人間とは、一体どこまで「健康」になれるものなのだろう? 私たちは普通、「病気でない」ことをもって健康の定義とし、それについて何の疑問も抱かない。が、健康とはそのように消極的なものでしかあり得ないのだろうか?
健康の概念を根底から書き換え、究極的ともいえる健康状態を自らの身をもって示し続けた人物が、昭和の半ばまでこの日本に生きていた。
彼の名は、肥田春充[ひだはるみち]。彼こそ、あらゆる武道の極意、動的禅、万芸の基礎、健康術の極致として、昔から一部の人々の間でその名をとどろかせてきた肥田式強健術[ひだしききょうけんじゅつ]を創始した男なのだ。
しかし、この肥田式強健術はその内容のすごさに比して、一般にはその名を知られていない。そのおもな理由としては、第2次世界大戦によって、十数冊に及ぶ彼の著作の大半が散逸してしまったことと、第2次大戦以降は、春充が世間との関わりを断ち、普及活動を一切行なわなかったことなどがあげられる。
肥田春充のエピソ―ドを聞けば、人間にはこれほどの可能性が秘められているのかと、誰もが驚嘆するに違いない。超人——その呼び名は春充にこそふさわしいのかもしれない。
しかし、このとてつもない超人も生まれつき異常なまでの心身の能力を発揮できたわけではなかった。それは、彼の創始した強健術、そして「正中心」をきわめる過程で次々と発現していったものなのである。
眼前に屹立する富士の白雪が溶けて地下水となり、それが湧水となって豊かに街の周囲をめぐって流れる・・・。山梨県南部の都留郡西桂村小沼[おぬま]で、明治16年(1883年)12月25日、春充は医師・川合立玄の5男として産声をあげた。
幼少のころは、虚弱というよりむしろ生きていることさえ不思議なほどやせ衰えた、骨と皮ばかりの少年であったという。川合家は父母からして虚弱体質で、春充は6歳で母親と死に別れ、さらにそれと前後する1年ほどの間に、兄弟4人が相次いでこの世を去っている。
生気のない顔、かぼそい骨、青ざめてしなびきった肌。友だちは春充を見るたびに、「茅棒[かやぼう]、茅棒!」と嘲りはやしたてた。病に倒れ、何度死の宣告を受けたことだろう。そのたびにかろうじて命だけはとりとめたものの、生きているとは名ばかりの悲惨な状態だった。したがって、学齢になっても満足に登校できず、ようやく学校へ行くようになっても休みつづけてばかりいて、人並みの勉強など思いもよらない有様だったという。
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春充16歳。 |
しかし、そのひよわな体の中にも義侠熱誠の血が流れていたのは確かであろう。長ずるにしたがって屈辱的なあだ名を恥じ、こんな弱い体では国家社会になんの奉仕もできないと思うようになったのである。
そこでなんとかして強い体になれないものかと、父親の医学書を片っぱしから読みはじめた。そうするうちに、「細胞の新陳代謝」という文字にぶつかって、それこそ電撃のごとき一大光明を得たという。人間の体はたえず変化する。だから成長発育する力をうまく導けば、どんな貧弱な体格でも必ず改造一変することができると確信したのであった。
「普通の人の細胞が7年で入れ換わるというならば、俺は10年かかって病弱な域を脱してやろう。15年鍛えて普通の体につくりあげよう。そうだ、20年うまずたゆまず続けていって・・・人並み以上につきぬけてやるぞ。よしきっとだ!」
萎縮しきっていた彼の心にも、ついに覚醒と発奮の大旋風が巻き起こったのであった。このとき春充18歳。
まず春充は、古今東西の有名な体育法や運動法をできる限り研究した。そして、これはと思うものを実行していく中で、次々と新しい方法が生まれていったのだ。
春充の通った中学は、小沼から歩いて2時間のところにあった。往復で4時間。彼は毎朝4時に起きて学校へ行く前に猛烈な運動を行なった。学校から帰るとまた、ただちに猛練習。このため、部屋の畳はすり切れ、障子は破れ放題になったが、父親は一言も小言をいわなかったという。
こうした血のにじむような努力のおかげで、さしも脆弱な春充の体が、2年で村の標準に達した。体格が向上するとともに、頭脳の働きも飛躍的によくなっていった。
春充の目的を貫く不撓不屈の精神は以後、いろいろなところで発揮されていく。たとえば、後に柔道を学んだときには、腕を骨折して右腕を包帯で吊るしながら左手だけで練習したのだが、そのおかげで左右両腕が利くようになった。
同時に学んだ竹内流柔術の免許を得たのは、わずか入門6ヶ月目だったという。
このように、春充が独力で苦心しながらつくりだした運動法というのは、初期の時点ですでにかなり高度な内容を備えていた。しかし彼はそれで満足せず、さらに研究を重ねて、それが後の肥田式強健術の創始及び正中心の体得へと結晶していくのだ。
その根本原理というのが、いわゆる臍下丹田の一点を探ってそこに全生命をぶち込み、その力を全身の筋肉に作用させて鍛練するというものだった。春充は日本武道の気合からヒントを得て、これをすべての運動の基礎としたのである。
こうして春充は、かつて「茅棒」とののしられた虚弱な体を強健な体躯へと造りかえることができた。
彼は燃えるがごとき志を抱きつつ、明治39年、単身上京して、現在の中央大学法学部、明治大学政治学部、同商学部、早稲田大学文学部あわせて4学部で同時に学びはじめた。が、これだけのことをしてもその精神肉体は少しの疲労や苦痛も覚えず、意気は火炎のごとく燃えあがるばかりだったという。同時に体力も爆発的に向上していったのである。
明治43年、4学部同時にいずれも優秀な成績で卒業した春充は、このころかなり整っていた強健術を体系化し、その研究の成果をまとめて『実験簡易強健術』なる著書を公刊した。
すると、そのきわめて詳細な生理解剖の学理に立脚した健康法は、読者の熱い待望にこたえ、燎原の火のごとく一世を風靡したのである。全国から電報による注文が殺到し、すぐさま重版に次ぐ重版となり、陸海軍をはじめ、官庁、銀行、会社および学校から続々と講演を申し込まれ、至るところで熱狂的な歓迎を受けたという。
が、こうした状況の中で、彼はさらに自己を磨くべく、明治44年12月、近衛歩兵第四連隊に入営する。そして、学科に教練に、全力を傾けて人一倍の心身酷使をしてみたが、これまた元気横溢、ありあまる充実力のはけ口に苦心したほどだったという。
そんな春充だから、軍隊生活における逸話も多く残されている。スパルタ式軍隊にあっては、上官による殴打など日常茶飯のことであったが、春充がピシッと姿勢を決めると、そのすさまじい気迫にどの上官もタジタジとなってしまい、春充はついに一度も殴られた経験がなかったという。これは当時の軍隊にあっては奇跡以外の何ものでもなかろう。また当然のことながら、強健術は軍隊内でも有名になっており、請われて講演や実演も行なっている。歩兵操典(軍隊での教科書)の改訂にもいろいろ進言をして、その多くが正式に採用された。
強健術によって練りあげた春充の体は、ボディビルなどで鍛えた体とは、外観上その趣きをかなり異にしていた。まるで仏陀の彫像が命を得て動き出したとでもいおうか、それを目のあたりにした人は、皆、一種の透徹した美しさに打たれて言葉を失ったという。
全身の筋肉は、弛緩させるとまるでバタ―がとろけるような柔らかさだが、ひとたび緊張させると、たちまち鋼鉄のようになった。また、いかに激しく強健術の型を実演しても、脈拍は変わらないどころか、かえって運動前よりも静かに脈打っていたというから驚かされる。
後年、体格を測定したところ、胸隔は縮めると78センチ、拡張すると110センチ。腹部はへこませると71センチ、膨らませると117センチとなり、身長は158センチ、体重は約70キログラムだった。
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<2012.02.21 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)>
※学研『ムー』誌1986年2月号への寄稿記事に加筆修正。