1981年、健康状態を悪化させたラジニーシは、緊急手術もありうることを考慮した侍医の勧めによって、アメリカ合衆国に渡った。彼のアメリカの弟子たちは、中央オレゴンに8千万坪(東京23区に相当する広さ)の土地を購入し、そこに彼らのマスターを招いたのである。
家畜が草を食べすぎて枯渇した荒れ地は、またたくまに緑豊かなオアシスへと変貌し、理想的な農業コミューンが、息を呑むほどのスピードと印象的なできばえで、ラジニーシのまわりに成長していった。ラジニーシ・プーラムと呼ばれたこの新しい市は、こうして米国史上「最大かつ最も物議をかもす」スピリチュアル・コミューンとして世界各国から訪問者たちを集めることとなった。
だがアメリカ政府はこのときすでに、4年余の歳月と数百万ドルの公金を費やし、秘かにコミューン破壊の道を探っていたのである(その主唱者はレーガン大統領の側近、合衆国司法長官・エドウィン・ミーズであったといわれている)。
さらにラジニーシ・プーラムの成長とともに、地方、州レベルでの風当たりも強くなり、市は、オレゴン州政府と同州の多数派キリスト教徒からの法律的攻撃にさらされ始めた。彼らは元来環境保護のために作られた「オレゴン州土地使用法」を逆手にとり、神に見捨てられたような不毛の地を開墾し、環境を高めることに莫大な努力を注いだ市にたいして、非難の集中砲火を浴びせたのであった。実際には、ラジニーシ・プーラムは世界にたいする生態学的な模範になっていたのだが——。
1985年7月、ラジニーシは4年前から中断していた公開の講話を再開した。彼は愛と瞑想、狂気による人類の窮状、深く条件づけされた世界について語り、人間の魂を堕落させた者、人間の自由の破壊者として、聖職者と政治家をやり玉にあげた。
同年9月、ラジニーシの個人秘書とコミューンの管理を任されていた何人かのメンバーが、突然市から逃亡した。彼らによってなされた犯罪の噂が耳に届いたとき、すぐさまラジニーシはこの問題を全面的に調査するようにと、アメリカの当局者たちに呼びかけた。だがこれこそ、アメリカ政府が待ちに待った、コミューン破壊の絶好の機会だったのだ。
1985年10月、冒頭に記したようにラジニーシはいかなる逮捕状の提示もなく、銃をつきつけられて逮捕された。彼の前秘書も、これと数時間を経ずに西ドイツのハウゼルンで逮捕されているが、この同時逮捕は両者が共謀者であり、同じ犯罪によって告訴されているのだと一般大衆に信じさせるための狡猾なトリックであった。
ラジニーシは保釈を拒否されて12時間監禁状態にとどめ置かれ、さらに彼が法廷に出頭するためとられたオレゴン州ポートランドへの移送には——通常、5時間の飛行時間ですむものが——8日もの日数がかけられた。
後日ラジニーシが明らかにしたところによれば、彼はアメリカ全土を引きずり回されるようにして、6ヶ所の刑務所を次々に通過していかなければならなかったという。
その間彼は、可能な限りのあらゆる方法による虐待にさらされ続けた。彼のすぐそばには2台のテレビが据えつけられ、早朝から真夜中まで最大限のボリュームで騒音をたれ流した。また周囲の監房すべてにチェーンスモーカーの囚人が詰め込まれて、彼はたえまなく煙に取り巻かれることになった。さらに非菜食の食物しか与えられなかったために、彼はほとんど食事らしい食事をとることができなかったのである。
これらは、ラジニーシのようにきわめてデリケートな健康状態にある人間にとっては、致命的なダメージともなりかねない処遇であった。ほんのわずかな臭い、わずかな煙、わずかな埃でも、ラジニーシは喘息の発作に苦しめられていたからだ。
だが奇妙なことに、彼はこうした破壊的な環境にもまったくかき乱された様子を見せず、むしろそれを楽しんでいるようにさえ見受けられたのである。実際、どの刑務所のどの医者も、彼の健康は完壁で素晴らしい、と太鼓判を押したほどであった。
ラジニーシの説明によれば、この期間、彼は肉体を外に置いて、内なるスペースへと深く入り込み、完全にくつろいでいたのだという。いかなるものも触れることができない、その無垢なる空間について、彼は次のように語っている。
「それはあまりにも深い至福だから、そのまわりで何が起ころうとも、その至福は少しも変わらない。死ですら的はずれだ。
・・・いかなる状況でも、私に同情することは誰にもできない。私はあらゆる状況を楽しむことができるからだ・・・」
だが、政府の虐待はとどまるところを知らなかった。真夜中に裏口から連れ込まれたオクラホマ州連邦刑務所では、彼は「デヴィッド・ワシントン」という名前で入所の署名をすることを強要されている。彼はそれを機知によって切り抜けたが、さもなければラジニーシが刑務所に入ったという証拠すらなくなり、彼を生かすも殺すも自由自在であったことだろう。
さらに彼は、伝染性ヘルペスを患っている囚人とともに、隔離房に入れられたことさえあったということだ。
ラジニーシの生命を案じた弁護士たちは、これ以上の危険を避けるため(彼らは政府からの明らかな脅迫を受けたという)、連邦法務官から提案された、ある嘆願措置を受け入れることを承認した。それは告発された34の罪状(そのいずれも単なる名目上のものに過ぎなかった)のうち、2つを受け入れるというものであり、それによってアメリカ政府はラジニーシを保釈し、追放することができるという次第であった。
こうしてラジニーシは、裁判で無実を主張することもできず、「あらかじめ用意された判決」に従って、40万ドルもの莫大な保釈金を科せられたうえ、アメリカ追放を命じられた。彼は上告することも許されず、ただちに衣類を刑務所から引き取って、アメリカを去るよう告げられたのであった。
ところが最終的に保釈される直前、ラジニーシが収容されていたポートランドの刑務所(オレゴン州で最も保安設備が整った監獄)で、1個の爆弾が発見された。ラジニーシ以外は全員避難させられたが、彼は爆弾とともに、一室に閉じ込められたままであった。
この爆弾騒ぎは、彼が2つの犯罪を犯したことを黙認せず、あくまでも裁判を主張した場合に備えての、アメリカ合衆国による陰謀の一部だったのだろう。
さて、私用ジェット機で故郷のインドに帰ったラジニーシであったが、インド政府は彼の随行者たちにたいするヴィザを取り消し、西洋人記者や訪問者のヴィザも拒否して、彼の孤立化を図ろうとした。そこでラジニーシは静かで平和な地を求め、ネパールのカトマンズへとおもむいたが、ネパール国王の10年余に渡る個人的関心にもかかわらず、結局彼は滞在を許されなかった。この小さな国に年間10億ドルの援助をしているアメリカが、彼に差し出されたあらゆる厚遇にたいして反対していたのである。
1986年2月、ラジニーシはネパールを離れ、世界各国の弟子たちを訪ねる旅に出た。後に「ワールド・ツアー」と呼ばれることになる、受難に満ちた旅の始まりであった。
最初の訪問国ギリシアでは、当初30日間の観光ヴィザが与えられた。だが弟子たちが彼の話を聴くために集まり始めると、ギリシア正教会の司教たちは、彼が国外追放されないかぎり、流血事態は避けられない、とギリシア政府を脅迫したのである。
18日目の1986年3月5日、ギリシア警察はラジニーシが滞在していた家に乱入。銃をつきつけて彼を逮捕し(またしても逮捕状はなかった)、国外退去を強制したのだ。
翌日、彼はスイスヘ向かった。だが到着するやいなや、武装警官たちに7日間のヴィザを取り消され、「好ましからざる人物」と宣言されて立ち去るよう求められた。
彼はスウェーデンに向かったが、そこでも同じ目に会い、ライフル銃で武装した警官たちに包囲された。彼は「国家の安全にとって危険である」と告げられ、ただちに出国するよう命じられた。
彼は英国に移ったが、今度は法律上、パイロットが8時間の休息をとらなければならなかった。ラジニーシはファースト・クラスの通過旅客用ラウンジで待機することを望み、わざわざファースト・クラスのチケットまで購入させたが、彼はホテルで一泊することさえ許されなかった。それどころか彼とその道連れたちは、難民で込み合う、小さな、汚い一室に監禁されたのであった。
ドイツはすでに、ラジニーシの入国を許可しないという「阻止法」を議会で通過させていた。オランダも打診すると、彼を拒絶した。イタリアでは、彼の観光ヴィザ申請の審理が引き伸ばされたままだった・・・。
3月19日、ウルグアイが思いがけない招待状をもって現われたため、ラジニーシたちはセネガルのダカール経由でモンテビデオヘ飛んだ。
5月14日、ウルグアイ政府は記者会見で、ラジニーシはウルグアイの永住権を与えられたという発表を行なう予定だった。まさにその夜、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしラジニーシがウルグアイに滞在するなら、現在の米国からの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取ったのであった。
ラジニーシは6月18日にウルグアイを去ったが、その翌日サンギネッティとレーガンは、1億5千万ドルの新しい米国借款がウルグアイに与えられることになった、とワシントンから発表している。
1987年1月、ほかに採るべき道もないまま、ラジニーシはインドに戻り、70年代の大半を過ごしたプネーのアシュラムに落ち着いた。最終的には何と21か国もの国々が、アメリカからの圧力にさらされて、ラジニーシを入国拒否、あるいは国外追放したのである。だがラジニーシの受難は、これで終わったわけではなかったのだ。
インド当局からの圧力や、次第にエスカレートしていくさまざまな脅迫にも関わらず、ラジニーシは世界中から知性ある人々を惹きつけ続け、彼の講話には、毎日平均5千人以上の聴衆が出席した。
「現在は多いなる責任と、大いなる挑戦の決定的瞬間だ」という宣言とともに、ラジニーシの劇的なヴィジョンは展開される。
「人間はいつも無意識のうちに生きてきた。だがその暗闇が今日ほど増したことはかつていちどもなかった・・・。今度は夜明けが訪れるのかどうかさえ疑わしい。私は悲観論者ではないが、今となっては楽天家でもない。今、私はまさに現実主義者だ。そしてその現実とは、おそらく私たちは、その美しさのすべて、その生命のすべて、その成就のすべてともども、この素晴らしい惑星の終末にこのうえもなく近づいているのかもしれないということだ・・・」
彼は政治的、宗教的指導者たちによって、人類が地球的規模の自殺へと盲目的に追い込まれつつある図式を説き明かし、同時に彼らの権力を零落させるための、実際的かつ挑戦的な手段を提案している。それはひとりの光明を得た存在が、世界にたいして指針を与えるという初の試みであった。
外的な狂気にたいする示唆とともに、ラジニーシは個々人としての私たちにこそ、世界にたいする途方もない責任がかかっていることを指摘する。
「野火のように拡がる意識が、地球全体に創りあげられねばならない。これが人類にとっての唯一の希望だ。このきわめて生き生きとした、美しい、愛に満ちあふれた小さな惑星を維持するための、宇宙にとっての唯一の希望だ。
過去においては、人々は自分自身のために<ブッダ=目覚めたる者>となった。今あなた方は、第3次世界大戦が起きえない環境を創り出すためにも、ブッダとなることを要求されている」
他では決して見出すことのできない、最もラディカルなラジニーシのヴィジョン——。だが、世界中のパワー・エリートとオピニオン・リーダーたちは、ラジニーシを非難するばかりで、彼が採りあげた論題と課題にたいしては、ついに一度として直接的な解答を示すことができなかったのである。
エイズが発見されたときも、ラジニーシはエイズが世界を席巻する伝染病となりうることを広く警告し、その蔓延を防止できる予防策を示している。世界の報道機関は、嘲笑をもってそれを迎えたが、彼が提示した適切な予防措置が実施されなかったがために、数十万もの人命が失われてしまったのだ。
1989年、ラジニーシの容体は急激に悪化した。
極度の疼き、食欲と味覚の喪失、吐き気、骨の痛み——。病気にたいする抵抗力はなくなり、体重は理由もなく減り続けた・・・。アメリカでの逮捕以来続いていた、これらすべての症状が、ある恐るベき結論を指し示していた。
そう、アメリカ政府が不当に彼を逮捕し、監禁したその真の目的は、決して証拠が残らない巧妙な方法で、彼を毒殺することにあったのだ!
ヨーロッパの専門家たちの分析によれば、ラジニーシにたいして用いられたのは、重金属系の毒、「タリウム」であったらしい。数週間でその痕跡は消えるが、効果は残存し続け、いかなる薬も役に立たないのである。
それはラジニーシにとって火の試練であった。永遠のエッセンスそのものを悟った彼にとって、この世界で生き続ける理由は何もなかったが、弟子たちへの愛ゆえに、彼は迫り来る死と戦い続けた。
7週間も死線をさ迷った末に、ついにラジニーシは「十字架」からの復活を宣言した。いかなる毒も外側のものでしかなく、内側で彼はすべてを見守り、楽しんでいたのである。彼の瞑想は、またしても勝利をおさめたのだ。
ラジニーシは、再びそのワーク(仕事)にとりかかり、1万人の弟子を前にした毎夜の講話では、人口増加、核兵器、地球的規模の自殺、共産主義革命の失敗、女性にたいする抑圧、貧困、組織宗教の弊害、瞑想の必要性といった今日的問題について語りつつ、真の宗教性、光明を得た意識を高らかに宣揚したのであった。
1989年初め、彼は「バグワン」という名を廃し、「ラジニーシ」とのみ呼ばれることを欲したが、弟子たちは「OSHO」という名を選び、彼もそれを受け入れた。OSHOとはもちろん禅の伝統に由来する呼称だが、オーシャニック(大洋的)という意味も含まれている。
OSHOは講話の題材に好んで禅をとりあげているが、禅の復権によって、日本は世界に唯一残された希望を担うことができる、とも予言している。
「日本は、繁栄と平和という黄金の未来に向けて、世界を導くことができる!
日本には、光明を得た禅師たちという黄金の過去があるが、新しい夜明けに向け世界を導く洞察、責任、そして慈悲がそこから日本に与えられる。
今、日本に必要なことは、創造性、自発性、そして反逆精神の本来の面目を取り戻す、新たな禅革命だ・・・」
オーシャニック・マン。
これほど優美な人を、私は他に知らない。
ビデオ画像を観ただけでも、今やOSHOという奇妙な名で知られるようになったこの人物が、水として動いていることがハッキリわかる。それも、ただの水ではなく、大洋級の水だ。
OSHO[オショー]。
現代インドが生んだ最大の神秘家の1人。
類い稀なる超越のストーリーテラーにして宇宙的ジョーカー。
希世の大雄弁家として知られるヒトラー、ムッソリーニ、スターリンの演説を実際に聴いた経験を持つあるジャーナリストは、「OSHOの雄弁はそれ以上だ」と述べたという。インターネット上で検索すればOSHOの動画をいろいろ探すことができるから、皆さんも是非ごらんになってみるといい。
ヒトラーらの激烈さとはまったく雰囲気が違う。椅子に座り、静かに聴衆に話しかけているだけ。
が、彼の心も姿勢も、最初から終わりまで、一瞬たりと乱れない。
これは物凄いことだ。
ノースカロライナのシャーロッテで逮捕された際、銃を構えた重装備の狙撃隊が自家用ジェット機をぐるりと取り囲み、ごくわずかな不審な動きでさえ一斉射撃を引き起こしかねない超緊迫状態において、同行した高弟たちがブルブル震えて身動きひとつできない中、OSHOは普段通りゆったり寛いで、完全にリラックスしていたという。
これぞ、真の不動心だ。
・・・・・・・・・・・
OSHOの健康が元通りに回復することは、ついになかった。1990年1月19日、彼はプネーのコミューンで肉体を去った。
その際、OSHOは、いつも通り完全にくつろいで、まるでこれから近所に散歩に出かけるような気楽な態度で、安らかに、静かに、死んでいったという。
ソクラテス、イエス、アル・ヒラジ・マンスール・・・。聖職者と政治家の手で殺された誠実な人間の長い伝統に、OSHOも加わったのである。
——沈黙のコミュニオン・終——
<2012.02.15 魚上氷>
付記:OSHOの写真をウェブサイトの記事中で使わせていただきたい、と日本の窓口組織にヒーリング・ネットワークの友人が申し込んだところ、あちこちたらい回しにされたあげく、アメリカの著作権所有者が許諾の権限を独占しており、写真1枚の使用許可を得るにも煩雑な手続きが必要であるとわかった。
本連載に写真が一枚も添えられてないのは、そういう理由からだ。
ネガティヴな批判的内容ならばいざ知らず、肯定的に、敬いをもって、偉大な先人を顕彰・紹介しようとする企画なのだから、多くの写真で美しく荘厳[しょうごん]した方が良いに決まっていると思うのだが、一時期マスコミに激しく叩かれたトラウマゆえか、部外者に対して過度に警戒し、心を開けない状態に、関係者一同が陥っているようだ。
OSHO(当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ)がアメリカで不当に逮捕され、CNNなどが盛んに反OSHOキャンペーンを展開し始めた時、私はそれ以前から彼の著作などを通じて「この人は真実の人である」との確信を強く抱いていたため、学研『ムー』誌にOSHOについて紹介する記事(本連載)の企画を持ち込んだ。
その企画は直ちに却下され、「あそこは排他的だから、そもそも取材自体、無理ではないか?」とも言われた。が、時間をかけて繰り返し熱心に編集長を説得し、記事が何らかの問題を引き起こした場合、私が全責任を取ることを確約して、ようやく取材、記事執筆、掲載の運びとなった。
が、残念なことにそれは、OSHOの追悼記事となってしまった。
OSHOのためほとんど何の役にも立てなかったが、 そういう「味方」も、「部外者」の中にはいることに、OSHOの「夢」の継承者たちが一刻も早く気づき、硬く閉ざしたブロックをほどいて、ハートを開けるようになる時が来ることを祈るばかりだ。
OSHOの瞑想技法について、ヒーリング・アーツの観点から新たにコメントを加えたいと思っていたが、写真さえ使えない現状に鑑み、「余計なお世話」は控えることにした。ちなみに、私は青春時代に数年間OSHOのメソッドを徹底して実践した経験があり、コメントする資格は充分あると自負している。雑誌取材時、日本人としては最古参のOSHOの弟子[サニヤシン]たちからいろいろお話をお聴きしたが、部外者である私が各種瞑想法に通じていることに皆驚かれ、「自分たちより詳しい!」と感心されたほどだ。