明治42年(1909年)の東京移転後、仲子は常に写真師を待機させておき、患者1人1人の施術前と施術後(1〜3期終了時)の姿を撮影させたという。
それら100年前に撮られた写真の一部を、つい先日、奇跡的に入手した。早速、読者諸氏と分かち合いたいと思う。
左から順に、第1期、第2期、第3期後だ。
同時期の患者写真の中に細川潤次郎(枢密院顧問、貴族院議員副議長)の姿もあったので、仲子の行跡年譜(各年に治療した著名人の名が多数記されている)に照らし、大正5年頃のものとわかる。写真の但し書きには、「東京S.T.氏 胃腸病、神経衰弱、全身衰弱。全快」とある。
ここまでの激変は些(いささ)か極端な例としても、歪んだ身体が真っ直ぐになり、体型から顔つきまでスッカリ変わってしまうといった実例は、筋骨矯正術においては決して珍しくなかったようだ。
最近、井上仲子・健一親子や筋骨矯正術に関する新たな情報が、私の元に一気に集まり始めた。これまでご紹介してきた内容が、決して虚偽や誇張でなかったこと、そして私の解説が見当外れの「スジ違い」なものでなかったことを、次々と確認しつつある。
腹の筋に関してのみ、今のところ情報不足で、最終的な解答は得られていない。が、健一の施術を実際に体験した人や、治療の様子を見たことがある人たちの話を直接聴き、「こんな風にやっていた」「こんな感じだった」という証言を総合することで、その実体が朧(おぼろ)げながら観え始めてきた。
仲子昇天後の、健一の消息・活動についても、多くの新情報を得た。
第二次大戦たけなわの頃、健一は強制疎開で東京から郷里の実家に移り、終戦後はそこをベースとして東京、大阪、伊勢で巡回治療を行なったそうだ。
戦前には、天皇の治療まで依頼されていたというから、その腕前のほどがわかる。
仲子同様、晩年に到るまで朝5時から深夜まで施術に没頭する生活を送った。と同時に、多芸多才で、休診日には釣りや相撲観戦に出かけるなど、豊かで実り多き人生を謳歌したようだ。
第6回の体験談・エピソード1でご紹介した川喜田久太夫(伊勢の実業家で、「東の魯山人、西の半泥子(はんでいし)」といわれた天才的芸術家・川喜田半泥子)など、ユニークな人々とも終生交流があった。
昭和39年没(74歳)。
力を込めた力士の下腹丹田に、健一が揃えた指先をそっと当てるとつけ根まで沈み込んでいったとか、泳いでいる魚をサッと両手で捕らえるのが得意だったなど、健一がただ者でなかったことを示すエピソードも数多く残されている。毎日数多くの患者たちに施術していたが、その手は絹のように滑らかで柔らかだったという。
健一の写真も初めて手に入ったので、ご紹介しよう。撮影年月日は不祥、隣は妻・昌枝だ。
充実した生の歓びが、全身から力強く放たれているかのようだ。患者たちの中には、健一を人生の師として慕う者も少なくなかったという。今でも、毎年墓参を欠かさない元患者もいる。
健一の手になる書や絵とも、観の目で向かい合っていただきたい。
輿楽(よらく)。114×41センチ。仏教の「抜苦与楽」から来た言葉で、<楽>の字を重視する私たちヒーリング・アーティストにとって、非常に意味深い作品といえる。仲子も一時期、「輿楽堂」という堂名を使用していたことがある。
無題。19×19センチ。日本画は、山元春挙(近代京都画壇の重鎮)から手ほどきを受けたという。
もう一度、最初にご紹介した3枚の写真を観てみよう。
こういう変化を体格に引き起こすには、腹の中でも、特に横腹の筋肉(内外の腹斜筋と腹横筋)の弾力性を増大させる必要がある。
健一の術を実際に体験した人たちの話によれば、まず最初に仰向けで腹を押さえられるところから、毎回の施術は始まったという。いわゆる先腹(さきはら)だ。
腹がぐっと大きくたわむほどの圧力が、片手で一気にかけられ、そのまま数分以上じっと保たれる。この間、もう一方の手が腹のあちこちを様々に微調整していくこともあった。腹を押さえる場所は、人によってそれぞれ違っていたようだ。
「何をされているのか、何が起こっているのか、さっぱりわかりませんでした」・・・どの体験者もそのように言う。終わった後も、内的感覚の劇的な変化といったものは特に感じられなかったそうだ。しかし、思わしくなかった体調が、施術を受けるたびにどんどん良くなっていったことは、紛れもない事実なのだ。
健一は、腹の筋肉や筋膜を骨から引きはがすように伸ばしていたのだと、私は思う。腹直筋をクライテリア(基準)とし、それが左右均等に、真っ直ぐになるよう、腹全体を調律していたのではないか? 要するに、腹のストレッチだ。
同じように腹を押さえても、意図のいかんによって、行為の結果(効果)と身体感覚は、まったく別のものとなる。例えば、掌底(手のつけ根部分)を使い、自分の片方の脇腹を軽く押し込んだ状態で、2つの方向性へと交互に注意を向けてみるといい。2つの方向とは、掌側(腹の真ん中へ向く)と、甲側(脇腹を回って腰を向く)だ。
前者では、腹を押さえている(腹が押さえられている)という以外、特に感じるものはないだろう。普通の人は、皆、意識がそちら側のみに偏っている。
ところが、その反対方向を意識するとどうなるか? 脇腹がピンと隙間なく張り、腰椎がぐっと横に引かれるようであれば、あなたは正しく実験手順に従っている。
腹を押さえている手は、何も変えない。ただ、自分が何をやっているのかという「意図」を切り替えるだけだ。正確に行なえば、意図が身体に及ぼす影響力の大きさがよくわかるはずだ。
腹のスジについて正確に示し、語れる者は、現代には1人も残っていないと断じて、どうやら差し支えないようだ。が、「先腹」以外の筋骨矯正術の具体的手法が、ほぼ完全な形で今も人知れず保存されていたことを、私たちは最近発見した。
井上健一に長く仕え、その直伝を受けた人から、我々は筋骨矯正術を学ぶことができたのだ。
「その人」については、名前も素性も決して明かさないと約束したので、詳細は省く。ただ、職業治療家でないことだけを記しておく。最初、「自分は治療の専門家ではないから・・・」と謙遜・謝絶する相手に対し、「15分で結構ですから、ちょっとお話を伺うだけでも・・・」と半ば強引に上がり込んだものが、あれこれ熱心に質問したり、お話を聴いているうちに、「では、ちょっと体験してみますか」という流れとなり、気づくと7時間が経過していた。そこまで熱心ならば・・・自分が知る限りのことをすべてお伝えしよう・・・、ということになったのだ。
●触れ合う時は常に真っ直ぐに(皮膚面に直交させる)。
●決してぐいぐい揉まない(真っ直ぐの線を崩さない)。
●手を叩きあわせる(かしわ手を打つ)ことは健康に良い。
●体の中身の形を感じながら施術し、その形を歪ませないように。
・・・これまで我々が独自に探求し、見出してきたタッチ要訣とまったく同じ内容を、筋骨矯正術の秘訣として聴かされた時の、私の感動と驚きを想像してみていただきたい。
未知のヒーリング要訣——独力で探求していたなら、発見・修得までに10年20年、あるいはそれ以上の歳月を要していたかもしれないようなもの——も、健一の教えの中にはいくつか含まれていた。教わらなければ、一生知らないままで終わった可能性もある。
燦然と煌めく宝石の如きこれらのヒーリング極意・奥義が新たにもたらされたことにより、ヒーリング・アーツの全修法を、一挙に数段階以上バージョンアップすることが可能となった。そして、筋骨矯正術もヒーリング・アーツとクロスオーバーすることで、さらなる精確さ、和らぎ、学びやすさを備えるようになった。
私たちがこれまで歩んできた道は、間違っていなかった。その確信が、さらに力強くしっかりしたものとなった。
ハレルヤ(楽し)!と、天地に向かって全身で叫びたい気分だ。
有り難い。
もったいない。かたじけない。
なにゆえに、かくも絶大なる大恩寵に、我々は恵まれ続けるのか?
拝跪(はいき:うやうやしくひざまずくこと)し、合掌し、かしわ手を打って、天地神明に感謝を捧ぐ・・・私にできることは、ただそれだけ・・・・。
井上健一がかつて日々施術を行なっていた、聖地ともいえるその同じ場所で、私は筋骨矯正術を黙然(もくねん)と伝授された。
仲子・健一から発せられた大いなるヒーリング波紋が、時と空間を越え、一気に我が身の裡へと注ぎ込まれてくるのが、ありありと感じられた。
実際に筋骨矯正術を学んでみて一番驚いたのは、それがただ単に腹を揉むだけの単純なヒーリング法ではなかったことだ。
まず最初に、受け手をうつ伏せにし(座った態勢でも行なえる)、その背中に施術する手法を授かった。
背骨の両脇にある「背すじ」を中心として、もっぱら親指の腹で働きかけるのだが、一見指圧のように見えて、その実質・効果はまったく異なる。
今回の発掘・調査旅行に同行した1人は、背骨両脇を上から下へと軽く施術された後で立ち上がると(時間にして数分)、見た目にもハッキリわかるほど姿勢が激変した。当人は、タイのワットポー(タイ古式マッサージの総本山)やバリ島を始め、内外各所でいろんなマッサージ、指圧を体験したことがあるそうだが、「こんなに凄い効果を味わったのは初めてだ」、と感激していた。
各種整体法などを受けた経験がある別の同行者は、「軽く押されているだけなのに、体全体がプレスされているみたいに床にぴたっと密着し、どこにも逃げようがない感じがした」、との感想を述べていた。やはり、「こんな感覚は、他所では1度も味わったことがない」そうだ。
言葉による細かい説明はほとんどない。
施術体験1回、観取り稽古1回、術のチェック(できているか否か)1回が原則の、真剣勝負の如き伝授。
こんな高度な術は、毎日習って真剣に練修を積んだとしても、体得までに数年〜10年以上かかるのでは、と最初は眩暈(めまい)にも似た感覚を覚えた。が、ヒーリング・アーツ流の受け身態勢をフルに稼働し、とにかく全身全霊で感じ、観、聴くことに努めた。
どこをどうする、なんて瑣末なことには、一切注意を払わなかった。何も考えず、ただひたすら受け、容れた。
自分でも驚いたことに、翌日にはほぼ同じことができるようになった。約1週間の後には、オリジナルな応用手法を様々に紡ぎ出せるまでになった。学習能力を飛躍的に高めるヒーリング・アーツは、筋骨矯正術にもちゃんと通用したのだ。
仲子を「通身是手眼(つうしんこれしゅげん)」と評した峨山禅師の言葉の意味も、今や自らの身体をもって生理的に理会できる。手眼(眼がついた千手千眼観音の手)とは、手を通じて自分自身の身体内をあまねく照らし、観(感)ずることだ。そういう手で触れ合えば、相手の全身に作用を通じさせることができる。
例えば、体のどの場所でもいいから、指1本でタッチし、そっと押さえるだけで、受け手の満身にぐっと重みがかかるようでなければ、筋骨矯正術は使いこなせない。
力で押し込むのでは、もちろんない。体にある様々な「スジ(腱や筋肉を含む)」の本質を、いかなるものとして認識するか・・・それが術の成否を分ける重要なポイントとなる。スジとは、一方と他方を橋渡しするものだ。
これまで私は「腰」といえば脊椎の1点(狭いエリア)、腹といえば臍下(せいか)の1点を、先人・肥田春充のインストラクションに従い、意識してきた。私自身はそれで充分な効果を得られたが、腰と腹をもっと広く捉え、相照させつつ(相互に関連づけつつ)使う方が、さらに効率的で、無理・無駄なく熟達していけるのではないか、と、筋骨矯正術を学んでから考えるようになった。腰(腰椎)の左右にある太いスジ(腰スジとでも呼ぼうか)を、筋骨矯正術では重視するのだが、腰のスジは当然、腹のスジとも対応しているはずだ。腰(骨ではなくその左右のスジ)全体、(左右に分かれた)腹全体を整え、意識をこめ、スジを通せば、その結果として腰と腹にそれぞれの焦点が自ずと結ばれ、その両者がさらに腰腹間(骨盤腔内)で統合されて究極の中心(肥田春充のいわゆる正中心)を現出せしめる。
筋骨矯正術という巨大な潮流を迎え入れ、ヒーリング・アーツは今、さらなる成長・発展を遂げようとしている。
いかなる霊的なスジ合(絆)で、井上仲子、井上健一と、ヒーリング・アーツとは結ばれているのだろう? ・・・・・私にはわからない。
生の価値観において、私は仲子や健一と多くを共有してはいるが、まったく相容(あいい)れそうにない部分も少なくない。
私はただ、過去を見返す「眼」をもって、井上仲子・健一に向かい合ってきた。いやしの道をトータルに歩んだ先人の足跡を辿ることは楽しく、実り多く、探求の旅(ヒーリング・トリップ)を終えてみると、素晴らしい超越的叡知と術の数々が、私の<手>に残(ダウンロード)されていた。
ヒーリング・ネットワーク(いやしの絆)というヴィジョンに基づき、私は新たに授かった修法群を活用し、人々と分かち合っていくつもりだ。
——通身是手眼・終——
<2009.10.23 霜降>