Healing Discourse

ヒーリング随感 [第31回] 感じ・動くままに(後編)

◎あらゆる営為の裡に潜在する、ほころびのきざし。その、寂滅のオフ感覚こそ、侘(わび)であり寂(さび)だ。日本人は、オフに美意識を見出した民族だ。

◎波を、身体で感じる。そうしているつもりで、実際には頭で考えているだけの人が多い。考えている時には、目に力が入ってその力みが目の中でスイングしている。

◎外的なうねりの模倣(くねり)ではなく、波の本質であるエネルギー伝播として、私は波動を身体内で感じる。浜辺に次々と波が押し寄せる時、移動しているのは水ではなくエネルギーだ。

◎平面上の波動曲線そのものの中、すなわち点のみが存在する一次元世界にわが身を置いてみたら、波動というものをどんな風に感じるだろうか?

◎ヨガ=くびき=心身統合=たまふり。
 たまふりとは情熱であり、歓びであり、覚醒だ。それを能動的に「起こす」ことはできない。しかし、それが起こり得る素地を整えることなら可能だ。自らを開いて器となり、神の美酒が注がれるのを待つ。

◎自らの裡にて大いなる「流れ」と出会い、それに対して完全にオープンになり(開き)、受け入れ、呑み込まれ、呑み込む。すると超越が起こる。
 聖なる器の秘儀とは、自らを犠牲として捧げることにほかならない。
 あらゆる経験を粒子状に解体し、死灰を撒くがごとくに虚空へと投じよ。
 捧げ捧げて捧げ切った者は、大いなる力と叡知を得て再生し、復活する。

◎芸術家がミューズの美神に我が心身のすべてを委ね、創造の器となる時のような、そういう全面的明け渡しと委ねの状態を心身一如で体現する。それが、究極のレット・オフだ。

◎上体(みぞおちから上)における不調和の感覚は、すべて「実」に基づいている。例えば、心臓病は胸が慢性的に力んだ状態と対応している。
 体が硬い人は、胸が内側から粉々にほどけ、胸郭の力みがバラリと抜ける感覚を決して味わったことがないはずだ。胸も背中もグニャグニャになって、自由自在に動かしてもどこにも痛みや引きつれ、滞りを感じない境地など、夢のまた夢だろう。
 それは、身体の自然を無視しているからだ。一例をあげると、肋骨を左右に開きながら胸で深く息を吸おうとすれば、胸郭の骨格構造と息がぶつかり合って葛藤(ブロック)を生じる。肋骨は斜めに流れているから、その流れに沿って胸郭は伸縮しなければならない。
 胸を大きく開きたければ、両乳首を結んだ線を基準とし、これが左右に均等に開くように注意しつつ、胸に息を吸えばよい。肺は左右に拡張する。これが、正しい胸式呼吸(吸気)だ。
 ただし、「そのようにしたつもり」では、ほとんど効果がない。ヒーリング・タッチで乳首そのものの角度まで正確に意識化し、左右をヒーリング・バランスでクロスオーバーする。その時にのみ、「左右の乳首を結んだ線を開く」という要訣(肥田春充による)が、素晴らしい偉功を発揮し始める。

◎動けなくなるのは固まっているから。固まると動けなくなる。当たり前のことだが、それがどんな風に自分自身の心身に起こっているかに気づく者は少ない。

◎私たちが胃を意識するとしたら、それは胃がむかついたりシクシク痛むような時だけだ。胃の調子がいい時には、胃のことなどまったく気にかけない。それがあることすら忘れている。だから、全身が透明で存在感が感じられない時、人が健康であるというのは事実だ。
 が、それは暗い無意識の泥沼の奥底にズブズブ沈んで滞ることとはまったく違う。無意識に任せれば健康になると主張する流派もこの世には存在するようだが、それは正しい言葉の選択を誤ったのだろう。
 頭で考えた作為としての「意識」は、健康のために百害あって一利なしであることを認めるに、私もやぶさかではない。だが、私が言う<ヒーリング>は、かつてタオイストたちが昏沈と呼んで退けた無意識の暗い世界とはまったく異なるものだ。

◎不動心とは、いったんこうと思い込んだらテコでも動かぬ頑なさなどではなく、無感覚・無感動ともかけ離れている。
 ヒーリング・タッチによる触れ合いにより、自律的な自然運動が触発されることがある。思ってもみなかったような意外な動き、これまで自分が決して行なったことがないような動作が、体の奥底から湧きあふれるように現われる。
 そういうヒーリング・ムーヴメントは、普段の動きと比べて非常に滑らかでバランスが取れている。自分では何もしようとしていない。むしろ、内的な実感としては静かに止まっているようにさえ感じられる。
 周囲には動きがある。が、それに巻き込まれず、超然として離れている。
 それが中心の感覚だ。不動心へと通じる扉だ。それを動きのさ中に探し求めることを、「動中求静」という。

◎自然運動において、多くの人が速く動きすぎている。単調、単純に動く日常の癖を、無意識のうちに投影している。

◎自然運動がさらに精練されて霊動(スピリチュアル・ムーヴメント)となるためには? 
 レット・オフを使い細かく割って、間(ま)を増やすべし。そこにスピリットの力が注がれる。

◎開放とは、拘束から解き放たれる際に生じるはずみであり、ダラリとした緩みっぱなし開きっぱなしとは断じて違う。

◎あるメソッド(手法)を実践した時、なぜある人はすぐ大きな効果が出るのに、別の人は大した効果が感じられないのか? 
 それは簡単に言えば、身体と精神とが合致していないからだ。
「そんなことは当然じゃないか。心身統合なんて凄いことができたら、どんな道でも一流、超一流になれる」・・そんな声が聞こえてきそうだが、あにはからんや、心身が統一していることは、実はあらゆる人間にとって最も自然で当たり前の状態なのだ。その、元来当たり前のはずの心身統一状態を回復させる力が、ヒーリング・タッチには秘められている。

◎心身の統合。それはいかなる現象であり、いかにして起こるのか? 古今東西よりあまたの覚者、賢者、聖者らがそれを闡明(せんめい)し、人々に伝えるという超難事業に取り組んできた。
 心身統合には確かにいろいろなメリットがある。各自が生まれつき備えているユニークな才能を、最大限に開花させていけるようになる。心も体もより健康になる。人としてより成熟し、叡知を蓄えていくことができる。隣人たちを助けることさえできるようになる。
 しかし、先覚者たちが心身統合への道を力説したのは、それがもたらすメリットゆえではなかった。心身統合とは、私たち本来の自然な姿なのだ。ところが私たちはそれを見失ってしまい、自らの生得の権利として主張できることさえ忘れ去っている。そして、不自由な心身分離状態の中で足掻(あが)き踠(もが)きながら生きている。
 私たちは心身の分離を、凝りとか痛みなどの身体的違和感として感じる。ところが、それを心と体の調和の乱れとは考えない。そもそも肉体と精神が分離するという可能性について、ほとんどの人は考えてみたことさえないだろう。

◎頭骨の仮想がどれだけひどいものか、実際に両手で触れ合って、真剣に、徹底的に、トータルに頭の形を感じようとしてみれば、すぐにわかる。・・・まったく形がつかめない。どこにあるのかさえ、ハッキリしない。・・・目とか耳など、比較的意識しやすい部分から、少しずつ感覚を拡げ伸ばしていくといい。
 頭骨は顔から後ろへと広がっている。両耳の間にもある。それに異論はあるまい。だが、あなた方は本当にその方向へと自分の頭を感じてきただろうか? 
 その曲面の内部が、頭の中(脳が納まっている空間)なのだ。あなたは、その中に「入る」ことができるか? 
 文字を読んでいるだけだと、「どうしてそんな当たり前のことを仰々しく繰り返すのか」と私でさえ思ってしまいそうだが、実際にやってみると、頭の中に入る(内部空間を意識する)のは実に容易ならざることであるとわかる。

◎手法(メソッド)というものを学ばんとするにあたり、最大の障害となるのは、それを頭で考えて、つまりマインドというフィルター(ふるい)にかけた上でそれを行なってしまうことだ。ヒーリング・アーツ流に表現するなら、手・腕が頭側に属していると思い込む仮想が原因だ。腕は頭ではなく、体(胸郭)の方に属している。

◎「存在感」とは、自らがいかに在るかの感覚。観音修法は存在感のバランスを取る修法だ。
 観音修法はBeingを調える。Doingを変えようとするのではない。この点を誤解し、混同しないよう注意する必要がある。Doingはいかなる作為もなしに自ずから変わる。

◎足首を曲げ、伸ばすとは・・・足首の前面で折り曲げることにあらず。

◎どの書店にも、様々な健康法の本がどっさり積み上げられている。その1つ1つについて私は詳しいことを知らないが、これからの<激変の時代>にあって、それら諸々のメソッドが人類の適応促進のため真に役立つことを、衷心より祈らずにはいられない。
 私が約30年前から警告を発し続けてきたことだが、地球環境そのものの変動が、今や誰の目にも明らかとなりつつある(当時は真剣に耳を傾ける者が誰もいなかった)。
 大気(呼吸する空気)も食物も、百年前とは随分違ったものになっている。変化は今後、さらに大きくなっていくだろう。私たちは、その新たな環境に適応していかねばならないのだ。

◎私がこれまで観察してきたところでは、タッチ不足で育てられた人間はおおむね感性が鈍くなり、自らの身体を自由に操ることができず(不器用)、他者とスムーズに関係し合うことに困難を感じる傾向にあるようだ。
 そういう人たちも、いたわりとねぎらいの感覚を全身的に味わううちに、閉ざされていたハートが少しずつ開き始め、自分自身及び他者とより深いレベルでコミット(関わり合う)できるようになっていく。そのためには、言うまでもなく絶え間ない修練が必要とされる。

◎病と対比される健康とは次元の違う<いやし>の境地について、私はこれまで語ってきた。

◎手の様々な問題は、三角筋(肩の筋肉)のアンバランスと連動していることが多い。三角筋をヒーリング・タッチで意識化すると、手だけでなく肘の違和感、脇腹の痛み、首の凝りなどが直ちにほどけ始めることもある。
 面白いことに、多くの人は僧帽筋(首と肩の間の筋肉)を指しながら、「肩が凝った」と訴える。肩の筋肉は、三角筋だ。

◎人体の物理的中心点と地球の中心とを結ぶ垂直線が、全身の中心線と合致する姿勢をとった時、燦然と輝く極楽浄土が眼前に顕われる。世界が直ちに神秘的な大聖堂と化す。
 この姿勢を現わすためには、極めて繊細な作業が必要だ。「神の国へと至る道は極めて細く狭い」と語ったイエスは、この姿勢を体現していたに違いない。

◎無言の行では、しゃべろうとする気(機)を感じるたびに、その都度<強調→レット・オフ>していく。

◎悔いるとは、自らを批判し、否定し、押しつぶし、こね回し、苦汁を絞り出しながら煩悶苦悩の泥海にのたうち回ることではない。ヒーリング・アーツの生き方を貫いて真に「悔」を全身全霊で生き切る時には、重さや苦しさの感覚は一切ない。私は自分自身の生身の体験をありのままに語っている。
 真なる、トータルな、全面的な<悔い>の中へと没入した時、<改め>は自ずから起こる。悔いとは、自らのあるがままをありのままに認め、受け容れることだ。改めとは、骨格が組み換えられて心身のあり方が変容することだ。

◎身体の具体性をベースとして、生と死の本質を見極めていこうとする道、それが武術だ。
 武術とは、死を助言者として生きる道だ。いかに死を迎えるかを突き詰めていく道だ。
 ところが現代の武術修行者の大半は、どうやって死を欺き、死から逃れるかだけを考えている。

◎ヒーリング・アーツは、この世界に顕われ始めてからまだ日が浅く、私がその普及に慎重だったこともあって、それを体験した人は少ない。
 ヒーリング・アーツは、たった今咲いたばかりの花のように瑞々しい。野性的な、原初のエネルギーに充ち満ちている。

◎いわゆる世俗的成功を納めるための力と、ヒーリング・アーツはなり得るか? 
 当然だ。
 これまでいろいろなやり方で何度も繰り返し述べてきたように、ヒーリング・アーツはいかなる道、いかなる生き方とも響き合い、豊かな実りをもたらすことができる。
 ポイントは、どの術をどういう方面にどんな風に応用するか、だ。

◎宇宙の生命エネルギーを取り込むイメージで気分を出しながら深呼吸体操。そういうトレーニング法が世界各地にいろいろ伝えられているから、試してみたことがおありの読者諸氏もいらっしゃるだろう。そして、大抵の場合、かすかで朧げな感覚を覚えるくらいが、せいぜいのところではなかったろうか?
 それは、生命力というものがそのように漠として不確かなものだから、ではない。動きと呼吸がずれているから、充分なたまふりが起こらないのだ。

◎こうやって順に読んでいくと、修法(マナ)というものが平面的かつ一方向的・単調なものと思えてくるかもしれない。「最初にああして、次はこうして、・・・」とやりたくなってくる気持ちもわからないではない。
 しかし、私の裡でたった今、展開しつつあるものは、もっと立体的で空間的、そして多層的な世界だ。随感に記してきたような様々な項目が、複雑に絡まり合いつつ、それぞれ独自に生成発展を遂げていく。
 自由奔放に拡がりながら、同時に節度を超えない。なぜなら、中心がより定まるからだ。

◎ヒーリング・アーツは、二元性の外ではなく、裡へと超越する道を指し示す。
 具体的にはどうしたらいいか? ある方向性を強調してそれ自身の裡へと反転させ、そうやって2つの相反する方向性/流れを、同時に均等に意識するのだ。すると、正反対のもの同士が、微細な火花を無数に散らし合い、内面へと拡がっていく。「内面で拡がる」のではないことに注意。身体を越えていく拡散が、その正反転の方向性をもって内面へと満ちていくのだ。

◎ヒーリング・アーティストの中級者くらいになれば、相手と何度か手を合わせるだけで、「この人は、こういう気持ちでここ(学びの場)にいる」、「こういう風に感じている」、「腰が引けている」、「かなり真剣さが出てきた」、そんなことが自然にわかるようになる。相手が余計な力を体のどの部分にどんな風に入れているかも、スッとわかってしまう。
 そういう能力は自然に発現するため、本人たちはそれが特別なものであることに気づかないことが多い。
「なぜ相手の身体内の状態がわかるのか、考えてみたら不思議と思わないか?」と言われて初めて、「そういえばそうですねえ」なんて首をひねっている。

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◎書けば書くほど、どんどん新しい言葉が湧き溢れてくる。キリがないから、このあたりで『ヒーリング随感』の幕を閉じることとしよう。

◎私が説いているのは、より鮮明に、活気に満ちて生きていくための叡知と術(わざ)だ。さらに健康的になり、もっと活力に満たされ、精神と肉体の働きをより一層高めていくための法だ。より調った状態へと自他を導く藝(わざ)だ。
 何ごとにつけバランスが取れるようになれば、当然運気も変わる。周りに人が集まってくる。やがて、どうすればあなたのようになれるのかと、教えを求められるようになるかもしれない。あるいは、病み苦しんでいる人たちから救いを乞われることさえあるだろう。
 人生を活き活きと輝かせる秘密が<ヒーリング>にあることを理会された読者諸氏は、修練に励み、少しの成功で満足して立ち止まることなく、いやしの大道を堂々と歩んでいっていただきたい。 

<2009.03.24>