Healing Discourse

ヒーリング随感 [第1回] 一陽来復

 平成21年2月4日、春分。
 単行本執筆のためしばらく中断していたディスコースを再開するに先立ち、筆(指)馴らしを兼ねて、「ヒーリング随感」を綴ってみる。
 断片的な修養メモを連ねていく形式で、その時々の私の心身の実感とそれに関する具体的手法、あるいは修養上の新しい発見など、ヒーリングに関する様々なトピックを自在に取り上げる予定だ。
 これから自分が何を書くことになるのか、私自身にもまったく予想がつかない。請う、<ヒーリング>の一語を読者諸氏も心身の中心に据え、常に把持されんことを。

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◎人間の意識と感覚の方向性を正反転=次元転換させる、それがレット・オフだ。今私が研究しているテーマの1つは、このレット・オフなる術(わざ)には、一体いかなる応用変化があり得るのか、ということだ。
 2〜3の例をあげてみる。
 例えば「罪悪感」というものを、レット・オフを使ってデリートすることができる。罪悪感が生理的に消去された心身がどれだけ自然で活気に充ちたものか、修法を実践すれば、その一端を直ちに味わうことができる。
 ためらいや逡巡をレット・オフすることもできる。すると、速度を超えた速さが自然に顕われてくる。武術的に説明すると、「考える前に体が動き、気づいてみたらその場の状況に適切に応答していた」、というようになる。そういう能力を錬ることで、判断力、決断力、断行力も増す。
 後悔、後ろめたさ、悲しみなど、身体感覚を伴うものであれば何でもくるりと反転させることができる。コツをつかむまでは雲を掴むような話かもしれない。が、いったん本質がわかれば、突然真新しい世界が開かれる。こういう表現が決して大げさでないと感じられるほどの、意識の超越的飛躍(クオンタム・リープ)が起こる。
 他者への依存、誰かに頼りもたれかかろうとする気持ちもレット・オフ可能だ。身体と精神の重心点が、本来の位置に戻ってくる。言葉を換えれば、外部への依存は自らの重心を狂わせ、心身両面でアンバランスにさせるということだ。

◎上述のような回心・廻向を、レット・オフによって引き起こすにはどうしたらいいか? 
 ネガティヴな状況をごくかすかに、ただし意識的に注意深く強調して、その強調することそのものを手放す。この内的作業を以降、<強調→レット・オフ>と表記する。
 その際、身体の形と精神の外形とを崩さない。これが「静中求動」だ。そこに至るための具体的ステップについては、近刊予定の単行本『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』(ビオマガジン社刊)ですべてをオープンに詳述した。以前のディスコース・シリーズでも、様々な別の角度から、異なる表現を使って説いている。
 いろいろなやり方でレット・オフを練ることができる。この随感でも、基本と応用の両面からアプローチしていく。
 レット・オフの、静中求動までの段階が体得できていれば、こうやって文章を通じて私と超越的に響き合い、様々な応用法を学び、実践していくことができる。霊的な通信教育とでもいおうか。自分に合った術(わざ)にぶつかると、驚くべき変化が心身に起こり始めるだろう。そして、そういう術は決して少なくないはずだ。
 だから、ヒーリング・アーツ初心者はとにかく原点たるレット・オフ修得に努めることだ。これまでの指導経験によれば、段階を追って練修していけば、日常生活に支障を来すほどの身体あるいは精神的病にでも犯されているのでもない限り、ほとんどの人が各自にとって当面必要なだけのレット・オフを比較的短期間で体得できている。
 基本がわかれば、私が今書いているように、どんどん色々な方面へと応用していくことができる。人生の流れを妨げている要因を1つずつ見つけ出して解除できるようになる。
 それにより、毎日の生活が滑らかに円(まろ)やかに、活き活きと流れ始めることはもちろん、煩悩という心身の曇りが少しずつオフされていくに従い、自分自身の本性が透明な輝きにほかならないという驚くべき事実が明らかになってくる。諸々のツミにまみれ、ケガレていると思い込んできた裡なる魂が、明煌々と光ならざる光を放ち始める。
 最初のうちは信じられないくらいだ。嬉しい。ありがたい。否、光と歓喜とはヒーリング体験においてはシノニム(同義語)なのだ。

◎「注意を移す」と私たちが普段称している大まかな行為を、少しずつ小さく柔らかく分解していく。
 それが極まると、微分的な感覚・意識の流動世界が拓ける。そのようにして注意の波紋を精細に精練すれば、細胞レベルにまで影響を及ぼすことが可能となる。

◎人それぞれによって、心身の粗密の度合いが異なる。全身的にギュッと硬く凝滞して重々しく融通が利かなくなっている者もいれば、瑞々しく軽やかに開かれている者もいる。
 ヒーリング・タッチで触れ合ってみると、各自それぞれヒーリング伝導の速度が違うし、相手から伝わってくる存在感の質、深さ、高み、拡がり、すべてが違う。私自身の実感によれば、開かれ流れているほど楽で、硬く閉じている(凝滞している)ほど苦しい。
 こうした感性の違いは先天的に固定されたものではなく、ヒーリング・アーツの正しい実践によってどんどん変わっていくものだ。ただし、各修法の本質を誤解・曲解し、我流のあやまったやり方を続けると、肯定的変化が起こらないどころか有害な結果をもたらすことさえある。
 この点は最初にハッキリさせておきたい。本当に効く薬は、使い方次第で毒となる。ヒーリング・アーツも同様だ。

◎強ばっている人間は、それを「強さ」と最初に勘違いしたため手放せなくなってしまっているケースが結構多い。その仮想の強さをレット・オフによって反転させれば(於・静中求動)、真の強さが顕(あら)われてくる。
 本物の強さというものは、弾力がある真綿のような柔らかさ(リラクゼーション)の中でのみ見出される。これを太極拳の先人たちは、「綿の中に針を蔵(かく)す」と表現した。

<2009.02.04>