Healing Discourse

ヒーリング随感 [第30回] 感じ・動くままに(前編)

◎踵後ろのヒーリング・ポイント(アキレス腱の付着部。足端という)をヒーリング・タッチで活性化させると、特に立位において、ふわりと数ミリ全身が浮き上がるような心身モードに入る。これは足元がふらつくような頼りないものではなく、逆に心身がピンと張りつめた中にリラックスするが如き超次元駆動感覚だ。

◎「上達」という言葉を、私はなるべく避けるようにしているのだが、その理由はもうおわかりだろう。ヒーリング・アーツの奥義とは、下から上へと梯子を昇るようにして到達するようなものでは、本質的にない。部外者に対しては、向上とか進歩、上達といった言葉を使うこともやむを得ないが、いったん門内に参入した者にとって目指すべきは、上や前ではなく、「裡」のみだ。
 より深まり、豊かに細やかに円やかになっていくという意味で、私は「熟達」という言葉を好んで使っている。実際には、達する(到達する)という言葉でさえ不自然なのだが。
 肝心なのは、狂ったように梯子を登り続けるのをやめること、そういう理会が自然に起こってくれば、あなたも一人前のヒーリング・アーティストだ。

◎ヒーリング・アーツには、身体感覚の微妙な陰翳(ニュアンス)を取り扱うための、独自の表現法がいくつかある。
 手あかにまみれ、先入観や偏見を引きずっている旧来の言葉から少し距離を置くことで、曇りなき明晰な意識をもって自らの身体に向かい合うことができる。そのために、独特の言葉づかい・文字づかいを、少しずつ導入している。
 この他にも、言葉をいくつも連ねたり、一見違うものを=で結んでみたり、あれこれうるさくやってきた。ここまでおつき合い下さった読者諸氏は、その意味と重要性を充分ご承知のこととは思うが、長きに渡っての忍耐を感謝する。

◎SF作家のロバート・A・ハインラインによれば、出エジプト記22章に「魔女を生かしおくべからず」とある「魔女」は、古代ヘブライ語の原典では「毒殺者」になっているという。
 ちょっとした言葉上の誤解(誤訳)が元で、大勢の無実の女性たちが魔女として拷問にかけられ、生きたまま火あぶりにされたとしたら・・・。ヒーリング・アーツという新しい経験を新たに説いていこうとするにあたり、言葉づかいに慎重になり過ぎることはあり得ないのではなかろうか?

◎いかなる分野でも、生まれつき才能に恵まれているとしか思えないような人たちがいる。だが、そういう人々は、自分がなぜ「できる」のかを知らない。無意識的に身につけたものなので、彼女/彼らにとって当然のことが、なぜ他の人々に修得困難なのか、それがまったく理会できない。ゆえに、他者を教え導くこともできない。ギャップが大き過ぎるのだ。
 こうした深淵(ギャップ)に、ヒーリング・アーツは橋をかけようとする。

◎ヒーリング・アーツによってたちどころに意識(自己存在感)が変化する。それは神経系の状態が変わるからだ。
 意識とは、身体各部において、肉体(物質)と精神(感覚)とが交乗している状態をいう。単に重なっているのでなく、両者が互いに働きかけ合いつつ動的平衡状態に入っている。それが交乗(クロスオーバー)だ。

◎これまで使われていなかった神経の回路を新たに構築し、意識的コントロール下に置くことで、心身の新しい在り方、新しい動き方が生まれる。
 より豊かな感覚を味わい、より多層的に動くことができるようになる。生の質が計り知れぬほどに深まり、高められ、拡がり、そこにエクスタティックな創造性のエネルギーが注ぎ込まれる。
 それは自分の能力が、存在と可能性の両次元においてさらに拡大することを意味する。

◎身体のどこかを<凝集→レット・オフ>・・・・この時、その部分を感じ「ようと」しているなら、「感じるもの」と「感じられるもの」との間には、いまだ距離がある。どこか離れたところを見るかのように、触感を探そうとしている。こういう状態を、「感じようと考えている」とヒーリング・アーツではいう。そこから始めるしかないが、いつまでもそこに留まっていてはいけない。
 触覚の主体と客体とが身体各部において合致する時、その場所で「心」が目覚める。そういう心の目覚めを「意識化」という。

◎自分の前腕(篭手)にヒーリング・タッチ。
 この際、初学者は往々にして、目で見える部分を目(頭)の方向から感じようとする。それは視覚的かつ二次元(平面)的な認知方法だ。
 これに対してヒーリング・タッチは、直接目で見ることができない「腕のあちら側」も触覚的に感じていく。そして、「こちら」の感覚と「あちら」の感覚を交乗(クロスオーバー)させ、空間そのものを三次元的に感じようとする。

◎ヒーリング・タッチの作用を自ら拒む人も、あまり多くはないが、実際にいる。傍から見ていると、スーッと体が緩んで体勢が変化しそうになるたびに、体を固くして元の状態に戻すことを繰り返している。まったく無意識のうちに行なっていることなので、当人には何の自覚もない。感・動(感じ、動くこと)を自ら拒絶し、締め出していることに気づいていない。

◎そういう人でも、ヒーリング波紋を徐々に全身で受け入れていくことを学ぶうち、トータルに自分を開けるようになるものだ。しかし、自覚をもって進んでいかなければ難しい。
 私がこれまで教えた人々の中にも、古い自分へのしがみつきをなかなか手放せない者が、少数だがいた。幼少の頃に親から受けた虐待など、原因は様々だったが、そういう人はヒーリング・タッチ修得にやや苦労するかもしれない。

◎中級者以上に初心者が術をかけると、かけた方がヒーリング共振のあまりの気持ち良さに感・動する、といったことも起こってくる。与えることよりも受け取ることの方がはるかに難しい。ヒーリング・アーツは、深く受け容れ、多くを受け取る能力も育んでいく。
 術を深く受けている者は、全身から表情を発している。骨の髄から体表面に向けて全方位的に湧き上がってくるヒーリング波紋の現われだ。

◎「感・動」と真ん中に・を置くのは、感覚と動きが互いに互いを映し合い、共鳴し合い、いのちの振動感覚が高まっている状態を表わす。それが感動の本来の意味だ。別の言葉でいえば、感覚神経と運動神経が共鳴状態に入っている。

◎私はいつも虚心坦懐を心がけている。虚心は先入観にとらわれない素直な心、坦懐とはさっぱりとしてこだわらない態度。

◎大きな柱が倒れてくる時、頭を守ろうとしてよけるのと、(腰腹間の)中心を守ろうとしてよける。両者の違いは大きい。
 柱の前に立って、実際にやってみると違いがハッキリわかる。体を動かしながら読まないと、私の言葉は決して理会できない。

◎身体を粒子的に感じるメリットとして、まず第1に身体内のすみずみにまで「息」が通るようになることがあげられる。それが実際に起こって初めて、息を感じられない場所が体中あちこちにあったことがわかる。「息して」いない、つまり「生きて」いなかったのだ。何度も繰り返すが、生きるとは息することだ。

◎1つ1つの修法を、焦ってすぐに仕上げようとしてはいけない。「デッサン」は多く描けば描くほどいい。
 粗から密へ、雑から細へ。大ざっぱなところから始め、全体の調子を観ながら、少しずつ整えていく。

◎ヒーリング・アーツの熟達段階は、開展(大きく伸びやかに)から緊奏(無駄な散逸・摩擦を極力省いてエネルギーの圧縮率を高める)へ。そして、明(外側に表現)から暗(反転して内向)へ。これは、かつて私が学んだ太極拳のコンセプトから採用したものだ。

◎「あの」独特の感覚を、誰もがごく普通の日常生活の中で頻繁に味わい、それを人生の糧(マナ)として、より豊かに鮮烈に生きていくことができるように・・・そうした祈りから、ヒーリング・アーツは誕生した。

◎ヒーリング・タッチとは、眠りこけて夢を見ている私たちの身体感覚を手で探り当て、手を通じて目覚めさせる術だ。

◎宇宙の本質をダイレクトに表現するシンボルを1つだけあげるとしたら、私は躊躇なく振り子を選ぶ。振り子には粒子と波という、量子力学が発見した宇宙の根本要素が共に備わっているからだ。ある意味で、時空は無数の振り子によって構成されているともいえる。

◎大きな釣り鐘にそっとタッチし、わずかに押してみる。その反動を受け容れる。それを波のようにさらに返す・・・そんな風にしていくと、鐘が段々大きく揺れ始める。波に乗るコツを掴めば、ほとんど力を使うことなく鐘を動かすことができる。・・・これが「共振」だ。少しく習熟すれば、電車の車体をも片手で動かせるようになる。

◎内的世界を旅すると、思いがけない発見がある。
 例えば、あちこちで恐怖に出会う。自分はあまり怖がらない人間だと思っていたとしても、それは恐怖を感じない振りを自分自身にしてきただけであって、押さえつけられた恐怖は、それを跳ね返す機会を虎視眈々と伺っている。そういう内憂を私たちは体中あちこちに抱えている。
 ちょっと驚くようなことがあった。あなたの注意がそちらに逸れた隙に、踏みつけていたあなたの足を「餓鬼」がはねあげて暴れる。
 恐怖を抑えるのをやめたら、恐れに支配されてしまうのではないか? 脅えて何もできない憶病者に成り下がってしまうのではないか?
 それはまったく違う。事実はそれと正反対だ。
 まずは、自分が恐怖を感じていることを率直に認めることだ。それで後ろめたさを感じろとか、どうせ自分は弱い人間だと開き直れとか、そういうことを私は言っているんじゃない。ただ、自分自身の中にある恐怖をありのままに、粒子状に認識する。
 恐怖を受け入れる。恐怖があることを否定し、覆い隠そうとしてきたブロックを解放する。・・・すると、恐怖が突如として、まったく別のものに変容する。
 プラチナ色に輝く霊的炎に包まれ、憤怒の相を表わして厳然と立つ<明王>を、私は恐怖の受容と同時にしばしば内観してきた。

◎柔道や合気道では、入門者をいきなり投げつけたりせず、まず最初に受け身をしっかり練修させる。いろいろな転倒状況をシミュレートすることで、「倒され方・倒れ方」を学ぶのだ。
 身体に危険が及ばないよう、運動エネルギーを体内に取り込んで上手に処理する能力を錬る。具体的には、いろいろな倒れ方をしながら、頭部を守ったり、回転によってエネルギーを無害化したり、あるいは衝撃波として手足より発散させたりする。
 1度覚えるとそう簡単に忘れるものでないから、誰に対してもどこかで習い覚えておくことをお勧めしたい。自転車の乗り方をいったん覚えると、長いブランクがあってもすぐまた乗れるように、日常生活の中で転んだ時など、とっさに体が動いて怪我を防止できる。高速で走るバイクからものすごい勢いで路面に投げ出されたが、受け身ができたので無事だったという人を、私は何人も知っている。
 ヒーリング・アーツには、活動的でダイナミックな練修法がたくさんあるが、そういう稽古に進む人は、前記のような動的受け身をしっかり練修する。単に形式的に倒れるのではなく、ヒーリング・アーツの原理に基づき、体内の流動感覚を意識的に運用していく。
 全身を統合して身体感覚をトータルに目覚めさせ、どこが床に当たってもゴムのような弾力性で衝撃を吸収できるようにする。あるいは、全身をグニャグニャにして、抵抗をまったくなくしてしまう。・・・こうした剛柔兼備の心身を用意して初めて、日本刀の刃(やいば)の如き明晰さを鋭く研ぎ澄ませていくことができる。

◎動的な受け身に対し、より静的な受け身もある。
 ヒーリング・アーツは実と虚の要素を自在に扱って両者を超越し、生命(いのち)の本質に近づき、一体化し、超宇宙的なコズミック・ダンスを踊る。
 そうした修練に先立ち、日常生活の中でほとんど使われることがない特殊な感覚を目覚めさせ、発達させる必要がある。
 目は光だけを見るためのものではない。音を聞くためにだけ耳はあるのではない。目は、外側の光とは違う裡なる光を観ることができる。耳には沈黙を聴く能力がある。
 こうした、見えざる光や聞こえざる音、触れられざる感触を直接経験するための能力を開発することが、ヒーリング・アーツにおける静的受け身練修の眼目だ。それは一言で言えば、各感覚の受動的側面を意識化し、成長させていくことといえる。

<2009.03.24>