Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第2章 超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜 第9回 霊子術の偉功 前編

 太霊道本院の開設からおよそ1年後、大正6年5月20日付の「東京朝日新聞」(現在の「朝日新聞」)で、その様子が、次のように紹介されている。
「・・・九段招魂社(靖国神社)左側の電車路を入って、麹町1番町42番地に檜の香り高い大表札、墨痕鮮やかに周律碑額法の筆勢たくましく『太霊道本院』と銘打った一構え。朝から晩まで人の出入り繁く、しかもその来訪者の服装から見て、社会のあらゆる階級を網羅しているもののごとく、制服厳めしき軍人も来れば、フロック姿の学者、博士学士も来る。医者も来れば、実業家も来る。華族もあれば令嬢貴婦人もある。
 さらに驚くべきは、時として1日のうちに2千通以上の手紙が郵便脚夫によって運び込まれることがあり、少ない日でも3、4百通を下らない。
 これは、近来かなり有名になった太霊道の総本部で、その主元という白面豊頬美髭の男子こそ、宇宙の大道を悟り、霊理の学を拓き、霊子の作用を教える田中守平氏であると知れば、訪客来書の多い理由もわかるべし・・・」

太霊道本院。関東大震災で烏有に帰した。

 太霊道の門を叩く医師の数は、かなり多かったらしい。「千をもって算する(千単位で数える)」ほどであったという。その1人、望月大祐の体験談をご紹介しよう。
 望月は、籍を医業において30年のベテラン医師だったが、当時の医療法では及ばぬ患者と数多く接してきて、常に疑念と苦悩を抱えていた。
 ことに、自分の妻が25年間も子宮痙攣とモルヒネ中毒に苦しんでいることは、彼にとり最大の悩みであった。医薬に摂生と、百方力の及ぶ限りを尽くしたが、これを救治する術[すべ]はなく、ただ姑息に流れるのみであった。一家は、さながら火の消えたようになり、ついに病婦は死の遅きを恨むまでとなった。
 ある日、望月は、太霊道の新聞広告を目にした(1ページ大の新聞広告は当時の人々を驚かせ、精神界で物議をかもしていた)。そこには、「霊子作用の遠隔療法」とあった。
 半信半疑というよりも、「寸毫といえどこれを信じなかった」と望月はいう。しかし、妻の苦痛呻吟を傍観座視するに忍びず、3週間を期して遠隔療法を依頼したのである。
 科学万能主義で医術に心酔する望月は、周囲の人々に対してはもちろん、妻にさえ固くこれを秘密にして、霊子療法を受けつつあることを知らさなかった。
 しかるに、9月半ばから開始し翌10月2日をもって、「多年の痼疾を忘れ、一滴の薬液をも要せざる神奇霊妙なる快癒」が起こり、本人はいうまでもなく、一家の喜悦はたとえるにものなく、「暗黒裡より光明界に出[いで]て愁雲たちまち散じるがごとく」、歓声が家にあふれるようになったというのだ。
 諸多の医師もことごとくさじを投げた頑症が、短期間でぬぐい去ったように完治したことに対し、医師である望月は、始め「これは夢ではないか、本当に現実なのか」と、かえって自分自身を疑ったそうだ。
 無理もない。
 しかし、事実は事実だった。太霊道研究の必要を大いに感じた望月は、まず通信教育のテキストを取り寄せて専心練修。翌年、妻と相携えて上京し、守平から直接伝授を受けた。
 帰宅後、直ちに様々な疾患へと応用しながら、朝夕努力を重ねたところ、不思議なるかな、霊能が発現し、目を閉じると相手の疾患の所在と状態が判然と透視できるようになったという。
 しかも、治癒にしたがって疾患の暗影が漸次希薄になっていくことも透視できるではないか。
 望月は、狂喜して次のように述べている。
「手を以[もっ]てその患部に作用を伝うれば、何らの薬物を用いることなくして、苦痛はたちどころに消散するがごとき、まことに我々太霊道の門下にある者は、眼にレントゲンX光線以上の技能を有し、手指にラジウム以上の効力を有するものというべし。
 これ、皆、主元田中守平院下の恩賜なれば、とこしなえにその鴻徳を尊拝敬謝するものなり。・・・後略・・・・・」

 こうした体験は、太霊道ではそれほど珍奇な出来事とはみなされてなかったようだ。
 同様の能力[ちから]に目覚める医師たちが、次々と現われた。雑誌『太霊道』(大正6年創刊)には、それらスーパードクターたちによる難症治療の報告が、それこそ数え切れないほど掲載されている。
 それだけではない。驚くべきことに、医術とはまったく無縁の「シロウト」たちまでが、治病能力を得て、病に苦しむ人々をどしどし救っていったのだ。
「余もまた唖者を治癒せしめた!」
「顕動起こり痼疾癒ゆ」
「友人のマラリア熱、治癒」
「脱臼及び肋膜炎全治の実例」
「霊子術を出産に応用したる一例」
「肺炎の起死回生的治癒例」
「瞬間に歩行ができた」
「わずか1ヵ月で胃癌の全治」
「14、5年来の座骨神経痛癒ゆ」
「医学生、遠隔の感応により飛動(注:身体が自然に跳び上がること)、疾病また癒ゆ」
「舞踏病の治癒 治療わずか1回にて全治」
「瞬間に顕動体得、自己治療によりて50年来の宿痾ぬぐうがごとし」
 ・・・・『太霊道』誌をひもとくと、これら歓喜の大文字[だいもんじ]が踊るようにして目に飛び込んでくる。

 太霊道の霊的治療とは、いかなるものだったか?
『新思潮太霊道』(中根滄海・著)によると、
「太霊道本院の治療部に、日々参集し来る患者の病症は、ほとんどすべての種類を網羅せり。いずれも数年もしくは数十年の疾病にて、すでに大医に見離されし者が最多数を占めし。そのうち、いまだ医学上ほとんど根本治療の発見されざりし種類に属するもの多く、回復の見込み薄弱なる患者すこぶる多し」
「太霊道施術の方法というのは、すこぶる簡明なり。ただ患者と二尺ないし三尺を隔てて相対座し、あるいは施術者が患者に対して、単に指頭を向けるのみのこともあれば、あるいは一々患者へ施術者の手を軽く押し当てることもあり。その時間は二、三分ないし七、八分に過ぎず。その結果、ただ今まで病苦に堪え得ざりし症状も、夢のように消えて全治すといえり」
「ことに不思議なるは、遠隔治療ということなり。遠隔治療とは、患者に接することなく、遠距離において治療を施すことなり。もし面識者にあらざれば、患者の姓名及び住所と写真、または筆蹟を送れば、これによって施術し得られるなり」

 筆者の中根は、あまりに簡単な方法で病気が治るのを見て、最初は催眠術の類い、あるいは幻術ではないかと疑ったらしい。しかし、専門の医師が大勢講習を受け、太霊道霊子術を修得して、自ら霊的治療を行なうのを目の当たりにしてから、治療の効果に関する正確な調査を開始した。
 その結果、治療中のものも含めて、回復率は90%以上の好成績を示していることがわかったのだ。当時の医学においては、100人のうち30人の治療をなし得るのみといわれていたことを考えれば、この数値がいかに高いものかおわかりだろう。

 守平が、霊子術で妻を救ったエピソードをご紹介しよう。
 話は、明治44年にさかのぼる。
 第7回で語った通り、この年、守平は内地官憲の圧迫を逃れて大陸に渡り、東亜の各地を遍歴した。
 その際、モンゴルの奥地深く足を踏み入れたことについては、第8回にてご紹介した通りだ。ところがこの時、蒙古人に暗殺されてしまったとの悲報が、故郷恵那に誤って伝わっていたのである。
 守平の妻・澄子は、長子を抱[いだ]いて嘆き悲しんだ。
 そして、心の晴れぬ日々を送り迎えするうち、大正2年、ついに重い病に倒れてしまった。当時の人々が最も恐れた肺病である。
 相応に手を尽くしはしたが、極度の貧困でとうていいかんともすることができなかった。日一日とやせ細っていく腕[かいな]や体を眺めながら、幼児をかたわらに、自ずから湧き出る涙をせき止めかねる日々が続いた。もう死を待つよりほかなかった。

 しかるに、春も老いゆく5月の末の一夜、武並村田中家の茅屋[ぼうおく]を訪れた長髪の一壮漢があった。誰あろう、田中守平その人だ。
 蒙古から東京へ一直線に向かう途中、「極めて秘密裏に」故郷へ立ち寄ったのだという。守平はこの時、何らかの特殊な任務を帯び、家族にさえ居場所を知らせず隠密行動をとっていたようだ。
 暗殺されたはずの人が、幽霊ではあるまいかと驚きの目を瞠る人々。本当に当人が帰ってきたことがわかると、久しぶりの再会に喜び合ったのもつかの間、守平は妻の病気のことを詳しく聞く暇もなく、すぐさま出立したのである。

 澄子の病気は、その後、ますます重くなるばかりだった。
 そして、月を重ねて8月となった。
 その年の夏は非常に暑く、健全な者でも堪えがたいほどなのに、病体の澄子にとっては一層苦しく、「この夏を持ち越すのは難しかろう」との医師の診断だった。
 腹膜炎、胃腸病、婦人病など、余病も併発し、ことに肺は左右とも冒され、1回に2合(1合は180㎖)くらいずつ、吐血・喀血がたびたびあって、あるいはこの1、2週間が難しいだろうとまで言われるようになった。

 そして、ようやく守平が東京から戻った。
 妻はとみれば、見違えるように甚だしく痩せ衰え、骨と皮だけになっているではないか。その手を取り、絶句する守平。そうしているうちにも、激しい咳と、おびただしい喀血は引きも切らない。
 守平は妻に向かい、「お前は本当に治りたいのか?」と尋ねた。
「もう1度だけ元の体になってみたいと思います。何分にも子供の将来が気にかかりまして、死ぬにも死なれませぬ」
「ヨシ、それならばきっと治してやる。元の体にしてやる」
 そのようにキッパリ言い放った守平だが、それは決して単なる慰めではなかった。

 彼は、直ちに太霊に向かって祈祷を込め、極めて熱烈に霊子施法を執り行なった。
 澄子も、やせ細った両手を合わせて祈誓した。
 しかるに、まったく不思議なことに、1日ごとに肺の方は咳嗽・喀血が少なくなり、腹膜炎も胃腸病も婦人病も、すべて病勢とみに衰えて軽快に赴き、10日目頃には別人のように回復していたのである。
 13日目に、守平につれられ1里(約4キロ)以上ある道程を歩いたが、何らの苦痛も覚えなかったそうだ。
 かくのごとくして順調に進み、一旦死を宣告され、実家では葬式の協議までされていたほどの重態から脱し、澄子は全快へと至った。
 その後、特別養生をすることもなく、ますます壮健を加え、9年後には健康な第二子を出産している。

 この次男出産と関わる、以下のような面白いエピソードもある。
 澄子が東京本院庭内に植えた一株の藤が枝ばかり茂って花が咲かないので、出産前年の7月、花が咲くようにという強い念を凝らして澄子が霊法を執り行なった。すると、1~2日経ってから立派にたくさんの藤の花が咲いたという。
 おりしも、東京本院で10日間の太霊道講習会が開かれていた最中の珍事であり、参加者たちはこの奇跡的なできごとに驚嘆の目を瞠った。
 この頃には、澄子自身も霊子術の使い手となっていたようだ。

 澄子は、季節外れの藤の花を眺めた時、どうも懐胎のように感じ、「きっとこの藤が満開の時、出産する」と周囲の者に告げたそうだ。
 その言葉通り、出産の日(大正11年4月30日)、季節が少し早いのに、その藤が満開であったという。
 植物と人の生命とには、特殊な霊的関係があることが、太霊道では認められていた。

 守平のヒーリング能力は異様なレベルにまで達していたらしい。
 大正11年、義母が危篤となった時、守平は澄子とひたすら枕頭看護に努めた。が、年来の虚弱ゆえついに回復することなく、まもなく他界した。
 当夜、7時40分、義母はいったん絶命したが、守平が霊融法を行なうと、体温、脈拍、呼吸等、すべて回復し、呼吸21、脈拍76(絶命前128)を数えるに至った。
 後にやや下がって、呼吸18、脈拍68程度を保ち、時々脈拍結滞、呼吸微弱となるたびごとに、守平が腹力を満たして霊法を行なうや、たちまち脈拍・呼吸共に回復する。
 驚異であった。
 その場に大勢集った親族や故旧たちは、この尋常ならざる光景を目の当たりにし、さぞや驚き、また戸惑いを感じたことだろう。
 だが、義母の意識はついに戻らなかった。
 是非意識を返さんと満身の努力を傾注する守平であったが、もはやいかんともすることができず、ただただ霊法によって脈拍・呼吸を保つのみ。
 11時50分、脈がまったく止まり、呼吸閉じ、体温退く。
 目撃者によれば、その永眠に際し、何ら苦悶の表情がなく、あたかも聖者の眠りにつけるがごとくであったという。
 これも太霊道霊法の効果に相違ない。そのように、寄り集った人々は噂し合ったそうだ。
 絶命後、満4時間に渡って体温、脈拍、呼吸が保たれたことは、まさに異蹟といわざるを得ない。

<2011.08.10 涼風至[りょうふういたる」>