Healing Discourse

ヒーリング随感 [第23回] 21世紀の女神崇拝

◎「アルテミス修法」という名称が、直接伝授したわけでもないのに、あたかも既存のメソッドの如く、何人かの人々によって普通に、的確に使われ始めている。以心伝心、彼女/彼らは、アルテミスと呼ばれて太古より人々の崇敬を集めてきた偉大な力に、修法を通じてアクセスし始めている。それは21世紀流の新たな女神崇拝といえるかもしれない。
 読者諸氏から寄せられたアルテミス修法実践報告を、いくつかご紹介しよう(抜粋)。
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 <体験談1>
 アルテミス修法を行なうにあたり、初めは指を相当吸わないと肛門が締まる感覚が分からず、そのうちに力を入れすぎて頬が痛くなってきてしまいました。肛門を意識し過ぎるあまり変な力が入っていることも感じたので、まず指吸いを丁寧に行なっていくことから始めようと思いました。
 初心にかえり、ゆっくり柔らかく粒子的に、そしてできる限り満遍なく吸ってはやめ、ということを何度も繰り返していくと、次第に肛門のあたりに柔らかな波紋が起こっているのを感じ始めました。
 わざと外側から肛門を締めてレット・オフしてみると、不自然な凝集の感覚が溶け去って、指を吸っているのはそのままにしていてもまるで何も起こっていないような感覚だったのですが、吸うのをやめるとフワッと肛門が緩んでいくのが分かり、それで初めて肛門が締まっていたことを認識するといった具合でした。そしてその感覚がある場所もこれまで肛門があると思っていたところとは場所がずれていました。
 まだ肛門とダイレクトに繋がっているという感覚が薄かったものの、静中求動で指吸いをレット・オフしてみました。肛門の内側から精妙なさざ波のようなヴァイブレーションが湧き起こってお尻や下腹部を満たしていき、お腹がどん底から緩んで、その柔らかな波紋に全身が溶け去ってしまうのではないかと思うほどでした。
 様々な思考から離れて、自らがここに存在することに対する喜びと、落ち着いた安心感に満たされていました。自分自身であることそのものに深く寛いでおり、言葉でいいあらわしがたいほどの満ち足りた充足感でした。そして、自分自身の内面でこのように真の寛ぎと満足が得られるのに、あれやこれやと思考を巡らせ、外側にばかり意識が向いて彷徨い、不安を引き寄せていた自らの有様に気付き、思わず笑ってしまいました。この穏やかでありながら、これ以上は何もいらないというような無上の幸せの感覚は、今までにない特別な体験でした。<N.S. 女性・神奈川県>

 <体験談2>
 初めは、あまりの繊細な感覚になかなか感じ取ることができませんでした。横臥して指をゆっくりと吸っていきましたが、肛門までの繋がりが感じられず少し焦り始めたころ、指を吸おうとするあまりに、胸や腹に余分な緊張が起こっていることに気づきました。
 胸・腹をレット・オフしていくと、ようやく肛門が内側から締まってくる感覚が起こり始めました。かなり微妙だったので、何度も吸ってはやめることを繰り返していると、だんだんその感覚がはっきりとしてきて、指を「吸う」、「やめる」という動作に合わせて、まるで肛門が呼吸を始めたかのようでした。
 身体の中を通じて口と肛門とが繋がっている感覚は独特で、余分な緊張をレット・オフしつつ、指を吸うことで肛門が締められ、それを保っていると、肛門から軽く痺れるような波が起こってきました。それは穏やかでありながら力強く、心地よさと多幸感が渾然一体となったような、これまで感じたことのない不思議な感覚で、目は閉じているのですが明るくなり、肩の力がスーッと抜けて下腹が暖かくなってきました。しかも雑念はどこかへ消えてしまい、ただただ至福の中に溶けていくようでした。
「ここまで深くいやされたことはなかったのではないか・・!」と思えるほどの深遠ないやしの波と思う存分溶け合い、味わいました。さらに、静中求動を保ちながらそのままゆっくりと吸うことをレット・オフしていくと、体内で極小の泡が湧き立つような、あるいは流れるような感覚が起こり始め、特に胃の辺りにそれが感じられました。口から指を離して静かに横になっていると、胃が動いているように感じられ、その後、なぜか胸まで軽くなってきました(胃が胸を圧迫していたのでしょうか・・?)。
 この感覚は本当に独特で、もし自分が体験していなければ、いくら言葉で説明されても信じられなかっただろうと思います。そしてなぜかわかりませんが、「懐かしい」という感覚に襲われます。たった1回行なうだけでも深く深くいやされ、静けさの中に満ち溢れる歓喜を発見し、「自分が今ここに存在すること=喜び」だと感じられてきます。<M.K. 男性・岡山県>

<体験談3>
 肛門を緩め、アルテミス修法で指を吸っていき、そして、その力を徐々に肛門へと及ぼしていきました。すると、身体の芯から吸われるように感じられながら、その力が肛門へと達していきました。今までは肛門から身体の内部へと感じられていた力が、逆転し、内部から肛門が吸い込まれるように感じられていきました。
 また、今まで肛門を締めるとき、尻全体が緊張していたのが、今回は肛門のみが緊張するのがわかりました。この感覚が高まっていきますと、今まで感じられなかったような、エクスタシーを感じることが出来ました。私としましては、前立腺に近いあたりからこの感覚が起こっているように感じられています。
 指を吸い続けていきますと、吸い込む感覚が、内臓、胸と上半身に広がり、エネルギーに満ちあふれていきました。この感覚をもって強健術を行ないますと、今までになく下腹内の1点に力が、大きめのビー玉の大きさまで集まる感覚がわかるようになってきました。<H.I. 男性・兵庫県>

 <体験談4>
 まず、横になって指を吸ってその陰圧を感じていきました。内側から肛門を締めるという感覚が初めはなかなか掴めなかったのですが、何度も繰り返して行なっていくうちに、次第に喉、胸、腹・・・そして肛門と内側から繋がっていく感覚が生じ始めました。つい頭で考え、イメージで行なってしまいそうになるのですが、口で吸う力を触覚を頼りに拡げていくことで、少しずつ意識が身体の裡に収まっていくのを実感しました。
 内側から吸い上げる力が下腹のあたりに達した時、肛門を締めようとする意図を一切持っていないにも関わらず、肛門が締まる独特な感覚が感じられました。通常のやり方と比較してみると、明らかに力の方向が異なります。言葉にしてみると肛門が内側から締められるとしか言いようがないのですが、なんとも自然で楽であると思いました。
 さらにこの時、肛門を上から見ようとして目に力が入っているのに気づき、それを強調してレット・オフすると「ズボッ!!」と意識が体幹内部に強烈に引き込まれるもの凄い感覚を味わいました。
 これほど身体の「裡」に入る実感を味わったことは初めてで、しばし呆然としてしまいました。これまで多少なりとも身体の裡を感じている感覚を味わってきたと思っていましたが、まだまだ未熟であることを痛感した出来事でした。
 無心に何度も実践しているうちに、指吸いと肛門の締まりに時間差がなくなっていき、それがとても自然に感じられるようになっていきました。さらに肛門を締めた状態から静中求動でレット・オフすると、身体の中の深いところから透明な波動を感じ、心身の不調和が洗い流されていくような気持ちよさに満たされました。穏やかな幸福感が満ちあふれ、時間の流れを忘れてしまうかのようでした。
 ある時、不思議なことに気づきました。その日の朝から、軽い頭痛を感じていたのですが、それが綺麗さっぱり消失していたのでした。より深いところから身体の歪みが浮かびあがってくるように何度か痛みを感じましたが、修法を実践する度に心地よさに包まれ、練修を終える頃には完全に頭痛が治ってしまいました。
 無垢な赤子にもどったような感覚、どこまでも透き通るような透明感、帰るべき我が家に戻ったような安堵感、幸福感・・・。修法を実践してこのような実感をもちました。様々な不快感が湧き起こった時、修法の実践を行なうと、スーッ・・・とそれらが消える、というより中和されてしまい、穏やかな感覚に包まれるのは神秘的としか言いようがありませんでした。<R.S. 男性・神奈川県>

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◎赤ん坊や小さな子供が無心に指を吸っている時、その体と心には一体どんなことが起こっているのだろうか? どこにどういう力が働いていて、それは心身にとってどういう意味があり、どんな作用があるのか?
 赤ん坊に出来ることだから誰でも簡単にできる・・・そう思って侮(あなど)るとしたら、あなたは大変な過ちを犯している。
 私たちは、赤ん坊と同じやり方で指をくわえ、吸うことさえできなくなっている。それが私たちの現実だ。赤ん坊のやり方をすっかり忘れ去り、仮想の指を仮想の口で吸っている。だから最初のうち、口と肛門のリンクが実感しにくい。赤ん坊のように無心に吸うことから始めなければならない。イエス曰く、「あなたが幼子のようにならない限り、神の国は拓かれない」。

◎もう一方の手の指を肛門に入れ(唾液かローションなどを潤滑剤として使うとよい)、アルテミス修法を行なえば、指吸いによって肛門周辺に生じる変化を感じやすくなり、アンバランスを是正していく助けとなる。
 肛門の周囲をぐるりと均等に締めたり緩めたりすることは、ほとんどの人にとって未知の体験だろう。肛門の角度も、とんでもない仮想となっている人が多いはずだ。指を肛門に入れると、よくわかる。頭で考えただけでは、いつまでたっても仮想から抜け出せない。

◎トルコ・エフェス郊外の人里離れた山中に、聖母マリアが晩年を過ごしたとされる場所があって、妻と一緒に訪ねていったことがある。かなり辺鄙(へんぴ)なところだが、各国からの多くの巡礼たちで賑わっていて少し驚いた。
 アルテミスへの鑽仰(さんぎょう)は、聖母マリア信仰へと形を変え、世界中に広まっていったのだ。

<2009.03.08>