Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第2回 予言された天児

 田中守平は、明治17年(1884)、岐阜県東濃の寒村・武並(現在の恵那市武並町)に生まれた。
 時あたかも、明治18年第1次伊藤内閣発足、明治22年大日本帝国憲法公布、翌23年第1次帝国議会招集と、我が国は帝国主義への道をひたすら突き進んでいた。

 守平の波乱万丈の生涯について物語り始めるに先立ち、時間と空間をさらに遡り、読者諸氏を18世紀初頭の恵那へとお連れしよう。守平の人生に決定的な影響を与えた出来事が、その時、彼の祖先の上に起こっているからだ。

 徳川の治世中、最も華美を極めた元禄年間、諸国の藩主は奢侈・放逸に流れ、人民はしばしば困窮のままうち捨てられた。恵那地方一帯でも、餓死者が道端に横たわる惨状を呈したという。
 そしてついに元禄14年10月、領内380余箇村の庄屋が、武並の大庄屋・田中輿市[よいち]の家に集合し、一揆を企てるに到ったのである。
 この時、輿市がおもむろに衆を諭して言うには、「武器もなく藩主に敵対しても、とうてい勝ちを得ることはできない。仮に勝利を収めても、騒動の罪は免れまい。
 我に一策あり。あなた方のため、一命を差し出そう。その企てが空しく終わったなら、後はあなた方の好きなようにすればよい」と。

 彼は、妻子との水杯(2度と会えない別れの儀式)もそこそこに、その夜密かに村を抜け出し、苦労に苦労を重ねて江戸表に出た。そして、赤穂浪士討ち入りがあった元禄14年11月、輿市は時の大老・酒井雅楽頭[うたのかみ]の駕籠[かご]を遮り、藩主の暴政を訴えたのであった。将軍家への不敬は死罪とされていた時代の話である。
 その結果、元禄15年正月初旬、藩主更迭となって、領民は塗炭の苦しみから解放された。が、輿市は狼藉の罪により、斬首の刑を受けたのだ。
 誰もが涙し、感謝した。
 天保年間、人々は輿市の義徳を顕彰するため、堂宇を建立、「田中大明神」として祀り、その後永く例祭を欠かさなかった。

 時は移り変わって、明治の世となる。
 かつて田中輿市は、「我より十世にして、天児生まる」と予言したそうだ。自らの命を平然とさし出す並外れた胆力と、わずか2ヶ月で藩主交替を実現させた抜群の行動力。田中輿市という人物も、ただ者ではなかったのだろう。
 その輿市より数えて、10代目に誕生した田中家の子供たちの、守平は1人だったのである。
 出産直後、観相家が訪れて告げた。「この子、偉相あり。必ず天下の大乱を平らげ、民を救って名を成すべし」と。そこで、平和を守るという意味をもって守平と名づけられたが、ちなみに彼の「偉相」とは、次のようなものであったという。

1.釈迦と同じく衆生済度を示す孔穴(額中央の小孔)。
2.左右の耳朶両側の天孔。これは聡明の相であり、諸葛孔明もこの天孔があったことから、孔明と名づけられたという。
3.臍輪の上向。発達の相であり、達磨大師のそれと等しい。
4.両掌が一様な横紋で画されており、これは天下を合一する相で、豊臣秀吉もこうした手相の持ち主であった。

 以上に加うるに、生まれ年は徳川家康とその本命を同じくしていたというから、守平のそれは釈迦、孔明、達磨、秀吉、家康の五者を合一する、無類の絶相(!?)であったことになる。
 こうした事柄が、どれくらい現実を反映しているものなのか、私は知らない。しかし、輿市の予言や観相家の言葉を周囲の人々から繰り返し聞かされることで、幼い守平の心に強烈な自負心が植え付けられていったであろうことは、想像に難くない。

 観相家の瑞言が的中したものか、あるいは予言が人を造ったか、守平は3才にして書をよくし、5才にして詩文を綴るなど、神童ぶりをいかんなく発揮し始めた。さらに、6才頃からは異能が芽生え、遠方の事物を透察するようになったというから驚かされる。
 それが百発百中であったため、人々は不可思議な力に舌を捲いた。そして、いつしか守平を、「霊怪児」「神児」などと呼ぶようになったのである。
 普通の子供とはまったく違っていた。
 8才頃からは、非常な陰性を帯びて憂鬱となり、通学の他は一室に閉じこもってまったく外出せず、独りで端然と黙座するのを常としたという。
 8才の春、「今年、大地震あり」と予言。果たせるかな同年10月28日、美濃の国・根尾谷を中心として濃尾大地震が起こった。越えて9才の夏、大乱を予言すると、翌年日清戦争が勃発するなど、「神児」の名はますます高まっていった。
 
 11歳の時、守平は『美徳』という雑誌に、「忠君愛国士の平生」と題する一篇の論文を寄稿している。
「夕[ゆう]の電[いなづま]朝の露、寔[まこと]や人の一生は彌生[やよい]の春の櫻花[さくらばな]、其の花よりも尚ほ脆し、されば昔の人々が、蜉蝣[ふゆう]に比して人生の測り難きを嘆ぜしも、亦[ま]た無理ならぬ事ぞかし・・・」
 こんな調子で始まり、人生は必ずしも衣食のためのみにあらず、すべからく君国のため、偉大な功績を樹てざるべからずと説き、ついで「武」をもって世界を統一すべしと断じ、最後に外国人との雑婚を戒めて、文を結んでいる。
 議論の当否はさておき、守平の強烈な愛国精神と憂国の至情は、この頃にはすでに確固・断固たるものとして形成されていたことがわかる。また、そうした極端な思想が是とされ、称揚される時代でもあった。

 元来、田中家は美濃の旧豪として知られ、天指日命[アマノサスヒノミコト]より直系120余代、近郷一帯を領有する豪族であった。
 しかし、元禄時代に家財を投じて窮民を助け、あまつさえ輿市が斬首の刑を受けたため、それ以来家運は次第に衰えていった。辛うじて明治初年まで家督を保持してきたが、世が移り変わるにつれますます悲境に陥り、守平の幼少時はその極みというべく、まさに赤貧洗うが如きの生活であったという。
 歴代の家宝も売り尽くし、安倍晴明が自ら地鎮祭を行なって建てたと伝えられる大家屋が残るのみ。かつて380余人の庄屋(村長)たちが結集したその歴史的場所も、屋根は腐って雨漏りがし、塀は破れて風が吹き込み、住人は寒さをしのぐ衣服もなく、わずか1合の粥を一家7人ですするという窮状。同郷の小さな子供たちにまでバカにされ、侮辱された。

 こうした極貧生活にあっても、守平は常に模範優等生として通し、高等小学校を終えた。
 卒業後、ある医師の懇望に任せ、しばらくその家に仕えたことがある。しかるに、「多くを殺した経験がなければ、多くを救うことはできない」などと平然とうそぶく医家の実情を知るに至り(当時、抗生物質もまだ発見されていなかった)、「医はもと仁術と聞くのに、事実は殺人術に等しいではないか。こんなものを誰が敢えて学ぶものか」と、憤然としてその家を辞し、生家に戻った。
 が、そこは依然として貧苦の火宅。守平を待っていたのは、木の芽を採って食に代える窮状だった。
 その後、一代で巨万の財をなした親戚の1人が、跡取りがなかったため、守平を養子にと求めてきた。守平自身は気が進まなかったようだが、諸般の事情は拒むによしなく、一時その家に養われることとなったのである。
 居[お]ること数ヶ月、ある日、養父が守平を呼び、告げて言うには、「もし、おまえが読書を廃して実業につくなら、私の家財をすべて譲ろう」と。
 これに対して守平は、「十万金よりも、書物の1ページはさらに貴重です」と即答、席を蹴ってその家を飛び出し、2度と戻らなかったという。
 
 明治33年5月(16歳)、小学校の助教員を奉職。
 任地に赴いたのが、ちょうど東宮慶事の当日で、村民はことごとく校舎に集合し、祝宴を張っていた。
 守平はこの時、一場の挨拶として、起[た]って滔々演説を試みること3時間。つぶさに現代教育の弊害を述べ、次いで文部省及び県郡の視学(学事の視察を任務とする官職)攻撃に及ぶ。聞く者は皆、冷や汗を流したという。
 その後も、校長が指導法研究の必要を説けば、守平は「教育の目的は活人を創ることにあり。いたずらに教授法にあてはめて死物を作ることは、教育本来の主旨に反する」と反発し、郡の視学が来て、優等生も劣等生も同一歩調で指導する必要を説くと、「高能者と低能者を同一に扱うのは、偉才をして凡才化させ、低能者に対しては不可能を要求するものにほかならず」と英才教育を主張するなど、彼の理想と世間の常識は至るところで激しくぶつかり合い、火花を散らし始めたのであった。

<2010.02.22 猫の日>