◎ここをこうすればこうなる、あそこをああすればああなる、そういう表面的テクニック、技巧のみにとらわれると、各修法の本質を取り逃がすことになる。「感じ」ようと「考え」たら、もう道を踏み外している。それは実に微妙な陥穽だ。
クルアーン(コーラン)開端章に曰く、「踏み迷える者の道にあらずして、正しき道へと我らを導きたまえ」・・・・イスラム精神を理会するため、私はクルアーンをアラビア語で読(詠)み始めた。
◎ヒーリング・アーツは、シンプルで自然なものだ。そう聞いて誤解・曲解する人が多いのだが、シンプルと安易とは全然違う。それは簡単でもない。
実際には、どういう道でもシンプルなものほど理会・修得が難しいとされている。なぜならそうしたシンプルさとは、多種多様な要素が濃縮・精練されたエッセンスにほかならないからだ。私が言うシンプルとは、「純粋で、まじり気がない」という意味だ。
◎仏の微笑みが意味するものとは何か? 仏は誰(何)に対して微笑みかけているのだろう?
◎まず、顔に染みついた偽りの笑顔をふき取ることから始めよう。この汚(けが)れは神経にインプラントされているから、いくらこすっても絶対に消えないし、目には見えないため存在に気づくことすら難しい。
◎両手を打ち合わせるなどして掌の感覚を活性化させ、そっと顔に充てる。あえて「充てる」と書いたことに注意してほしい。まず労宮を当て、そこから指先と手首に向かって、同時に、それぞれ順に、柔らかく「触れて」いく。骨は抑えないように。
掌が顔にまんべんなく密着したなら、手が顔の凹凸を忠実に映した仮面、あるいは雌型であるかのように感じてみる。これは、受動的に顔にタッチすることを意味する。あるいは顔から「触れられている」。
そうやって「触れる」ことと「触れられる」ことを同時に意識しながら待っていると、徐々に、顔を顔そのもので感じられるようになってくるだろう。こういうタッチを、手を「充てる」と以降は書くことにする。
手を充てていると、顔の外側でなく、内面が意識されるようになってくる。そして、思わぬところから浮かび出てきたその実際の顔は、普段自分が顔がある場所として感じていた位置より、かなり奥まったところにあることを発見するだろう。
それまで前方空間に投影されていた仮想の顔こそ、私たちが日常生活を営む上で知らず知らずのうちに身につけてきたペルソナ(仮面)であり、英語のパーソナリティ(人格)の語源となっているものだ。
◎本物の顔は非常に立体的であることにも驚くはずだ。仮想の顔(仮面)が平面的なのは、通常、私たちが鏡という平面のみを通して自分の顔を認識しているからだ。
◎本物の顔が表われてきたら、手を充てたまま微笑んでみる。普段の、作為的微笑みでよろしい。手で骨を押さないよう注意。
すると、笑うという行為を、骨と手の間でしっかり、柔らかくはさんでいる感覚が起こる。そうやって感じてみると、意図的に作った笑いがいかに嫌みたっぷりで白々しいものであるか、ゾッとするほどハッキリわかるだろう。笑いに限らない。いかなる表情も、作為的なものはすべて嫌らしく、空しい。いろんな表情を作って実験してみると面白い。
◎そうやって捕えた嫌らしい作り笑いをわずかに強調し、意識化し、そしてレット・オフしてみる。笑いを消そうとか、元に戻そうとか、一切何も考えず、ただ「笑う(おう)という意図」をオフにしてしまう。
すると・・・、潮が退くように作り笑いが自ずから消えていくと共に、顔の奥深くから微細な振動感が湧き上がってくる。それは抑えつけられていた頭骨の振動が活性化し始めた証だ。
つまり、作り笑いは自らの頭骨の振動を抑圧し、その影響は全身的に及んでいって、私たちの生命力をトーンダウンさせてしまうのだ。
◎こわばった笑いが消えていった後、どこか奥深いところから細やかなさざ波のようなものがレット・オフの波に乗って湧き上がってくる。それは唇から周辺へと拡がっていき、まったく別種の微笑みとして柔らかに花開く。これに対し、作り笑いはオンだけで出来ている。
◎偽りの微笑みがどれだけアンチ・ヒーリングなものか、簡単に確かめる方法がある。かしわ手を打って粒子的振動感をジェネレートし、それに向かってわざとらしく微笑みかけたり、やめたりしてみることを何度か繰り返す。
◎小さな赤ん坊とか仔猫、子犬などと向かい合った時のことを思い出してみるといい。
思わず浮かんでくる微笑みの外形はそのままに(静中求動)、外側(対象)へと向けた意識の方向性だけを<強調→レット・オフ>・・・・すると、微笑みの内向が起こる。微笑みそのものを反転・変質させるのではなく、微笑みかける方向にリバースを起こす。気功には似笑非笑(笑うに似て笑うにあらず)という要訣があるが、同種のものだろう。
誰(何)かに微笑みかける時に相手へと注がれる「質」が、レット・オフにより自分自身にすべて還ってくる。微笑みの裡に途方もなく深遠ないやしの力が宿っていることが直ちにわかるだろう。微笑みのシャワーを、体の中で浴びているみたいだ。
こういう術を山彦修法と私は呼んでいる。裡への反響を引き起こす素材は、感謝、謝罪、怒りなど、意外なものがあれこれ使える。
いろいろ実験してみると面白いが、同じ微笑みでも対象・相手によってその質はそれぞれ違う。反転させて自分自身でテイスティングしてみれば、質の違いがすぐわかる。
微笑みを自らに還流させつつ、身体各部を<凝集→レット・オフ>していけば、やがて全身が裡なる微笑みに満たされるだろう。その時あなたは、いやしの泉に内的に浸かっている。
<2009.02.26>