Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第8回] 歪んだ息、歪んだ生き方

 まず、以下のフォーミュラを、私と一緒に実践してみよう。説明の都合上、直立、あるいは正座、椅座(椅子に腰かけた状態)で、上半身を真っ直ぐに立てた姿勢で修する。慣れたら、仰臥(仰向け)でも試みるとよい。

[フォーミュラ1]
 鼻息が聞こえるくらいの勢いにて、小刻みに鋭く、速く、リズミカルな呼吸を繰り返す。そして、顔の前に掌をかざし、ゆっくり移動させながら、鼻息荒く吐き出される息の角度を掌で感じ取っていく。

 (かしわ手を打ってエナジャイズさせた)掌を近づけたり、やや離したり、角度、向きを変えたりしながら、ゆっくり動かしていけば、鼻息が掌に強く当たる一定のエリアがあることがわかるだろう。それが「息の通路(通り道)」だ。通路といっても単純な形状をしたものではないが、大まかな空間的範囲が感じられればそれで充分だ。

 ほとんどの人は、まず顔の真正面に息の通路を探そうとしたことだろう。
 しかしながら、実際に息が出て行く流れが感じられるのは、手をもっと下に移動させ、そして掌を斜め上に向けた時だ。分かってみればごく当たり前のことだが、鼻の穴は斜め下方に向いているのであって、真正面を向いているわけではない。
 しかし大半の人は、「無意識のうちに」、鼻の穴が正面を向いていると思い込んでいたのではないだろうか? そして、正面に向かって息を吐き、正面から息を取り込むつもりで、深呼吸を行なっていたのではなかろうか? これもまた、仮想身体の一例だ。

 もしかすると、喫煙者は煙草の煙を介して息の通路に気づき、その知識を普段の呼吸に活かしているのかもしれない。とすれば、煙草にも大いなるメリットがあることになるが、私は煙草を吸ったことがなく、知人に喫煙者は1人もいないので、よくわからない。しかし、街中などで煙草を吸っている人を遠くから観察したところによれば、彼らが自然でゆったりした呼吸をしているようには、とても見えなかった。間接的とはいえ、息の通路を見ることができるのだから、気づいてもよさそうなものだが。

 話を戻す。
 何らかの呼吸法を学び、実践している人々ですら、息の通り道の仮想に気づいていないというケースは多いようだ。試しに、今度は普通にゆっくり、静かに呼吸しながら、意識を息の通路に置いてみよう。手を使って補助するとよい。
 これまでの習慣で、意識が鼻(顔)の前方(水平方向)に偏りがちになるだろうが、手の感覚も借り、手で意識の置き所を導くようにしつつ、ゆっくり息の通路を探していく。
 実際に息(風)が動く空間に意識が収まった、すなわち息と意識が重なったとたん、これまでとは比較にならないほど大量の息が、どっと身体に出入りするようになって驚くことだろう。この時、身体内の息の感覚は横(床に平行)ではなく、もっぱら縦方向に動くようになる。

 実際には、(あなた方の現在のレベルでは)外側の空間に自らの意識を置くことはできない。だから、息の通路を意識化するという言い方は厳密には正しくないのだが、「息すること」を歪める仮想を理解し、そこから解放される道を指し示すために、今は段階を追って少しずつ進んでいる。
 正しい呼吸の道筋を自ら実感し、息がスムーズに、大量に身体を出入りするようになって初めて、これまでの自分の呼吸が歪んだ、部分的なものであったことが、知的にではなく生理的に理会できるようになる。

 今度は敢えて、正面から息を吸ったり、あるいは前に向かって息を吐こうとしてみるといい。つまり、古い呼吸パターンに戻すわけだが、長年に渡りやってきたことだから、簡単にできるだろう。
 すると、たちまち呼吸が押しつけられたように阻害され、しかも背中や胸、咽喉などに不快な力みが生じることが確認できるはずだ。否、呼吸をねじ曲げるためには、そうやって身体各部にブロックを作らねばならない、というのが事実なのだ。
 水平方向でもっと大きく息を吸ったり、吐いたりしようとしてみれば、頑張れば頑張るほど、焦れば焦るほど、吸うことも吐くこともままならなくなる。パニックというものは、こうやって始まる。逆にこの原理を知って普段から修練しておけば、非常事態においてパニックを回避することができる。

 道筋から外れた呼吸を、毎瞬毎瞬、相当な長年月に渡って継続してきたとしたら、慢性的酸素欠乏状態に陥っていない方が不思議というものだ。
 現代社会に生きる人間(特に成人)の大半が、弾けるような活気と野性的エネルギーを喪失しているのは、「酸素不足」が主要原因の1つであるといっても決して過言ではない。そして「生きる」とは「息すること」にほかならないのだから、息が歪んでいるということは、その人の生き方もまた歪んでいることを示している。

 次のフォーミュラへと進もう。

[フォーミュラ2]
 息を吐ききった状態にて、息を「吸い込もうとする」コマンドを粒子状に感じ取る。それをわずかに強調し、レット・オフ。
 息を吸いきった状態で、「吐こうとする」コマンドについても、同様に行なう。

 私が「粒子状に」という時は、「小さく」、「ゆっくり」、「柔らかく」をすべて含んでいる。
 粒子的に、上記のフォーミュラを実行していけば、吸おうとするコマンドも吐こうとするコマンドも、まさに顔に対して直角的に働いているという事実を確かめることができるだろう。息を吸おうとすると、鼻や口などに力が入ってくるが、仮想の息はそこから始まる。いわば、仮想の息の源流だ。
 これらの「吸い込もうとするコマンド」を、それが発生している箇所そのものでじっくり味わい、ほんの少しばかり強調し、そしてレット・オフ。
 すると、「息を吸おう」とする能動的行為(Doing)が終焉して、手放し状態となる。同時に、思いもかけなかったまったく別の場所、腹の中から息が起こってくる。
 息を吸うとは、鼻が息を取り込み、それを体の中のどこかへと送る(押しつける)ことではなかった。腹の中が突然ふわっと開き、そこが咽喉、鼻を通して息を取り込むのだ。息を吸うことの主体は、鼻ではなく腹だ。これが自然な吸気のあり方だ。

 吐くことについてもまったく同様だ。「吐こうとする」コマンドを見出し、<強調→レット・オフ>の手法を応用すれば、息を吐くとは、鼻が腹から息を吸い上げることではなく、腹が鼻から息を押し出すことであるとわかる。
 行為の主体が上(鼻)から下(腹)へと逆転する。奇妙に聞こえるかもしれないが、腰腹の間に自らの存在感の主体(中心)がシフトし、胸から上が持続的レット・オフ状態(虚)になった際、私はいつも岡本太郎の『太陽の塔』を想い出す。

 息をしようと「すること」をオフにし、手放しにしたまま(レット・オフ)でい続けることは、最初は少し難しいかもしれない。少しだけできても、息が起こっている(「息をしている」のではなく)最中に、何だか苦しくなってきて、思わず、鼻そのもので吸ったり吐いたりしようとする元の呼吸パターンに戻ってしまうことだろう。あなたの息の仮想は、かくも根深い。少しずつ進んでいけばいい。

 息しようとすることをすっかり手放した時に起こる自然な、深い呼吸は素晴らしい。胸から上はずっとレット・オフ状態に寛いでいる。息は優しいそよ風のように、あるいは歓びのさざ波のように、どこにも滞ることなく身体内を自由に通り抜けていく。
 日々の生活の中で、思い出すたびに息の修法を行なえば、それだけでどんどん活力が湧いてくる。疲れにくくなって、何事に対してもやる気が出てくる。呼吸においてもBeing(呼吸というものをいかに感じるか)が大切だ。それあってこそ、Doing(呼吸法)が活きてくる。

 実際のところ、初心者には形式的呼吸法など百害あって一利なしだ。そんなものに囚われるより、自分がどうやって「呼吸しようと」しているかを粒子的に調べ、<強調→レット・オフ>の極意を使って余計な作為を解体していくことをお勧めする。すると、息の自然な姿が自ずから顕われてくる。
 あなた方がぐっすり眠りこけている間でさえ、身体は決して休むことなく呼吸を続けている。だから、呼吸の主役はあなた(自我)ではなく、身体の方であることは間違いない。私たちはこの事実を銘記するべきだ。特殊な呼吸を身体に起こそうとするのであれば、常に身体の自然に従い、その流れから逸脱しないことが基本原則となる。

 ところで先ほど私は、「息が歪めば生き方も歪む」と述べた。直感的にそれが事実だと納得される方も多いと思うが、直感だけでは頼りないから、次のフォーミュラによって具体的・生理的に確かめてみよう。

[フォーミュラ3]
 立って、適当に全身を柔らかくゆったりと動かしていく。そうしながら、息を吸い、あるいは吐こうとするコマンドを粒子状に感じ取り、わずかに強調し、レット・オフ。

 さあ、もう語らずとも明らかだろう。あなた方の最初の直感は、やはり正しかった。
 呼吸と動きを一致させるとは、こういう状態をいう。息のリズムで動きを調節したり、動きに合わせて息をするのではない。両者を分かつことは、もはやできない。腰と腹の間に、すべての動きの中心がある。
 吸気が極まって(吸いきって)オフになれば呼気となり、呼気がオフになって巻き戻されると吸気になる。呼吸を自然に任せれば、期せずしてそうなる。
 念には念を入れて、鼻に力を入れながら、息を意図的に吸い、あるいは吐いてみる。あるいは「そうしようとして」みる。・・・・たちまち、全身の流れが分断され、抑圧される。体中あちこちにおもりがぶら下げられたようにギクシャクしてくる。こういうことをあなた方は、日常のあらゆる動作において行なってきたのだ。
 呼吸のあり方が人生のすべてに反映し、同時に人生(その人の生き様)が呼吸のあり方を決定する。息を観(み)れば、その人がどういう生き方をしているかが直ちにわかる。まさに、生きるとは息することであり、息とともに人は流れ、動き、生きるのだ。
 ここにおいて、「息すること」は「生命」そのものと合致する。呼吸の裡にプラーナや気といった生命の本質を見出す思想は、今回私たちが共に味わった動息融合の体験から発しているのだ。
 最後に、修法をもう1手授けておく。フォーミュラは以下の通り。

[フォーミュラ4]
 作為的な息と自然な息とが、たまふり状態にそれぞれいかなる影響を及ぼすか? かしわ手を打って活性化させた手で、感じてみよ。

<2007.07.04>