外的な視力を失ったジャック・リュセイランが描写する、驚くべき裡なる感覚世界の物語りに、共にしばし耳を傾けようではないか(以下、引用はすべて『And There Was Light』より)。
「色も、虹のすべての色も生き残った。線を描き色を塗ることを愛した子供だった私にとって、色彩は予期せぬ祝祭となり、私は色と何時間も遊んで過ごしたものだ。そして今や色は、かつてそうであったよりもずっと御しやすいものとなっていた」
光がその色を物や人々の上に投げかけた、とジャックは言う。
父や母、出合う人々、道で行きすぎる人は皆、それぞれ特徴的な色を持っていた、と。
「それは私が視力を失う前には決して見たことがないものだった。
現在でも、この特殊な特徴は顔によって造られるあらゆる印象と同じくらい明確に、彼らの一部であるとの印象を私に与える。
とはいえ、色は単なるゲームに過ぎなかった。これに対して光は、私が生きる全理由だった。私はそれが井戸の水のように私の中で湧き上がるのをゆるし、それを楽しんだ」
何が自分の身に起こっているのか、彼は理解することができなかった。人々が言うのとはまったく正反対のことを、ジャックは経験しつつあったからだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。彼はそれを「生きて」いたのである。
光はあまりにも絶え間なく、あまりにも強烈だったが、彼はそれを疑ってみたこともあるという。
これは単なるイメージなのか?
そこで彼は、正反対のものを思い浮かべたり、注意を別のものに向けたり、時には光に抵抗しようとさえした。
「夜、寝床の中で自分一人だけの時、私は目を閉じた。肉体的な目を覆う時に私がしたであろうように、まぶたを下げた。
このカーテンの裏ではもう光を見ることはない、と私は独り言をいう。
しかし光はまだそこにあった。かつてないほどに澄み渡り、風がやんだ夕方に湖を見るようだった。そこで私は息を止める時のように、ありったけのエネルギーと意志力を総動員して光の流れを止めようとした。
起こったのは混乱、渦巻きのような混乱だった。だがその渦巻きは光であふれ返っていた。
試してみるたびに、私はこれを長く持続させることができなかった。おそらく2、3秒くらいのものだったろう。これが起こっている時、まるで何か禁じられたこと、生命に背くことを自分がしているかのようなある種の苦悶を、私は感じた。それはあたかも、空気と同じように、生きていくために私が光を必要としているかのようだった。私は光のとらわれ人だった。私は観[み]るよう運命づけられていたのだ。
これらの言葉を記すにあたり、私は再び実験を試みたが、同じ結果に終わった。違っていたのは、歳月を経て光の源泉はより強くなったということだ」
ジャックがこの実験を行なったのは8歳の時であった。彼は、それによって自分が生まれ変わったと感じ、新たな活気に満たされた。
「光を造っているのは私ではなく、光は私の元にやってくるのであり、それは決して私の元を離れようとはしなかった。私は単なる通り道にすぎなかった。この輝きのための控えの間でしかなかった。観ている目は私の中にあった」
だが、光が色あせ、ほとんど消え失せるような時もあった。
それはいつも自分が怖れている時に起こった、とジャックは語る。
「もしも、確信とともに運ばれることをゆるし、物事の中に自らを投じる代わりに、ためらい、計算し、壁や半ば開いたドア、錠の中の鍵のことを考えたりしたら・・・、もしこれらのすべてが敵意を剥き出して今にも殴りかかり爪を立てようとしていると独り言をいおうものなら、私は例外なしに体を打ち、怪我をした。
家の周りや庭、あるいは海岸を動き回るための唯一の簡単な方法は、それについて一切何も考えないか、またはできるだけ少ししか考えないことだった。すると私は障害物の間を、コウモリがするように動くことができた。
目を失ったことによる喪失は、恐怖によって初めてもたらされた。それは私を盲目にした。
怒りや短気も同じ効果を持っており、あらゆることを混乱の中に投げ込んだ。
1分前、私は部屋の中のあらゆるものがどこにあるかを知っていた。ところが私が腹を立てると、物たちは私よりさらに怒るのだ。それらは最もあり得ないような角に隠れてしまい、喧嘩をおっぱじめ、ひっくり返った亀となり、狂人のようにぶつぶつ不平をつぶやき、荒々しく観えた。
私は手や足をどこに置いたらよいのかわからなかった。あらゆるものが私を傷つけた」
このメカニズムは非常によく機能したので、いきおい彼は注意深くならざるを得なかった。
友だちと遊んでいる際、勝つことに熱心になったり、何が何でも一番になろうとしようものなら、たちどころに何も観えなくなった。文字通り、彼は霧か煙の中に入っていった。
「嫉妬したり不親切になることもとうていできなかった。そうした途端、眼前に目隠しの布が下りてきて、手足を縛られ転がされるからだ。突如としてブラックホールが開き、私はその中で手も足も出せないのだ。
しかし幸福で落ち着いている時には、確信を持ち人々のことをよく考えて彼らに近づく時には、私は光によって報われた」
ジャックが語っているのは、日本の古流武術で重視された「無念無想」の境地とも、相通ずるところがあるのではなかろうか? 日常生活における不動心の実践が、ここに見事に綴られていると私は感ずる。
「だから、私が非常に若い頃から友情と調和を愛していたからといって驚くことがあるだろうか?
そういうツールで武装されていた私は、道徳の法典など必要としなかった。私にとってこのツールは赤と緑の信号の位置を占めた。
どこで道が開いていて、どこで閉じているのか、私はいつでも知っていた。私は明るいシグナルを観さえすればよかった。それは私に、いかに生きるかを教えたのだ」
愛も、光と共にやってきた。
事故の後の夏、両親はジャックを海岸に連れていった。そこで彼は、自分と同い年の少女、ニコルと出会った。
「彼女は私の世界に、まるで赤い巨星のように、あるいはたぶん熟れたチェリーのように、入ってきた。私が確かだと知っているのは、彼女が明るくて赤かった、ということだ。
私は彼女を愛しいと思い、彼女の美しさはとても優美だったので、家に帰り彼女と離れて眠ることができなかった。なぜなら、そうすると私の光の一部が私から離れてしまったからだ。それをすべて取り戻すために、私は彼女を再び観つけ出さねばならなかった。まるで彼女が両手の中や髪、砂の上の裸足の足、そして声の中に光を持ち、それを私に運んでくるかのようだった」
「赤い人々が赤い影を持つというのは、どれほど自然なことだろう。暖い太陽の元、2つの潮だまりの間で、彼女が私の隣に座るためにやって来た時、私は日よけのカンバスの上に薔薇のような反射を観た。
海それ自身、海の青は、紫のトーンを帯びていた。
彼女が行くところにはどこにでもその後をついていく軌跡を、私は追いかけた」
最後にジャックは、いかにもフランス人らしく以下のようにつけ加える。
「赤は情熱の色だと言う人がいたら、私は自分がそれを8歳の時に発見していたとお答えしよう」
・・・・・・・・・
ジャック・リュセイランは欧米では有名な人物らしく、おそらくその影響によるものと思われるが、完全な暗黒の中で3週間生活するプログラムというものが、1990年代中〜終盤くらいから、主にヨーロッパで盛んに実践されるようになった。
真っ暗闇の中で生活して2〜3週間経つと、闇の中で人がいる場所がわかるなどの不思議な体験が続出し、ジャックと同様の内なる生命の光を観る者さえ少なくないという。
元の生活に戻るとすぐ観えなくなる点がちょっと残念だが、3週間かけて体験してみるだけの価値はあると思う。
目隠しなんてレベルじゃ全然ダメで、実験を成功させるためには、全身のいかなる皮膚であれ、微細なものを含め、あらゆる光からシャットアウトせねばならぬそうだ。
3週間、来る日も来る日も暗闇の中でただひたすらヒーリング・アーツの練修[トレーニング]を続けるとしたら・・・・。
それだけでも、物凄く面白そうだし、凄い境地がまた新たに啓かれそうな予感がする。
グループでやるのも楽しそうだ。
<2012.02.05 東風解凍(はるかぜこおりをとく)>