Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第3章 そして光があった 〜ジャック・リュセイラン〜 第1回 盲目のレジスタンス・ヒーロー

[ ]内はルビ。

「自分が盲目であると知るのは、私にとって大変な驚きだった。そして盲目であるというのは、私のイメージとはまったく違うものだった。同様に、周囲の人々が考えているらしいこととも異なっていた。彼らは、盲目であるとは見えないことだと言った。自分が見ているというのに、どうして彼らを信じることができたろう?」(『And There Was Light』)

 ジャック・リュセイラン(1924〜1971)。
 ナチス占領下のフランスにおける盲目のレジスタンス・ヒーロー。ナチス強制収容所を生き抜いた男。大学教授(フランス文学)、作家。 
 そして、・・・全盲であるにも関わらず、「みる」ことができた人。

 ジャック・リュセイランはフランス・パリで、1924年9月19日に生まれた。
 若き岡本太郎が、芸術の都パリの地を初めて踏んだのが1930年(ジャック6歳)。以降、ナチス進攻までの約10年間をそこで過ごしているから、あるいはパリの街角のどこかで、2人はすれ違っていたかもしれない。
 ジャックの両親も芸術家であった。

 ジャックが7歳の時だった。教室で他の生徒たちとぶつかったはずみに机の角で頭を強打し、鉄製のメガネフレームが折れて眼球に突き刺さった。片目は眼球摘出、もう一方も網膜がずたずたになっていた。
 彼は完全に失明した。
 が、驚くべきことが、その直後に起きたのだ。
 彼の自叙伝『And There Was Light(そして光があった)』より引用してみよう(以下同)。

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ジャック・リュセイラン著『And There Was Light』。現時点では邦訳なし。

「・・・手術後、直ちにそれが起こったわけではない。というのも、その時私はまだ自分の目を使いたいと思っていたからだ、私はそれら(目)の通常の道に従おうとした。事故の前、自分が習慣的にものを見ていた方向を見ようとした。するとそこには苦悩が、欠如が、虚無のようなものがあって、大人たちが絶望と呼ぶもので私を満たした。
 ついにある日、それがやって来るまでに時間はかからなかったのだが、私は自分が誤った方向を見ていたことを理解した。それはとてもシンプルなことだった。度を合わさずメガネを作るのと同じような過ちを、私は冒していたのだ。私はあまりにも遠くを、そしてあまりにも物事の表面のみを見ようとしていたのである」

 それは単純な発見以上のもの、啓示であった、とジャックは言う。事故から数日後、父が散歩につれていってくれたパリのシャン・デ・マルス公園で、「それ」は起こった。

「私はその庭をよく知っていた。そこの池、欄干、鉄製の椅子などを。私はいくつかの木さえ個人的に知っていた。
 必然的に、私はそれらを再び見たいと思った。しかしできなかった。
 私はかつて空間だった実体の中へと自分自身を前方に投げ出したが、それは以前なじみ深かったものを何一つ含んでいなかったので、私は認識することができなかった。
 この時点で何らかの本能が——私はもう少しで肩の上に置かれた手がと言いかけたが——私の向きを変えさせた。
 私はもっと近くを見るようになった。近くのものを見るのではなく、私により近い世界を見る、という意味だ。外側の世界への視覚の動きにしがみつき続ける代わりに、内なる場所から内的にもっと遠いところを見るのである」

 ・・・まるで、ヒーリング・アーツの世界が語られているかのようではないか!
 私は以前より、「(超繊細な感覚に基づく術[わざ]について)目明きから学びたいものは特にないが、盲人には膝を屈して教えを受けたいことが多々ある」と周囲の人々に語ってきた。
 そして、積年の願いあるいは予感がようやく叶い、今皆さんにご紹介している1冊の本と巡り合うことができた。比較的最近のことだ。
 それは、驚異の書だった。そこには、私にもいまだ伺い知れぬヒーリング・アーツの超高度な境地・体験の数々が、あっけらかんと記されていた。
 視覚内向については、ヒーリング・アーツでも「観の目」とかメドゥーサ(強力な呪力の目を持つ古代女神)修法などと呼び、これまでもずっと説いてきたし、それを学び・錬ってかなりのこと(世界の形の中に秘め隠された生命力の本質を観る、など)ができるようになった者も少なくない。
 が、その程度はまだまだ入門レベルであって、もっともっと奥深い境地があるのだと、『And There Was Light』を読んで教えられた。心身自在程度の境地をもってうぬぼれ・懈怠している暇など、私たちにはないのだ。
 引用を続けよう。

「たちどころに、宇宙の実体がまとめて引き寄せられ、新たな意味を付与されてそれ自体の場所を占めるようになった。未知の場所から放射される輝きに私は気づいた。自分の外側であると同時に内側でもあるような場所だ。しかし輝きは確かにあった。あるいはより正確に言うなら、光が。それは事実だった。光が確かにそこにあったのだ。
 私は表現しがたいほどの安堵を感じた。あまりに幸福だったのでもう少しで笑い出しそうになったほどだ。祈りが聞き届けられたかのように、確信と感謝がやってきた。私は光と歓び[ジョイ]とを同時に見出した。そして私は躊躇なく言うことができるが、それ以降私の経験の中で光と歓びとは決して分離されることはなかった。私はそれらを一緒に味わうか、両方とも味わわないかのどちらかだった」

 彼は盲目だったが裡なる光を観て(注:以降、ジャックの内的視覚体験を<観>の文字で表現し、通常の目で外側のものを<見>ることと区別する)、それをずっと観続けた。
 ジャックはそのことをむやみに他人に吹聴しないだけの賢明さを備えていた。14歳頃までには、自らの内面で常に新しくなり続けるその体験を、彼は「秘密」と呼ぶようになっていた。そしてそれを最も親密な友人だけに話したのである。

「彼らがそれを信じたかどうか私は知らない。しかし彼らは友人だったので、私の話に耳を傾けた。そして私が彼らに語ったことは単にそれが真実であるというだけでなく、美しく、夢のようで、魅惑的で、ほとんど魔法のような価値あることだった。
 驚くべきことは、これが私にとって魔法などではまったくなく、現実であったということだ。目が見える人々が自分の見えるものを否定できないのと同様、私はそれを否定することができなかった。
 自分そのものが光ではないことを、私は知っていた。私はエレメント(構成要素)として光の中に浸かっていたのだが、目が見えなくなることによってそれが突如として間近になったのだ。光が湧き上がり、拡がり、物体の上に留まってそれに形を与え、そしてそこから去っていくのを、私は感じることができた。
 私が言おうとしているのは撤回、または縮小だ。というのも光の反対は決して存在しないからだ。目明きは常に盲目の夜について語る。そしてそれは彼らにとってごく自然なことのように見える。
 しかし、そういう夜は存在しないのだ。なぜなら目覚めているあらゆる時間、そして夢の中でさえ、私は光の奔流の中で生きていたからだ。
 目がなくても、目があった時より光はもっとしっかりしたものになった。ものが明るく照らし出されていようが、あまり明るくなかろうが、あるいはまったく照らされていなくても、同じ違いのなさがそこにあるようになったことを覚えている。私は全世界を光の中で見た。光を通して存在し、光ゆえに存在した」

「光(の超微細粒子)につかる」感覚は、ヒーリング・アーツ修養者が現在しばしば味わいつつあるものだ。
 自分の籠手(こて:前腕)とヒーリング・タッチしてみれば、籠手の裡に「光が湧き上がり、拡がり」「留まってそれに形を与え、そしてそこから去っていく」のがハッキリ感じられる。
 ジャックが言う光とは、私がこれまでマナと呼び説いてきたものとダイレクトに通じ合うものだ。
 彼が言う「ジョイ(悦び)」とは、私たちのいわゆる<樂[たのし]>にほかならない。
「撤回」「縮小」「向きを変える」は、ヒーリング・アーツの基礎にして奥義であるレット・オフ。
「外側であると同時に内側でもあるところ」を、ヒーリング・アーツでは「超越」「超越的」「超越界」などと呼び習わしている。

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 ジャック・リュセイランに関する資料は、現時点では、上記図書を含む2冊の著書が手元にあるのみだ。写真も、著書の表紙(上記写真)に使われている古ぼけた数葉のみ。
 これらの、量的には乏しい・しかし内容的には芳醇・豊穰なる、資料を駆使し、ジャック・リュセイランの驚くべき内向体験の数々を、次回以降、詳しくご紹介し・検証していく。

<2012.01.30 水沢腹堅>