Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第1章 通身是手眼 〜井上仲子(筋骨矯正術)〜 第3回 筋骨矯正術・開眼

 明治11年(仲子30歳)、大病で7年間臥(ふ)せっていた仲子の実兄が危篤となった。それ以前、但馬一国の名医たちが治療に当たったが、いずれも「到底根治の見込みなし」と手を引いてしまっていた。
 仲子が、介抱しながら病人の様子を観察してみると、やはり身体が大層歪んでいる。
 なるほど、これでは平素病身なのも無理はない。どうでも一つ試しに治療をしてやりたいものだと思い、身体の歪みと体質の強弱について自分の考えを詳しく兄に話した。
 兄は、「いかにもそれは道理らしく思える。都合よくいけば実に結構なことで、世間のため大勢の人が助かることじゃから、一つわしの体で充分実験するが良い」と、自らの体を生きた実験台に提供してくれた。

 そこで、さっそく兄を裸体にしてみると、果たしてひどく歪んでいる。兄もこれには驚き、「いかにもこれは我が身ながら少しも気がつかなんだ。今日までお医者さんにも診てもろうたが、こんなことは一人として見てくれた人はなかった」と不思議そうな面持ちだ。
「これは決して、この頃急になったものではありますまい。いずれ子供の時からでもできたわずかな筋の狂いが原因となり、だんだん引きつれてこうなったのでありましょう」
「なるほど、そう言われると思い当たることがある。かつて母から聞いておるに、幼少の頃、橋から落ちたことがあるそうな。その時傷めておったのかも知れぬ。これが整然と調(ととの)ってきたなら、いかにも達者になるであろう」

 病人の全身をさらに綿密に調べた結果、仲子は、その腹に大きな固まりがあるのを発見した。これが病源に違いなかろうと思えた。
 そこで、日夜、心を込めてその固まりの端から少しずつ押さえていった。すると、その翌日、20日ばかりも水以外に咽喉を通らなかった重患者が言うには、「お前が、昨日より腹を押さえてくれる加減か、今日は非常に気分が良い。これなれば、お粥が食べられそうじゃから、持ってきてくれ」とのことだった。
 これを聞いた兄の妻や親族の者たちは、長病人が一時治って飯を食べたら必ず出立(死ぬこと)だから油断はできぬとて、半ばは喜び、半ばは愁えていた。

 ところが、兄の容態はどんどん良くなっていく。仲子は昼夜兼行で、腹揉みにますます励んだ。
 その効験は著しく、日一日と腹の固まりが小さくなっていく。それと共に、患者の元気は日々にいや増し、食事も普通にとれるようになっていった。
 1週間で固まりはほとんどほどけてなくなり、2週間たつと完全に消え失せた。その頃には、あれほど頑迷に居座っていた病も、ぬぐい去るように消失していたという。
 それだけではない。病に倒れる前より太り、力も声量も遥かに増した、と兄が言う。
 あまり不思議だったので、以前診てもらった病院長を再び招聘し、診察を受けた。その医師は、「この患者は、我々の目からは到底快復の見込みがない死病と断定したのだが、今はスッカリ全治して、もはや服薬の必要なし」と、呆然として舌を巻いたそうだ。

 これが、仲子が慢性病を治療した最初のケースであるという。「筋骨矯正術」の誕生だ。
 仲子が注目した「固まり」は、あなたの腹にも実はある。ご自身の「腹を探って」みれば、大きさや形、硬さも様々な「腹の凝り」が、ゴロゴロわだかまっているのが発見できるだろう。
 初心者でも簡単に行なえる「腹の探り方」は、以下の通り。

 床の上に伏臥し、ソフトボールを腹の下に敷く。爪先は立てる。全身リラックスして、ボールに腹と背中の重さをそっくり委ねる。
 そのままゆっくり、体全体を前後左右に(床に対して平行に)あれこれ移動させ、腹の下でボールを転がしていく。
 呼吸は常に止めないように。食後1時間は、控えること。

 たちまち、ボールが「それ」にぶつかるだろう。ボールが進みにくくなり、同時にギリギリ引き絞るような鈍い痛みが起こるので、すぐわかる。それが、「ブロック」だ。中には握り拳より大きいものもある。ブロックの位置、形状、数は、人によってそれぞれ違う。
 仲子の直感通り、これらのブロックが様々な病の元(コア)だ。
 この修法でブロックを刺激すると、「病苦の感覚」が直ちに励起される。腹を圧しているのに、背中や腰、首などが痛くなることもある。とにかく苦しくてイヤな感じだから、それが「病」のエッセンスであることは誰にとっても明らかだろう。
 それと直面するには、少しばかり勇気がいる。しかし、ブロックと波長を合わせることなしに、それを「ほどく」ことは決してできない。適当に指先でグイグイ押し込んでみればわかるが、そんなことをすればブロックは一層硬くこわばっていくだけだ。
 仲子が、兄の腹をただ「押した」のではないことがわかるだろう。通常のやり方では、腹のブロックをほどくことは非常に難しい。
「端(エッジ)から少しずつ押さえていく」のがコツだ。縁[へり]から中央へ、ではなく、皮膚面に対しまっすぐ押さえる。これが直感的に最初[はな]からできてしまったというのだから、仲子の天才ぶりに驚かされる。

 話を戻そう。
 兄の病を契機とし、筋骨矯正術に開眼した仲子であったが、それより後は、隣家の子供が肘が外れたから治してくれ、村内の若者が相撲を取って脚を痛めたので治してくれ、頭痛がするから治してくれ、歯が痛いから治してくれ、隣のお婆さんが中風が起こったから治してくれと、村の病人のほとんど全部が彼女を頼って来るようになった。それが一郡、二郡、三郡、四郡と広まり、但馬一円の重患者の多くが毎日詰めかけ市(いち)をなす有り様と相成(あいな)った。
 これらを皆、筋骨矯正術をもって治療し、「全部とはいわぬが、まず9分9厘までは全治した」という。
 病人が1人でも治る上は、たとえ学問はなくとも道理に間違いはないものと深く確信し、頼みに来る人々に対しては、力が及ぶ限り治療をしていた。

 その頃、和田山の警察に大島という警部がいた。この警部は矯正術のことをよく知っていたので、署長が怪我をした時、仲子を紹介した。
 その署長が初めて訪れてきた際、「ここで整骨をやっているという話だが、どういうことをするのか」と尊大な態度で尋ねたそうだ。
 仲子は、「患者を診なければわかりません」と答えた。
 さらに署長は、「自分で考え出した治療だというが、一体効くのか効かないのか」と無遠慮に言う。
 これを聞いた仲子は非常に憤慨し、「若い女でも自信があればこそやっているのだ。効くか効かぬかわからないようなものをする道理がない」といって署長の治療を拒絶した。
 大島警部はその由(よし)を聞いて大いに驚き、折り入って頼み込んでやっと治してもらったという。後日署長は人に、「田舎では珍しい人だ。口八丁手八丁というのは、あのような人のことをいうのであろう」と語ったそうだ。

 明治20年の冬、生野銀山で当時長官を務めていた朝倉盛明に招待されたことがあった。
 その時朝倉は、仲子を様々に試し、最後に2、3名の医師、無病の者と虚弱の者をそれぞれ数名ずつ、及び長官自身が列席の上で、仲子にこれらの人々の診断を命じた。
 仲子は一々診察してその容体を述べ、「もし、この診察が実際に反していれば、私の治療を受けるには及びません」と自信を持って述べた。
 ところが、その結果はいずれも的中していたので、一同は驚き、用心深い長官もこれには大いに心動かされ、仲子に半年ばかり滞在を乞うて、家族ともども治療を願ったのであった。
 朝倉は仲子に心服し、その後、彼女が関西方面に出た時、いろいろと便宜を図っている。

 明治24年(43歳)、男子を出産。健一と名づける。この子が大患にかかり、その介抱看護の際、仲子は一種の霊感を受けて、病気治療の極意を会得したといわれている。
 明治26年からは、愛児を夫と夫の弟夫婦に託し、治療に専念するようになった。
 町医者に通って年中薬餌(やくじ)に親しんでいた慢性病の人々が仲子の治療を受けて治るので、それを聞き伝えてさらに多くの人々がやって来るようになった。医者の中にはそれが癪(しゃく)にさわり、迷信呼ばわりしてこれを中傷し、かなり卑劣な手段を使って迫害を加える人間も出てきたという。

 明治28年(47歳)、仲子は自らの治療法が前人未発の手法であることを悟り、その研究完成のため没頭し、1人でも多くの病人をいやしたいという考えから、夫の賛同を得て国を出、大阪で開業することを決意した(その翌年、神戸へ移る)。
 その頃の田舎では、女が都会へ出て仕事をするということだけでも村中の驚異であった。だから、「百姓がいやさにあんなことをなさる」とか「国を離れるのは自分勝手に振る舞いたいからだ」「女でありながら何という極道者だろう」など、女の身としては耐えられないような言葉を、周囲の人々から浴びせられたという。
 が、仲子は固く信ずるところがあり、また抑え難い強い大きな念願があったために、これらの批判や嘲罵(ちょうば)に耐えて家庭を離れ、愛し子を残して出かけたのである。

 明治30(49歳)年、京都へ移転。碩学(せきがく)高徳をもって一世の崇敬を受けていた天龍寺・峨山禅師の病気を治療。翌31年、峨山和尚の禅堂に入ることを許された。女性入堂の嚆矢(こうし:物事の初め)である。
 禅師の仲子に対する信頼は非常に厚く、ある時雲水たちに、「このお婆は我々の道で言えば智識である。女と思って侮ってはならないぞ」と語ったそうだ。

 筋骨矯正術の名声は大いに上がり、高島屋店主や金閣寺住職など、各界の著名人が次々と仲子の手によりいやされていった。
 明治32年には、南画家の富岡鉄斎を病から救っている。富岡は、「あなたは2千年前の人が再来したというものじゃ。2千年前には皆、人の病気は行氣術(こうきじゅつ)という揉み治療で治したものだ」とて、「行氣堂」と書し、額にしつらえ、折釘まで添えて持参したという。
 愛国婦人会の奥村五百子(いおこ)とは特に気が合い、帯を交換して姉妹の誓いを立て合った。
 神経衰弱と胃腸病のため、東京から京都に来て静養していた頭山満(とうやまみつる)を治療したのもこの頃だ。それについては、面白いエピソードが残っている。
 最初、仲子が頼まれて頭山の診察をした際、頭山自身は「ヨク頼む」と言ったが、立派な風采の6人の付き人は、質素な身なりの仲子を侮り、挨拶一つしなかったという。
 その傲慢な態度を周囲の人々が憤り、悔しがった時、仲子は次のように淡々と言った。「今に見てござれ。真に頭を下げさしてごらんにいれます」。
 果たして4、5週の後、初診の際についてきた者を含めた8人が頭山に付き添ってきて、「先生がおかげをもって追々全快に近づかれ、ありがたいことであります。何分今後ともよろしくお願いします」と、一斉に頭を下げたそうだ。

<2009.08.13 寒蝉鳴>