(ま)は見出される。だが実際に注意深く行なってみれば、手首のリアルな空間(形)と、自分がこれまで無意識的に「このあたりにあるだろう」と思い込んでいた手首とは、位置・角度ともにかなりの食い違いがあることを発見して驚くだろう。それが仮想身体だ。

 前腕と手を、わざと真っ直ぐにしようとしてみる。そのように意図するだけで充分だ。
 そもそも起こってはならないことを体に無理強いしようとしていることを、実際にそうやってみれば・・・ただし注意深く、繊細かつ意識的に・・・あなたは直ちに確かめることができるだろう。
 今やあなたは、途方もない違和感を体のあちこちで感じ始めているはずだ。それをわずかに強調し、レット・オフ。
 不自然な動きを逆向きに巻き戻す機(はずみ)を起こし、そのいやしの波に乗ってほどかれ、いったん解体されて再生するのだ。

 あるスポーツを、体のどの部分を使って行なうものであるか、野球でもサッカーでも空手でも何でもいいから、いろいろ考えてみるといい。
 いかなるスポーツであれ、唯一の正しい解答は、「全身」だ。プロアマを問わずスポーツ選手で、上記の設問に対して身体のいずれかの箇所を思い浮かべた方は、そういう思い込みを直ちに修正すべきだ。
 さもないと、そのスポーツを行なうことによって心身のバランスがどんどん崩れていく。スポーツに限らない。茶道、華道、楽器演奏、舞、歌うこと、または野菜を包丁で切るとか、箒で床を掃くなど、人間のあらゆる営みに共通する真理について、私は語っている。
 私のメッセージは非常にシンプルだ。私が説いているのは、「Doing(ドゥーイング:すること)」ではなく、「Being(ビーイング:あること)」に関する教えだ。
 言葉を換えれば「姿勢」だ。それは単なる肉体上の一時的ポーズではなく、心身丸ごとすべてをひっくるめたトータルな人間の在り方、つまり生きる姿勢、生き様を指す。

 ・・・・・・・・・

 と、こういう具合に、立ち止まったり回り道したりしながら楽しく進んでいくのが、ヒーリング・アーツの流儀だ。手首をつまむという、一見単純に思える修法も、このように豊かな拡がりと奥行き、高みを内包していることがおわかりになったと思う。手首にタッチするという行為(Doing)の中に深遠さがあるのではない。手首に限らず、身体のあらゆる箇所と意識的に触れ合う時、そこに学びがあり、成長が起こるのだ。

 基本の静的修法をある程度錬ったら、より動的な練修も取り入れていく。例えば、体を柔らかく自由に動かしながら、手首にヒーリング・タッチする。・・・と、ツツーッと身体の中身が通じていくだろう。心身が全身に渡ってトータルに統合し、動きの感覚が非常にシンプルになる。そして最大限の効果を、最小限の努力で得られるようになる。
 最小限の努力という言葉を、あまり苦しくない程度に頑張ること、などという風に誤解しないように。それは文字通り、自分が意図的に何かやったと感じられる、最小限の感覚の単位という意味だ。

 手首の間(ま)を意識化するワークにより、まったく新たな身体の在り方が顕現する。それに伴って、動きそのものに本質的変容が起こる。今や、どこを、どのように、どういう順番で動かすかという問いは起こらない。そういう問いかけ自体が間違っている。意味がない。
 あらゆる箇所が有機的に連動し、「動き」というプロセスが自律的に生じる。この時、動きは消え、瞬間瞬間の連続のみがある。動きが消えるとは、目に見えないほど速いということではなく、動きとして私たちが通常認識している、外側の空間への移動感覚が消失するという意味だ。動かそうとする自分もいなくなって、ただ不動感(静)のみが残る。これが動中求静であり、以前説いた静中求動と対応するものだ。

 こういう境地における動きとは、外に表現するものではなく、自らの裡へと入っていくことだ。言葉にすれば難解だが、仮想から目覚めたマコトの体、真体(しんたい)にて行なえば、誰でも自然にそうなる。そして、あなた独自の美しく優雅な、そして最も効率的な動きが顕われてくる。
 それは宇宙によって用意された、あなただけのオリジナルな神聖舞踏だ。それが顕われる時、あなたは舞うことの真の歓びを初めて味わうだろう。その時、舞は即ヒーリングとなる。

<2007.06.22 夏至>