盲人を教育・支援する某団体の関係者から友人が聴いたところによると、ジャック・リュセイランの名は聞いたことがあるが、どういう人で、その教え(メッセージ)がいかなるものか、知らないし、興味もないとのことだった。
まあ、無理もない。「見えない(ゆえに劣っている)」ことを前提に組み立てられた現行の盲人教育・支援の在り方が、根底から崩壊しかねないからだ。
が、盲人はきわめて有能であり、晴眼者とは違う視点からものごとをとらえ、考えることができる、とジャックは指摘している。盲人を隔離し普通の人々から引き離すのではなく、広く社会の中に受け容れることで、社会全体の効率が高まり、活性化する、と。
ヒーリング・アーツを学んでいる人が、盲人をサポートして一緒にジョギングを楽しむ会に参加し、休憩時間にヒーリング・タッチやレット・オフの基本を教えてみたら、予想通り、たちまち本質をつかみ、とても楽しんでいたそうだ。目が見える一般人よりも、ずっと呑み込みが早い、とのことだった。
が、それはジョギングを主目的とする場であり、触覚を通じての触れ合い・交流は余技、おまけ、寄り道でしかない。
形式にとらわれることなく、盲人と自由に交流できるような機会は、我が国においては残念ながら非常に少ないようだ。
日本ではまだあまり知られていないジャック・リュセイランという希有な人物について紹介し、彼に関心を寄せる人が増えることを願って、 私は本稿『そして光があった』を執筆してきた。それほど遠くない将来、彼の著作が翻訳され、願わくば点字化もされて、ジャックからの重要なメッセージが多くの人の元に届くことを祈っている。
ジャック・リュセイランの物語はまだまだ続くのだが、ここから先は駆け足で概要のみご紹介しておく。詳細を知りたい方は、ぜひ原書をひもといていただきたい。決して堅苦しい内容のものではなく、読み物としても非常に面白い。なおかつ啓発的だ。
1941年春、フランスがナチス・ドイツの侵攻を許した翌年、16歳のジャックは52名の青少年と共に、レジスタンス・グループを結成した。まもなく団員は600名に増え、地下活動の機関誌を出版・配布し、撃墜された英空軍兵士の保護などを手助けした。
その後、ジャックのグループはフランス自衛団に合流し、そこで新聞を刊行したが、それは後年「フランス・ソア」へと成長し、パリの主要な日刊紙とみなされるようになった。
盲目のジャックは、レジスタンス活動における重要な役割を果たし、華々しい成果を次々とあげていった。
大切な情報の管理はすべて、紙に書き留められることなく、ジャックの並外れた記憶力に委ねられた。
さらに、レジスタンス活動への参加を希望する者は、まずジャックの面接を受けねばならなかった。彼の「人を見抜く能力」に、他の団員たちは大いなる信頼を寄せていたのだ。
ジャックが面接した人々の中に、黒か白か、どうしても判別できない者が1人いたという。おそらく何らかの特殊な訓練を受けていたのだろうが、 その男が後日、ジャックを含む約2000名の同志を裏切り、ドイツ軍に引き渡したのだ。時に1943年7月20日。
ジャックは6ヶ月間拘留されてゲシュタポの尋問を受けた後、ブーヘンヴァルト強制収容所に送られた。
15ヶ月後、パットン将軍の部隊がブーヘンヴァルトを解放した時、生き残っていた同志はジャックを含む30名あまりに過ぎなかったという。
強制収容所には道徳も倫理も存在しない。仲間から引き離され、身を守る術[すべ]を持たぬジャックのパンとスープは、2日に1度は誰かに盗まれた。
やがて体調を崩したジャックは「病人棟」に送られた。が、そこは「死者につまずくよりは、生きている者につまずく方が意外」という、まさに生き地獄そのものだった。
収容人数300名が平均の一般棟に対し、病人棟には1500名が押し込められ、歩くこともままならないジャックは、死体がごろごろ転がっている床を這って進むしかなかった。手をどこかに置くたびに、死人の足や胴体、あるいは怪我人の傷口に触れてしまう。うめき声以外、何も聞こえず、あたり一帯に充満するすさまじい悪臭を消すのは、風向きによって時おり流れてくる火葬場の煙のみという有り様であった。
間もなくジャックは胸膜炎を起こして倒れた。赤痢を併発し、両耳は感染症で何も聞こえなくなった。丹毒で顔が膨れ上がり、様々な合併症で今にも敗血症を起こしそうになった。
彼はブーヘンヴァルトから病院に送られた。が、そこは治療の場ではなく、病人を死ぬまで寝かせておくだけの場所だった。
ところが、この間ずっと、ジャックの意識は冷静に保たれ、病気の過程の一部始終を静かに観[み]守っていたという。
「体の各器官が1つ1つふさがれ、バランスを崩していくのがわかった。最初は肺、次に腸、それから耳、筋肉のすべて、最後に心臓が。心臓の働きがおかしくなり、空虚で奇妙な音が体を満たした。・・・(中略)・・・肉体は八つ裂きにされた蛇のように、あらゆる方向へとのたうち回りながら、私に苦痛を与え、この世を去りたくないと声高に告げていた。」(『And There was Light』より。以下同。)
が、またもや奇跡が起きた。
それほどの苦痛のさ中にあってさえ、<生命>がジャックをしっかり捉え、支えていたのだ。「自分が生きていることを、あれほど強く感じたことはなかった」と、ジャックは述懐している。
「生命は私の内部でひとつの実体となった。それは私より千倍も強い力で、私という枠組を押し破って浸透してきた。生命とは実際のところ、血でも肉でもなく、概念ですらなかった。波のきらめきのように、光の愛撫のように、それは私の方へやってきた。私はそれを、目や額の向こうに、また頭上に、観ることができた。それは私に触れ、私を満たし、私の裡[うち]からあふれ出た。私は、すべてを委ねてその上に浮かんだ。」
生命の泉が、ジャックに力を与えた。飲んでも飲んでも、まだ足りない。
恐怖が死を招き、喜びが生を支えることを、彼は学んだ。
そして、喜びに満たされて彼は生還し、自力で歩いて病院を出ることができたのである。骨と皮だけの、悽愴な姿ではあったが。
ブーヘンヴァルトに戻されたジャックは、生命を守っていくにはどうすればよいか、人々に教え、伝えることができるようになっていた。
彼のパンとスープは、2度と盗まれることはなかった。
しばしば真夜中に起こされ、彼による慰藉を必要とする者の元へ連れていかれた。離れた別の棟まで行くこともあった。
彼に秘密を打ち明ける者が何百人もいた。フランス語で、ロシア語で、ドイツ語で、ポーランド語で。
ジャックは、自らの裡に常に溢れる喜びと光を、人々と分かち合おうとした。そのようにして、彼は「生き延びた」のだ。
1945年、彼は自由の身となった。
戦後、ジャック・リュセイランはアメリカでフランス文学を教え、20歳までの自叙伝『そして光があった』などを著述した。
1971年7月21日、フランスで3番目の妻マリーと共に、自動車事故で亡くなっている。
——そして光があった・終——
<2013.05.13 蚯蚓出(みみずいずる)>