仲子が43歳で生んだ息子・健一のことを、読者諸氏は覚えていらっしゃるだろうか?
この子が2歳の時、仲子は独りで家を出ている。おそらく、「高齢で初出産した子は、実の母親の元ではうまく育たない」、といった俗信によるものだろう。
健一は、明治34年10歳の時、仲子と京都で暮し始めた。治療に専念する母を助けるため、学校を欠席しがちだったが、成績は優秀だった。武術やスポーツでも優れた能力を発揮し、書や絵などの芸術方面にも非凡な才能を示したという。
健一は、少年時代の母の思い出について、次のように語っている。
「母は、時々患者衆を叱っていました。ある時、陸軍の将官の方が母から何か激しく小言を言われていました。軍人に対する尊敬を極度に持つ子供時代のことですから、私は不思議に思うと共に、母の偉さというようなことをつくづくと感じたのでした」
ある時、親類の若者が仲子に叱られ、持っていた短刀を取り出して自殺しようとしたことがあった。健一によれば、仲子はその時少しも騒がず、「お前にそのようなことができるなら、わしは見ていてやろう」と平然としていたため、相手は困り果ててしまったそうだ。
健一は16歳の頃から、この術(わざ)をもって世に立ちたいと考え始め、母が治療しているそばに座って、ずっとその様子を見守るようになった。
ある日、仲子に自分の決意を話したところ、彼女は別段何も言わず、ただ黙って、息子がその後もかたわらに座ることを許した。
治療に対する仲子の真剣さ、信念の強さに健一は心打たれ、苦労は多いが、その効果が顕著なことも知った。
「自分も是非弟子となって、この道のために尽くし、また母の手助けをしたいとの思いがますます強くなってきたのでした」・・・健一は後にそう語っている。
この道を極めるには、学業の余暇や学校卒業後という不徹底なことでは、到底体得することはできない。そのように考えた健一は、周囲の反対を押し切り、三高(京都大学の前身)を中途退学してしまった。
この時も仲子は、一切口を差し挟まなかったという。が、師弟の関係にしてほしいという息子の再三の願いに対しても、同様に沈黙を守り続けたままだった。
健一17歳の秋のことである。仲子は卒然、「お前の気持ちはわかったから、今日から弟子にしよう」と言った。喜んだ彼は、早速誓約書を書き、正式に弟子入りを果たしたのである。
時に仲子60歳。筋骨矯正術に対する信念と、人生の経験において申し分のない時期で、彼女としても弟子を養成する最好期であったといえよう。
仲子の指導は、決して生易しいものではなかった。
「教えられて初めて知り、注意されてから物事をするというようではダメだ。人の目を観て悟り、言葉なくして聴き得るようにならなくてはならない」というのだ。また、「患者衆にお治療をしてあげるのではない。させていただくのであるから、粗相をすな」と、言葉づかいはもちろん、起居動作に到るまで厳格であった。
その頃の日課は、朝は3時起床。まず屋内の掃除、次いで食事の用意、それが済むと屋外の掃除という順序で、5時にはもう最初の患者が来るので、それまでには控室に火を入れておかねばならない。冬にはかなりの努力が必要だったというが、健一はそうした試練にも耐え抜いた。
仲子がある日、「お前がこの道を極めて一人前となるまでに、わしが斃(たお)れるかもしれない。その時、お前はどうする考えじゃ?」と健一に尋ねたことがある。「私は国へ帰って百姓をします」と答えると、仲子は「それならよろしい」と大いに安心したという。
自らの修行時代を、健一は次のように振り返る。
「先腹(さきはら:最初に行なう腹への施術)をすることを許されるようになってからは、一層母の言葉は鋭く、また厳しくなり、注意も多くなりました。私もまた、母の一挙一動も見逃さないように、一言一句をも聞き漏らさないようにと努めました」
「治療についての注意を受けたのは、大抵夜の寝る前で、11時か12時頃でした。もちろん患者の前でも、先腹の悪い時は厳しく叱られました。それで、治療にみえる人々は、親子であるとすれば継子であるに違いないと思っていた方が多かったようです。しかし、私に言わしめると、本当の親子であり、一人前にしてやろうという考えがあったからこそ、人前をもはばからず叱ってくれたのであると思います」
夜の注意の時、仲子のキセルで2つ3つ叩かれるのは、決して珍しいことではなかった。
「そのようなうかつな心で、この治療ができると思うか。もっと心を虚しうして、その患者さんの心にならねばならない」
「いくら急いだといっても、今日の粗忽はどうした。あのようなことで大事に臨んでどうする。腹が出来ていない証拠だ。もっと自分の腹をこしらえねばならない」
「今日の失敗は何であったか知っているじゃろう」
時々、キセルが折れることもあった。
「私は手の空いている時は、必ず母のそばに座って、その治療を一心に見(観)、また考えました。診察の時などは、特に気をつけて母の態度を観、聴きました。また、寝につく時、自分の身体の筋について、いろいろと研究し、実験して、疑問の解決に苦心いたしました。
母は決して、普通の教師のような教え方をいたしませんでした。あくまで自分で工夫せしめ、自分で考えさせ、実地に当たって解決せしめる方法をとりました。ですから、私は苦心しましたが、母の一言はよく疑問を解き、また大きな暗示となりました。これは、この治療を体得する上からいって、正しい有効な方法であります」
「習うより慣れよ。この言葉は、この治療に志す者の寸時も忘れてはならない言葉であります。この治療は、話してきかせたり、手をもって教えたりするよりも、あるいは生理、衛生、病理、解剖というような現代医学の知識よりも(全然不要というのではありませんが)、この筋骨矯正術の原理を知った上は、それを自分の身体について研究し、また実地に当たって生きた経験を積み、もって自分のものを作り上げる覚悟が、是非とも必要であります。そのため、師のそばにあって、その言葉や治療に際しての態度——一挙手、一投足——に、終始注意していなければなりません」
素晴らしい才能に恵まれた者が、偉大な先達に導かれ、正しい努力を正しく継続したならば、「できる」ようにならない方が不思議というものだ。
健一はメキメキ頭角を現わし、仲子の晩年頃には、彼女に代わって患者たちを一手に引き受けるまでに成長した。体験者の証言によれば、その施術は仲子と何ら遜色のないものだったという。仲子と同様、初診の患者を一目観ただけで、身体の状態や歪みの原因を見抜くことができた。武蔵工業大学名誉教授・下田弘によれば、裏返したトランプの種類を言い当てることさえあったそうだ(『アーガマ』1995年135号)。
上は、最晩年の仲子の写真だ。
古希(70歳)の祝いを境に、仲子も徐々に老衰の影を現わし始めた。
その頃の仲子の様子を、健一の妻・昌枝は次のように語っている。
「母の生活は、まったく治療三昧というのでしょう、『少し身体の具合がお悪いようですから、ご用心して治療をお控えになっては』とか、『まだ充分回復されていませんから、もう2、3日治療を休まれてはいかがです』と申し上げると、もうご機嫌が悪いのです。治療をしていると、母の病気はどこかへ行ってしまうように思われました」
「朝は4時頃に起き、夜は10時11時頃におやすみになるのです。そして、起きている間は時々休まれることもありましたが、大抵は治療をされているのです。しかも、それが日曜以外は毎日のことですから、並々のことではありません。そして、疲れたとか倦んだという言葉や態度は、微塵も見聞きするものではないのですから、いよいよ驚きました。
このお治療に対する熱心と興味とは、晩年に到るも少しも変わりませんでした」
仲子は時々重い病気にかかった。治療に熱心なあまり、身体の具合が悪い時でも無理をし続けたためだろう。そして、いつも病気になる時は、治療の部屋から居間へ入ると同時に、ばったり打ち倒れるのだった。
家族の驚きは一通りでなく、早速手当てをし、気が確かになるのを待って医師の診察を受けるのだが、「その時がまた大変なのです」と昌枝は言う。
「気がつかれると、普通の病人のように病気を怖れて医師に頼り、薬を有り難がるようなことはありません。そばにいるお医者に対し、『お前さんにこの病気はわからない。もう帰っておくれ。用はない』などと言われるのでした」
しかし、仲子の回復がいつも非常に速やかなことには、医師も驚いていたという。寝床の中で、自分で自分を整えていたのだろう。医師は、「おばあさんだけは特別です」と、大抵のことは仲子の言う通りにしたそうだ。
75、6歳頃から、仲子が治療に出ることはずっと少なくなり、その後、床につくようになってからはほとんどなくなった。が、それでも1日に1人か2人治療することを常に希望していた。そして、治療を終えた時は、それは愉快そうだったという。
仲子の晩年は、健一という心強い後継者も得て、平和で満ち足りたものであったようだ。しかし、楽隠居のような考えは微塵もなく、生活は質素そのものだった。しかも、そうした質素な生活を、いつも「あり難い」「もったいない」と心から感謝していたという。
昭和4年、秋の深まりと共に、仲子は心気衰え、ついに10月14日、家族一同に見守られながら、そっと息を引き取った。「ゆっくり眠るよ」との言葉を最後に、安らかな永眠についたそうだ。享年、81歳。
早朝から深夜まで、暑さ寒さを厭わないのはもちろん、自分の体調の悪い時も病後も、押して人の病気のために治療に従事した。かくすること実に50余年、まさに「ゆっくり眠る」時は、この世を去る時であった。
葬儀の際、仲子を火葬する煙のみが、風になびくこともなく、真っ直ぐ真っ直ぐ、天へと昇っていったという。
「直」の字を好み、真っ直ぐな生涯を貫き通した仲子らしい、最後の幕の引き方ではないか。
<2009.10.18 蟋蟀在戸>