光明を得た後のラジニーシの物語は、それが彼の過去と連続していないという意味で、まったく新しい物語の始まりであるといえよう。
彼は言う。
「・・・私は非存在化して、同時に存在そのものとなった。その夜私は死に、そして生まれ変わった。ただし生まれ変わった者は、死んだ者と何の関わりも持っていない。それは非連続的なものなのだ。死んだ者、彼は全面的に死んだ。彼であったものは何ひとつ残らなかった・・・影ひとつさえも——。その日、3月21日、幾多の生にわたり、何千年も生きてきた人間がさっぱりと死んだ。そしてまた別な実存、まったく新しい、古きものとは全然つながりのない実存が存在し始めたのだ」
それ以来、彼は「内なる法との一体性」という無我の境地に生きることとなった。
外面的には、ジャバルプールの大学で学問を続け、1956年、哲学の最優等賞を得て大学を卒業。全インド討論大会で優勝し、卒業クラスにおいても金メダルを獲得した。1957年にはライプール市のサンスクリット大学で教鞭をとり、翌年ジャバルプール大学の哲学教授となる。
60年代を通じてラジニーシはインド中をくまなく駆け巡り続け、行く先々で幾多の論争を誘発しながら、大勢の人々を魅きつけていった。国中が彼の行動範囲であり、ある朝はボンベイ(現ムンバイ)、次の日の夕方はカルカッタ(コルカタ)、その翌日はアムリッツァー(アムリトサル)、そのまた翌日はデリー・・・と、一月のうち3週間を汽車のなかで過ごすようなこともしばしばであったという。
彼はアチャリヤ(教師の意)・ラジニーシとして知られるようになり、その精神的反逆者としての名声は急速に高まっていった。が同時に、特権階級の偽善をあばきたてるその遠慮会釈のない弁論は、政府当局や伝統的宗教組織との間に多くのあつれきを生じさせることともなったのである。
1966年、ラジニーシは人類の意識を高めるという活動に専念するため、大学教授の職をなげうち、インド主要都市の野外広場で5万から10万の聴衆を集めて講演を行なうかたわら、定期的な瞑想キャンプの指導を開始した。
ラジニーシの輝きと力は、ただそのそばにいるだけで震え出したり、泣き出したり、多くのエネルギーを感じたりするほどであったという。彼が見つめたりそっと触れ合ったりするだけで、人々の存在は根源から震え始めたのだ。
1968年には、ラジニーシ自身によって編み出された革命的瞑想法・「ダイナミック・メディテーション」が導入され、人々を驚嘆させた。インドの報道機関は、参加者が泣き叫び、衣服を投げ捨てるのを見たショックを、「その光景は気味の悪いものであると同時に、まちがいなく非常に強烈なものだった」と表現している。
このダイナミック・メディテーションはヨーガやスーフィズム(イスラム密教)、及びチベット系の諸要素とともに、現代心理学の発見をも包含した瞑想法であり、現代社会に生きる人間の必要に適した独創的な手法といえる。それは身体の無制限な運動と激しいカタルシス(浄化)によって、無数の抑圧された感情や衝動を解き放つことから始まり、最終的にはまったき沈黙と静止へと導く1時間の瞑想テクニックである。
ラジニーシは「瞑想」の本質を無心の状態、すなわち思考が完全に停止した状態と説明している。
「<心—マインド>というのは絶え間のない交通だ。思考がうごめき、欲望がうごめき、記憶がうごめき、野望がうごめいている。そこに交通がなく、思考が途絶えて何の想念も動かず、何の欲望もわきあがらなくなったとき、あなたは完全に静かだ。その静寂を瞑想という。その静寂のなかで、<真理>が知られる」
だが現代人にはさまざまな抑圧された情緒や感覚がまとわりついており、それが開放されないかぎり「瞑想に入る」という体験は決して起こりえない、と彼は言う。ラジニーシの瞑想テクニックのなかで、肉体的・感情的カタルシスが重要な位置を占めているのはそのためだ。
また一般的なイメージとは対照的に、彼は瞑想を深刻なものとはとらえない。彼に言わせれば、瞑想とは非活動、喜び、そして遊びの体験なのである。それは動機づけのない、純粋で流動的なエネルギーそのものといえるだろう。
1969年より彼は活動の拠点をムンバイに移し、その翌年から「ネオ・サニヤス」すなわち弟子としての入門を探究者たちに授け始める。サニヤスとは、本来「放棄」「出家」を意味するが、ネオ・サニヤス、つまりラジニーシの提唱するサニヤスとは、彼自身の次のような言葉によって要約できるだろう。
「私のサニヤスは生を肯定する。これに類したものは、これまでいちどとして地球上に花開いたことがなかった。これはまったく新しい現象なのだ。
古いサニヤスの観念はすべて逃避主義、放棄のうえに成り立っていた。私のサニヤスは逃避とは縁もゆかりもない。それは逃避には反対だ。それというのも、私にとって神と生(生きること)とは同義語だからだ」
「もしいやしくも神を知りたいと望むならば、できるかぎり全面的に、できるかぎり激烈に、できるかぎり情熱的に生きなければならない。だれもかれも、ひとりの神になるためにこうしている。それはあらゆる人の天命にほかならない。それを延期することはできる。が、その天命を揉み消すことはできない。
あなた方にサニヤスを授けることで、私はそれを早めようとしているのだ・・・」
従来のサニヤスでは、一定の形式、パターン、ライフスタイルを与えることによって、人々を硬直した規律のなかに押し込むことに主眼点が置かれていた。しかしネオ・サニヤスにおいては、いかなるパターンもなしに毎瞬毎瞬に応答していく内的感受性が重要視される。それは一切の皮相的人格を取り払って、創造的混沌のなかに自らを置き去りにするような生き方だ。ラジニーシは言う。
「そのような生き方こそ、ネオ・サニヤスの生を生きることだ。それはまったくもって美しい。まったくもって祝福されている。が、それには大きな勇気がいる。案内人もおらず、特定の形式もなく、過去に依存することもできないのだから——。人は未知から未知へと進まなければならない。そこには何の保証もない。それは純粋な冒険なのだ」
彼がネオ・サニヤスによって指し示したのは、東洋と西洋の最上の伝統の結合、すなわち満ち足りた物質的生活を祝う能力と瞑想のうちに静かに座る能力との結合、物質的にも精神的にも、はかり知れぬほどに豊かな人間、というヴィジョンだったのである。
アチャリヤ・ラジニーシはバグワン(祝福されたる者の意)・シュリ・ラジニーシとして知られるようになり、彼の影響が及ぶ範囲は世界的なスケールで拡大していった。
1974年には、プーナにアシュラム(修養道場)が開かれたが、過去の激烈な探究と、それに続く極端な旅行の日々、そして不規則な食事等がその代償を要求し始め、ラジニーシの健康はひどく衰え始めたのである。彼の肉体は激しい喘息に苦しみ、さまざまなアレルギーにたいして非常に敏感になった。だがそのきわめてデリケートな健康状態にもかかわらず、彼は毎朝90分間の講話を続けた。
何の準備もなしに即興で語られる講話のなかでは、禅、スーフィズム、道教、ハシディズム(ユダヤ密教)のマスターたちから、仏陀、マハヴィーラ、イエス、老子、荘子、へラクレイトス、カビール、ナナクらの言葉、またインドの経典類などがとりあげられ、人間に可能なあらゆる探究の道すべてが、ラジニーシによって説き明かされた。これらの驚くべき諸講話は、シリーズごとにまとめられて650冊以上もの講話録として出版され、「歴史上で最も多作な作家」という一面を彼につけ加えることとなった(これらの本は32か国語に翻訳され、出版された本のタイトル総数は千百以上にのぼるという)。
人類が抱えるさまざまな問題の核心そのものに鋭く迫るラジニーシの講話は、多くの読者の心を魅きつけるとともに、世界中で彼にたいする怒りや敵対心の渦を巻き起こした。なかでもとりわけ誤解され、非難を浴びたのが、「性」にたいする彼のラディカルな見解であった。
あらゆる伝統的宗教において、僧侶や聖人たちは、性の否定を通じてしか「神性」は達成できないと説いてきた。
ところがラジニーシは、否定や抑圧によるセックスの超越は決してありえないと断言する。解脱への扉は欲望を経験し、理解したその先にある、と彼は指摘してやまないのだ。
「・・・私の言わんとするのは、性が神聖だということだ。セックスという根源的エネルギーのなかには神が映っている。それは明白だ。性は新しい生命を生み出すエネルギーにほかならない。そしてそれこそ、すべてのなかで最大にして最も神秘的な力なのだ」
咲き乱れる花々、目にも鮮やかな美しさに満ちた孔雀の舞、鳥たちのさえずり、あるいは少年が青年になり、少女が女へと成長する・・・。これらすべては情熱の公然たる表現であり、性的なエネルギーの現われにほかならない、とラジニーシは説く。この世界のあらゆるものが、性に満ちあふれ、性を肯定しているのだ、と。
この根源的な性のエネルギーを深遠な宗教的次元へと変容させていくためには、性が「開花させられるべき種子」であるという基本的認識が必要とされる。性の否定は、それをより純粋な高みにまで引きあげる可能性をも、同時に否定することになるからだ。
「セックスにたいする敵意を終わりにすることだ。もし自分の生に愛がふりそそぐのを望むなら、セックスとの葛藤を放棄しなさい。喜びをもってセックスを受け入れるがいい。その神聖さを認めることだ。感謝をもってそれを受け取り、さらに深く受け容れなさい。
あなたはセックスがどれほどの神聖さを啓示できるかに驚くだろう・・・」
彼はマハトマ・ガンディーを例にあげて、禁欲と苦行の道がいかに見当違いのものかを次のように説明している。
「ガンディーはセックスを放棄したものの、一生涯それを抑圧し続けた。晩年になってようやく、彼はその抑圧に気づいた。いつまでも性的な幻想がやまなかったからだ。そこで彼はタントラ的な実験をし始めた。が、ときすでに遅かった・・・」
だがラジニーシのこれらの言辞が、フリーセックスや性的耽溺への奨励などと誤解してはならない。それとは正反対に、正しく理解されたならセックスは自己耽溺を許さないことを、ラジニーシははっきり言明している。
にもかかわらず、世界中の公的な宗教や教会は、彼の発言に注意深く耳を傾けようとすることさえなく、あらゆるたぐいの嘘と、根も葉もない疑惑を主張し続けたのである(フリーセックス集団、洗脳、偶像崇拝、等々々)。
こうした組織宗教や聖職者たちの偽善を、ラジニーシは容赦なくこきおろす。
「いかなる宗教であれ、生を無意味で悲惨に満ちたものとみなし、生を憎むことを教えるものは真の宗教ではない。宗教とは、いかにして生を楽しむかを教えるひとつのアートなのだ・・・。
しかし、宗教という名のもとに営業されている『店』の数々は、人間が真に宗教的になることを望んでいない。なぜならば、そんなことになったら店をたたまなければならなくなり、僧侶や世界教師のようなものも必要なくなってしまうからだ」
周囲の無理解と非難は、ついにラジニーシ暗殺未遂事件を引き起こすまでに至った。だがそれにもかかわらずプネーのアシュラムは急速な発展を遂げていき、東洋の瞑想技法と西洋の精神療法を結合させたセラピー・グループの提供は、「世界で最も優れた成長とセラピーのセンター」としての名声をアシュラムにもたらすこととなった。70年代後期までには、パグワン・シュリ・ラジニーシのアシュラムは、現代の真理探求者たちのメッカとなっていたのである。
<2012.02.09 黄鴬見睨(うぐいすなく)>