仲子は嘉永2年(1849年)、兵庫県但馬国・養父(やぶ)群八木村の比較的裕福な酒造家の長女として生まれた。
その4年後、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航。強制的に鎖国を解かれた日本は、激変と激動の新時代へと突入していく。
何不自由なく皆に愛されて育った仲子だったが、7歳で母を失い、翌年に来た継母が喜ばなかったため、寺子屋教育を中途で廃さざるを得なかった。終生、文盲であったようだ(ただし、仲子輝毫による素晴らしい書の写真が残っている)。
井上仲子・真蹟。
世の為に老もつかれもうちわすれ つくすはたゝ(だ)に直の一文字
娘時代には、もう村の他の娘たちとは違っていた。
ある時、村の寺に「今釈迦」といわれた高僧が説教に来た。仲子も友人たちと一緒に出かけていったところ、若い僧侶らが彼女たちをからかった。この時仲子は憤慨し、その若い僧らをつかまえて不心得をなじり、「俗人の言葉であれば気にも止めないが、僧ともあろう者の言葉としては聞き捨てならない。謝るまでは承知できない」と言って、相手を大いに困らせたという。仲子の実家が檀家頭であったからでもあろうが、彼女らしい一徹なところがよく現われているエピソードだ。
18、9歳の頃、ある晩、蔵の横から盗人が入ってきて寝ている仲子を起こし、金を強要した。その時仲子は、黙って水を飲んでから盗人にも飲ませ、隣室に寝ている父母を起こさないよう、静かに小遣い銭のいくらかをやって帰した。後でその盗人が他所(よそ)で捕らえられた時、「気味の悪い娘であった」と語ったそうだ。
当時を知る村の古老は、次のように証言している。「私は仲さんの腕の力の強かったことを記憶しています。村の若衆の中に、枕引(木枕の両端を2人が指先でつまんで引っ張り合う遊び)で勝つ自信のある者は、ごくわずかであったと思います」
歌がうまいのでも有名だった。しかし、幼少の頃から、始終故障の多い弱い身体であったという。
22歳の時(明治3年)、同県朝来(あさご)郡・筒江村の井上忠衛門に嫁(か)した。が、ほどなく忠衛門が死亡。里に帰ろうとしたが、人々の奨めと懇望により、弟の吉右衛門と再婚した。
23歳の春、養蚕(ようさん)の仕事中にふと右腕が痛くなり、どうしたのかしらんと考えてみても別に原因も思い当たらず、そのままにしておいた。ところが10日ばかり経つうちに、肩の後ろから背中にかけてだんだん痛みが強くなり、ついには髪を梳(す)くことも結ぶこともできなくなってしまった。
そこで近所の医者に診てもらったが、「これは別に心配するほどのことじゃない。薬を飲むより、いっそしかるべき整骨師にかかった方がよかろう」とのことだった。そこである整骨師の元でしばらく治療を受けたが、格別の効果もみえない。これではいかぬと思い、こちらあちらと整骨の先生を訪ね、様々な治療をして約3年というもの絶えず苦心したが、大分治ったようなと思うとまたすぐに悪くなるという具合で、どうも治り切らない。
到底根治する見込みがつかないところから、「1人つらつら考えてみるに、これには何か治らない理屈があるに相違ない、と疑いを起こした」のが、人間の身体の不思議に仲子が目を向け始めた、そもそものきっかけであるという。
その後、始終全身をいろいろチェックしてみると、果たして今日までの長い治療中、1度も手をつけられたことのない、しかも痛み処(どころ)でない他の「筋(すじ)」が非常に縮んでいることに気づいた。これこそまったく今まで治らなかった原因に違いなかろうと思えた。
一体何に、仲子は気づいたのだろう?
ちょっと試しに、「肩や背中が痛くて、右手を頭の後ろに自由に回せない状態」を、意図的に造り出してみよう。
なるほど、「痛み処」とは反対側の、胸や脇腹などがギュッと縮んで動作と拮抗していることがわかるだろう。右腕をあげようとする動きに、抵抗を加えたりやめたりすることを、「ゆっくり、柔らかく」繰り返していくといい。緊縮の中心単位となるような、いくつかの「スジ」の如きものの存在を、おぼろげに感じる人もいらっしゃるかもしれない。
仲子の自己観察は、さらに全身へと及んでいった。非常に知的で、探求心に富んだ人だったのだろう。1度聞いたことは後々まで忘れない、優れた記憶力の持ち主でもあったという。
なお一層、身体の様子を詳細に観察してみると、「意外にも左右の肩先が大分上がり下りしているし、歩くといつの間にか見当違いになり(方向がずれ)、座ると膝が出入りし、また肝心の胴までが捩(よじ)れているという具合」で、よほど妙な調子になっている。
これでは「筋」の縮んだところができ、痛みが出たのも当然のことで、これが真っ直ぐにならないことには根治するはずはないと考え、その後はこの身体の歪みを矯正することにいろいろ努力したそうだ。
読者の皆さんも、大きな鏡の前に立って両肩の高さを調べてみていただきたい。大抵の人は、歴然とした左右差があることに気づかれると思う。誰か手伝ってくれる人がいるなら、左右の腰骨(寛骨)の一番高いところから肩先までの長さを測り、左右で比べてみるといい。その差に愕然とされるかもしれない。これが仲子のいわゆる「歪み」の一例だ。
自分の体でわかったなら、道行く人などを観察すると面白い。ほとんど全員といっていいほど、両肩がいずれかに「傾いて」いるのを発見するはずだ。
自らの身体の歪みを矯(た)め正すため、仲子が具体的にいかなる手法を用いたのか、それに関する記録は、惜しいことにまったく残っていない。
しかし、彼女のアプローチ法は、どうやら正しかったようだ。自らの身体を使っていろいろ工夫するうち、幸い手もだんだん使えるようになり、また肩や背中の痛みも自然に忘れてしまったという。のみならず、意外にも、いつの間にやら身体が今までになくいたって健やかになった。ここに初めて、身体が強健なのと脆弱(ぜいじゃく)なのとは、単に身体の真っ直ぐと歪みとに基づくものではないかということに気づき、これが筋骨矯正術の出発点となったのである。
27歳の時、妹の幼女が遊んでいる最中、あやまって腕の関節を外してしまった。周囲の者が、「それ、早く整骨師へ連れていけ」と騒ぎ立てる中、仲子は、「それもよいが、とにかく私が治療してみましょう」と、自分の身体で実験したところから割り出した考えに基づき、手を加えてみた。すると、大層都合よく、コトリッと関節がはまったそうだ。
我ながらなるほどと1つ合点した、と仲子は後に語っているが、その後近所の人々がこのことを聞いて頼みに来るようになった。それからそれへと伝わって、自分もまたその気になり、2つ合点し、3つ合点して、いつとはなしに整骨専門のようにいわれ、こうなってはどうぞ1人でも多く治してあげたいものと思い、ますます研究を加え、工夫を凝らしながら、多くの怪我人を治療するようになったのである。
こうして4年間が過ぎていったが、この間も身体の歪みと体質の強弱ということに終始気をつけて観ていた。
そして、百人が百人まで、千人が千人まで、肉付きのよい血色のさえた申し分のない強健な身体は必ず真っ直ぐで、逆に、痩せた血の気のない弱い身体は必ず歪んでいるということが、いよいよ的確な統計的事実であるとわかってきた。
人を丈夫にするには、歪んだ身体を真っ直ぐに矯め直しさえすれば良い。それでは歪みきった身体を完全なものにするにはどうしたならばよいかと、先年自分の身体に基づいて工夫した矯正実験と思い合わせ、日々頼みに来る人たちの身体を材料として、私(ひそ)かに研究を続けたのである。
おそらく仲子は、全身骨格の図さえ、終生1度も目にしたことがなかったかもしれない。
後にある医科大学教授が、「あなたに解剖学を学ばせれば、一段の進境があるでしょう」と勧めたところ、仲子は言下(げんか)に拒んで言ったそうだ。「あなたのいわゆる解剖学とは死者のものでしょう。私は生きたままの筋肉の活動をこそ知りたいのです。休止した筋肉を知る必要がどこにあるでしょう」と。
だから、仲子の術を、通常の整骨法や整体術のようなフィルター(先入観)を通じて見ようとすれば、要点を取り逃がしてしまうだろう。何かもっと別の、一般には知られざる身体の連動原理について、仲子は気づき始めていたのではなかろうか? それに基づいて他者の身体を操作すれば、外れた関節をも整復できるようなもの。
仲子のいわゆる「スジ」とは、腱とか筋肉、あるいは筋膜などとは異なっていた可能性もある。医師たちがこぞって、「そんなものは、解剖学上、絶対に存在しない」と強く否定しているからだ。
しかし、腹から発して身体各部を有機的にコントロールする「スジ」なるものを、後年の仲子は自由につまみあげ、他者に示すことができたのだ。
<2009.08.11 涼風至>