Healing Discourse

ヒーリング・アーティスト列伝 第3章 そして光があった 〜ジャック・リュセイラン〜 第5回 世界との融和

 タッチと同様、嗅覚は宇宙の愛すべき実質の一部をなしている、とジャックは語る。
 動物が空中の匂いを嗅ぐ時感じるに違いないことを、彼は感じ始めた。音や形と同じく、匂いも、彼が以前考えていたよりはるかに特徴的なものだった。
 ジャックによれば、物質的な匂いと精神的な匂いがある。「後者は社会の中で生きていくため非常に重要なものだ」。

「10歳になる前に私は、世界のあらゆるものは何か他のものの表象であり、途中で欠け落ちれば直ちに代わりが置かれるのだということを、絶対の確信をもって知っていた。
 この絶え間なきいやしの奇跡が、<主の祈り>(注:キリスト教の主要祈祷文)の中で全面的に表現されているのを私は聞いた。夜寝る前に、私はそれを繰り返した。
 私は怖れてはいなかった。ある人は私が信仰を持っていたというかもしれないが、それ自身を新たにし続ける驚異のさ中にあって、信仰を持たないなどということがあり得ただろうか?
 私の内では、あらゆる音、あらゆる形が絶え間なく光へと変わっていた。そして光は色へと変わり、私の盲目の万華鏡となるのだった」(『And There Was Light』より。以下同)

 ジャックは未知の新世界へと参入した。そのことに疑いの余地はなかった。「しかし私はその世界の囚人ではなかった」と彼は強調する。

「私が経験したすべては、それらがいかに驚くべきことで、いかに私の年ごろの子供の日々の冒険からかけ離れていようとも、私はそれを内なる虚無——他の誰でもなく私だけに属する閉じられた部屋——の中では経験しなかった。それらは1932年の夏から秋にかけ、パリやシャン・デ・マルス近郊の小さなアパルトマン、そして大西洋のビーチで、父や母と一緒に過ごしながら起こったことだ」

 そしてその年の終わりには、体験を共にする小さな弟が産まれた。

「私が言いたいのは、音や光や匂い、見える形や見えない形に関するこれらの発見は、ダイニングルームのテーブルや庭に面した窓、マントルピースの上の骨董品、キッチンシンクの中で静かに、そして確固として自らの形を成していった、ということだ。他の人々の生活のまっただ中で、彼らからの精神的援助を差し出されることなしに、である。
 これらの知覚は無秩序や恐怖を私の実生活に持ち込む幽霊[ゴースト]ではなかった。それはリアリティであり、私にとってこれ以上シンプルなものは他になかった」

 しかし、こうした驚異と共に、盲目の子供にとっての重大な危険がジャックを待ち受けていた。彼は述べる。

「肉体的危険について語っているのではない。それらは回避することができた。盲目それ自体がもたらすいかなる危険のことでもない。
 私が言うのは、まだ目を持っている人々の不慣れさから来る危険だ。
 私がそれほどまでに幸福であったとしたら——そして確かにそうだったのだが——それは私がそうした危難からいつも守られていたからだ。

 ジャックの両親が芸術家(音楽家)であったことは前述した。2人はジャックが失明した時も、光が奪われたとか不具者になったとか、ことさらに嘆いたりしなかったという。彼らは事故をただあるがままに受け容れた。

「両親は私が元気であることを望んでいただけではない。彼らのハートと知性は非常に開かれていたので、彼らにとって、世界は役立つものだけで構成されているのではなく、役立つことがいつも同じあり方をするわけでもなく、他の人々と違うことは必ずしも呪いではなかった。自分たちの通常のものの見方はおそらく唯一の可能性ではないのだと喜んで認め、私の道を好きになって勇気づけてくれる、私の両親はそういう人たちであった」

 ジャックは、子供が盲目となった両親に安心するよう告げる。盲目は障害だ。しかしそれが惨めさとなるのは、無知がつけ加えられた時だけなのだ、と。

「私は彼らを励まし、彼らの小さな男の子、女の子が見出すことに決して反対しないように言う。『あなたは見えないのだから、そんなことがわかるはずはないのよ』などと決して言ってはいけない。そして『危ないからそれをしてはいけない』と言うのもできるだけ控えるべきだ。盲目の子供にとって、いかなる傷や衝突、引っかき傷やたいていの打撲よりも、はるかに大きな危険がある。それは孤立の危険だ」

 15歳の時、ジャックは同い年で盲目の少年と、長い午後を過ごしたことがあるという。その少年はジャックとよく似た状況で視力を失っていた。
 少年は彼をおびえさせた。もし幸運でなければジャック自身に起こり得たであろうあらゆることの、少年は生きた見本だった。

「私は彼よりも幸運だった。彼は完全な盲目だったのだ。事故以来、何もみていなかった。
 彼の能力はノーマルなものだったのに、彼は私のようには観ることができてなかった。彼がそうすることを、人々が妨げたのだ。
 彼を保護するため、人々は彼をあらゆるものから切り離し、自分が感じたことを説明しようとする彼の試みを笑いものにした。
 悲嘆と復讐のうちに、彼は自らを容赦ない孤立へと投げ込んだ。彼の身体は、ひじ掛け椅子に沈みこみ卑屈に横たわっていた。恐ろしいことに、彼が私を好きでないことが私にはわかった」

 ジャックによれば、こうした悲劇は人々が考えるよりもずっと頻繁に起こっている。もっと恐ろしいのは、そのすべてが避けられ得るということだ。

 ジャック・リュセイランのもう1冊の本(随筆・講演録)『Against the Pollution of the I』にクリストファー・バンフォード(シュタイナー・ブックス編集長)が序文を寄せているが、冒頭彼はオランダの一聾女性を紹介している。
 その女性は生まれつき耳がまったく聴こえなかったが、両親は彼女を健常者と同じように育てることに決めた。2人は、子供にいつも話しかけ、おとぎ話を読んできかせ、子守歌を歌い、彼女のために音楽を演奏した。
 その子は非凡な知性を備えた、幸福な女性へと成長した。聾者によくある発音の不明瞭さもなく、クリアに話す。唇が読める状況下の会話では、相手は彼女の耳が聴こえないことにまったく気づかないという。
 さらに驚くべきことに、聴覚障害児の両親のためのカウンセリングに従事するようになったその女性は、音楽を楽しみ、コンサートにも足を運ぶそうだ。

 再びジャックの言葉に、虚心に耳を傾けよう。

「8歳の時、私が世界に戻ったことをあらゆるものが祝福した。
 人々は私があちこち動き回るままにさせておき、私が尋ねるあらゆる質問に答え、私の発見のすべてに——最も奇妙なものでさえ——興味を持った。
 例えば、私が対象に向かって歩いていく時、それらが私の方に近づいてくるやり方を、私はどのように表現することができたろう? 
 私はそれらを息として吸い込んでいたのだろうか、それとも聞いていたのだろうか? 
 たぶんそうなのだろう。それはしばしば証明することが難しかったのだが。
 私はそれらを観たのだろうか? そうではなさそうだった。それでも、私が近づくにつれ、視覚がある時に起こるのと同様、それらのマッスはしばしば真の輪郭を明確にする地点まで少し形を変え、空間における本当の形をまとい、特徴的な色彩を獲得するのだった」

 ジャックが述べるように、これらの体験は決して彼の心の中だけのイメージやファンタジーではなかった。
 街や田舎道を歩く際、彼は付き添ってくれる友人たちの世話になったが、歩きながらいち早く危険を察知したり、次の坂に何があるかを告げるのは常にジャックだった。ある意味で、ジャックの方が目明きの友人たちよりもよく「みえ」ていたのだ。
 田舎道を歩いている時、彼は道のそばの1本1本の木を——等間隔で植えられていたわけではないにも関わらず——指さすことができた。その木がまっすぐで背が高いか、胴体が頭を載せるように枝々を生やしているかどうか、密集して地面の一部を覆っているか、も言い当てた。
 彼は次のように記している。

「こうしたエクササイズはすぐ私を疲れさせたことを認めねばならない。だがそれは成功した。疲労は木々から来るのではなかった。それらの数や形から来たのではなかった。そうではなく、私自身から来たのだ。
 木をこんな風に観るためには、私は古い習慣から非常に遠く移動した状態に自らを留めておかねばならなかったのだが、それをあまり長時間続けることはできなかった。
 私は木々が自分の方に向かってやって来るがままに任せ、そちらの方に自分が動こうとするわずかな傾向や、知ろうとするごくわずかな望みも、木々と自分の間に入ることを許してはならなかった。
 自分が成し遂げたことに興味を抱いたり、我慢がならなかったり、あるいはそれを誇りに思うといった余裕は、私にはなかった」

 結局のところ、そうした状態は人が普通「注意(アテンション)」と呼ぶものにすぎない、とジャックは言う。だが、ここまで究まるとそれは容易ならざるものとなる。
 道端の木で試みたのと同じ実験を、ジャックは少なくとも自分自身と同じ高さと幅があるものなら、何にでも行なうことができたそうだ。
 電柱、生け垣、街路沿いの壁、その壁についているドアや窓、それらが奥まったり傾斜したりしている箇所などを、離れたところから感じ取ることができたという。

「タッチの感覚と同様、対象から私の方にやって来るのは圧力だった。だが、私にとってあまりにも新しい種類の圧力であり、最初のうち私はそれを圧力という名で呼ぼうとは思わなかった。本当に注意深くなり、自分自身の圧力を周りの環境と対立させないようにすると、その時木々や岩が私の方にやって来て、まるでワックスの中に印象を残す指のように、私の上に形をプリントするのだった。
 物理的な限界を超えて物体が自らを投影するこうした性向は、視覚や聴覚と同じくらい明確な感覚を引き起こした。それに慣れ、ある程度手なずけるには、わずか数年を要しただけだった。
 すべての盲人と同じく、彼らが知っているか否かに関わらず、これらが私が戸外や家の中を一人で歩く時に使う感覚である。後年私は、これが障害物感覚[センス・オブ・オブスタクルズ]と呼ばれるものであり、コウモリのようないくつかの動物は生まれつきこの能力に恵まれていることを本で知った」

「道端の木々を正確に指し示すための絶対に欠くことができない条件は、木々を受け入れ、自分自身を彼らの場所に押しつけようとしないことだった。
 盲目であろうとなかろうと、私たちのすべては恐ろしく貪欲だ。私たちは自分自身のためだけに物を欲しがる。それを理解することさえなく、私たちは宇宙が自分と同じようであってほしいと望み、宇宙がその中のあらゆる部屋を自分に与えることを求める。
 しかし盲目の子供は、これがあり得ないことを素早く学び取る。彼はそれを学ばざるを得ない。なぜなら、世界の中で自分が独りではないことを忘れるたびに、彼は物体にぶつかって自らを傷つけ、従うよう呼びかけられるのだ。
 だが、覚えていれば彼は報われる。というのも、あらゆるものが彼の方にやってくるからだ」

<2012.02.22 猫の日>