Healing Discourse

ヒーリング随感 [第27回] ボーン・アゲイン

◎アルテミス修法には様々な可能性がある。実際にどういうことが感じ/わかり/できるようになるか、2〜3の例をあげてみよう。

◎達磨大師によって中国にもたらされたという「易筋」、「洗随」の法にも、アルテミス修法は通じている。
 易筋とは、筋膜と腱をベースとする心身の総合鍛練法だ。ヒーリング・アーツ流に表現するなら、筋膜や腱をストレッチし、レット・オフにより<たまふり>を起こす。
「洗随」は、骨の随にまでたまふりを浸透させること。アルテミス修法の中級レベルに参入すれば、息と合わせて<たまふり>を骨の裡へと染み込ませることが、実際にできるようになる。

◎「易筋」なら、アルテミス修法入門レベル(基本的メソッドは本随感ですべて公開した)からでも行なえる。
 例えば背中のどこかが凝って、痛み・不快感・違和感があるような時、その部位の筋膜を身体内面から調整する程度のことなら、ほとんどの人が習ったその日のうちにできるようになっている。ここでいうヒーリングとは、より開かれて柔らかくなること、軽くなること、楽になること、気持ちよくなること、楽しくなること、烈しい熱を伴わない沸騰感、泡立ちきらめく生命の質感・・・などを意味する。
 洗随はちょっと高度だが、段階を追って正しく着実に進んでいけば——この場合の進むとは、既成のプログラムではなく自分自身の裡なるプロセスに乗って、という意味だが——大まかなところを掴むまでにそれほど時間はかからないだろう。骨随に<たまふり(ヒーリング)>を起こした後、仰臥して内観すると、各骨がそれぞれどんな風に引っ張られ、押しつけられ、折り曲げられているか、それが少しずつ感じられるようになってくる。
 感じられれば、調整することもできる→三半規管をヒーリング・タッチで目覚めさせることをクロス・オーバー→さらに奥深いヒーリングが起こる→そこに再びアルテミス修法で易筋・洗随→膜も筋も骨も、それ自体がパアーッと細やかに弾け、互いに打ち合い、結び合う。裡なるかしわ手。樂!!!
 ・・・・こんな風に、多層的・立体的に修法が次々と展(の)び開いていく。
 
◎あなたは骨が息づいているのを実感しているだろうか? そんなことは想像もつかないとおっしゃるなら、それは骨が固まりつつある証だ。
 骨も生きて振るえている。生命の本質は振るえ(振動)だ。この生命(いのち)の振るえを観たければ、合掌し指先で柔らかい羽毛を挟んでみればいい。羽毛は細かく振動し、止めようとしても絶対に止められないだろう。止まる時は死ぬ時だ。
 その命の振るえを、手から腕、そして全身へと意識を拡げ、内的に感じていく。全身あらゆるところが羽毛と響き合っている。この振るえを極微のヴァイブレーションへと精練し、それをマトリックス(母体)として心身に波紋を起こす、それがヒーリング・アーツの基礎原理だ。

◎赤血球や白血球の多くは骨髄で造られる。骨髄を振るわせ骨を若々しく保つことは、造血作用を高め、骨粗鬆症などを予防する意味においても重要だ。
 理屈はさておき、骨の随にたまふりが起こると、フレッシュな若やぎの感覚が身体の芯にまでジーンと染み透っていくのが実感できる。骨髄のたまふり感覚もまた、独特で楽(樂)しい。Born(Bone)again.

◎アルテミス修法と行気法をクロスオーバーすることもできる。第18回で頭蓋呼吸とアルテミス修法をかけ合わせる修法をご紹介したが、あの術では指を吸いつつ息を吐き切り、呼吸は忘れて指吸いを少しずつレット・オフしていく手法を説いた。
 呼吸と術とを融合させるやり方はいろいろあって、諸道各流派で重要な秘伝とされているケースが多い。
 例えば先に述べた易筋においては、背中のどこでも好きな箇所の筋膜を指吸いで内的に緊縮させておき、その緊縮のカウンターパートとなる緊張(緊縮を正反転させた位相を持つ拡散力、ただし最初の緊縮を一切解かない)を吸気によって生み出した上で、(指吸いによる)緊縮の方をレット・オフする。この間、呼吸停止(呼吸における静中求動)。これにより、留めた息が体内で振るえる。凝り、固まったものが、裡からほどけ始める。
 文章で書くといかにも複雑そうだが、要するに術と息をいかにして同調させるか、ということだ。いろいろなヴァリエーションがある。作為的に呼吸するのでなく、レット・オフによって自然に息が通じるようにする。それが行気法(こうきほう)だ。

◎第24回でご紹介した観音修法についても、少し補足しておきたい。
「耳を感じ、耳に内蔵された<聴く>以外の機能を目覚めさせ、活性化させよ」・・・私がいくら言葉を尽くしてそのように説いても、直ちにその真義を理会し、大きな効果を実感できる人は少ないようだ。馬の耳に念仏とまでは言わないが、私のように片耳がまったく聴こえない人間以外には、それほど切実な問題として魂に迫ってくることが(少なくとも最初のうちは)ないようだ。皆、ポカンとしている。
 音楽家であり、ヒーリング・アーツの感性を相当に開いている妻ですら、数日経ってからようやく、「オ〜ツ」という歓声がこの修法を行なうたびに出始めた。さらに数年が過ぎた今頃になって、「この修法はすごい」としきりに感心している始末だ。
 いかに「耳」というものが人間にとって当たり前のものとなっているか、自分と他者とのギャップを認識すると同時に、生まれついてのハンディキャップがなければこの修法を授かり、人々と分かち合っていける可能性はずっと低かった——というよりは限りなくゼロに近かった——事実を想う時、宇宙間に何ごとも無意味なものはないという予定調和の感覚と、同時にすべては宇宙的リーラ(遊び、戯れ)であるという感覚とが渾然一体となって、私の裡に押し寄せ渦巻く。

◎観音修法の効果を感じにくい人は、片耳だけで丁寧に行なうことからじっくり取り組んでいくといい。特に、より聴こえにくい側をしっかり意識化すれば、これまで「(使われて)なかった」箇所が、全身あちこちに浮き上がってくる。

◎観音修法にもいろいろ応用法がある。
 耳孔にヒーリング・タッチしながら、顎を開いたり閉じたり、スライドさせたりひねってみたり、あれこれいろんなやり方で動かしてみる。その後、リラックス。
 観音修法を修しつつ顎を動かしていけば、顎の関節が随分アンバランスになっていることが実感できるだろう。歯の噛み合わせもみるみる変わっていく。1分ほどじっくり行なった後は、全身を爽快感が巡っているはずだ。顎関節のちょっとした不均衡が、かくも全身に大きな変化を及ぼす事実に驚きもするだろう。
 硬くて歯が立たないような食べ物も、観音修法で耳の奥を意識化しながら咀嚼すれば、ムシャムシャバリバリ平気で食べられてしまう(歯の弱い人はいきなり無理しないように・念のため)。
 硬いものを噛みつつ、観音修法を行なったりやめたりして比較すれば、「その場で直ちに」変わるという私の言葉が、決して大げさでないことがわかるだろう。

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◎伊勢神宮へ、妻の美佳と共に巡礼に行ってきた。

伊勢神宮・内宮(ないくう)、五十鈴川べりの御手洗場(みたらし)にて。

◎朝まだき、神宮の神苑へと、私たちは密やかに足を踏み入れた。
 ヒーリング・トリップ(巡礼)の歩みを1歩また1歩と進めるにつれ、何か・・・かそけき気配の如きもの・・・がまとわりついてくる。

◎何人もの神官とおぼしき人々とすれ違った。お互い顔見知りではないが、何かが直覚的に響き合うのだろう、全員が深々と礼をしてくださった。こちらもまったく同時に、敬意を込めて礼を返す。

◎世界的建築家であるドイツのブルーノ・タウトは、かつて伊勢神宮を絶賛し、「パルテノン神殿に匹敵する」、「全世界の建築家はイセに詣でよ」とまで言った。
 タウトは、1つの建築物(正殿)についてではなく、外苑も含めた神宮の神域構造全体について語っていたのだと、この地に実際に立ってみて初めて理会できた。
 パルテノン神殿の真っ直ぐな石柱群はここにはない。が、巨大な杉の木々がその代わりを務めている。自然と人工とを巧みに配した神域のデザインは、訪(おとな)う者に敬虔と畏怖の念を自然と覚えさせるよう、巧みに設計されている。そういう「意図」が、この場所に強烈に漲っているのを感じた。

◎進むほどに、「ありがたい」という感じが強まっていく。こうした大掛かりな仕掛けを創り出し、それを現代に到るまで保持させている「意志」に対して、私はちょっとした感・動を覚えた。
「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだ西行の心が、私のハートに直に染み入ってくる。

◎早朝にも関わらず、道を掃き清め、落ち葉を集める人の姿をあちこちで見かけた。警官、守衛、神官、いずれも寡黙に、厳粛に、自らの務めを果たしている。ここにはだらけた雰囲気や騒擾、混乱は、一切ない。

◎石笛(いわぶえ)を取り出し、奏上してみた。
 石笛は、自然石に自然に穴が開いただけのシンプルな楽器だ。しかし、息と石を共振させるコツがわかると、幽玄な響きが生じる。古代の人々は、その音がカミを呼び寄せるものと考えた。
 石笛の音(ね)がこれほど自然に感じられる場所を、私は他に知らない。心を鎮めて石にそっと息を吹き込み、振るわせる・・・・・と、そこから発する涼やかな音が、周囲の木々の葉の1枚1枚と反響し合い、複雑な流れとなって、森の中を大蛇(おろち)のように滑り抜けていった。

◎そういえば、あまり知られていないことだが、天照大神は元々男神であり、しかも蛇の姿で夜な夜な巫女(斎宮)の元を訪う蕃神(異教的な自然神)だったという。
 
◎伊勢神宮でも、新たな修法をどっさり授かってきた。
 ・・・・・・・かたじけなさに、涙こぼるる。

<2009.03.21>