ヒーリング随感。
感じ動くままに手自らがキーボードより打ち出す言葉の断片を、超次元コラージュ風に貼り合わせていくシリーズ。
その第2シーズンを、ここに開幕する。初シーズンの時同様、フィードバックや質問、疑問、意見などを読者諸氏からお寄せいただけるとありがたい。それらを適宜取り上げていくことで、ヒーリング・コラージュにさらなる精彩がオーバークロスされるだろう。
この連載の、共同創造者として、私はあなた方をお招きする。
* * * * * * *
◎太古の森の奥深く、聖域にそびえ立つ命の巨木。
その巨大な木は、燃えている。熱を発さず音も立てず、枝葉を焼くこともない生命の炎で、丸ごと燃えあがっている。
燃えさかる炎をまとった生命の聖樹。
これとまったく同じ(と私には思える)ヴィジョンについて、岡本太郎は「火の祭り」という小論(『美の呪力』所収)の中で、次のように記している。
若い時から私は深い森のただ中に、真っ赤な炎をふき上げてそそり立つ、孤独な火の樹のイメージを、強烈な神聖感として心のうちに抱いていた。
燃える生命[いのち]の樹。——そこに自分を投影し、全存在が引きつけられる。
何か古代ゲルマンの神話あたりにありそうな気がして、調べてみたこともあるが、みつからなかった。
・・・・・中略・・・・・
樹そのものが、生きたまま燃え上がっている。これは、私一人の、秘密の神話なのだ。
私が燃える生命の木のヴィジョンと瞑想中に出会ったのは、『美の呪力』を読む前のことだ。秘密の神話、という言葉を目にした瞬間、何かのスイッチが心の奥深くで入ったかのように、あるいはハートの奥で歓びの鐘[ベル]が鳴らされたかの如く、魂が精細に振るえた。心が浮き立って、満身で楽しさが炸裂した。
太郎の言う「強烈な神聖感」、それが「マナ」という言葉で、これまで私が伝えようとしてきたものだ。
それにしても、「秘密の神話」を私が共有する、この岡本太郎という人は、一体何者なのか?
皆さんは、彼の本を容易く手に入れ、同時代人の言葉としてそれを素直に読み、自分なりに理会(全身丸ごとで「わかる」こと)し、自らの人生へと活かしていくことができる。
ヒーリング・アーツを真剣に学び、身につけたいと思っている人には、岡本太郎を読むことを強くお勧めする。私がどういう意味で「アート(アーツ)」という言葉を用いているか、それを知ることにより、ヒーリング・アーツへの理会が飛躍的に深まるはずだ。
私自身は、彼の一連の著作を(古書も含め入手し得る限りすべて)2度以上熟読し、絵画や彫刻作品の数々とも直接出会ってきた。
(広義の)「ヒーリング」を語った古今東西の人々の言葉のうち、岡本太郎のそれほど直裁に心身に響いてくるものを、私は他に知らない。
生きた時代と土地(国)の多くを共有しているから、言葉にまったく距離感が感じられない。岡本太郎を、ダイレクトに読める世代である私たちは、大変な幸福者[こうふくしゃ]といえる。
太郎とは、預言者であったと、私は思う。日本人が民族レベルで歩んでいく戦後の道筋を、偉大な芸術家の鋭い感性と洞察力で遥かに喝破し、そのヒーリング(統合健康化)策として、芸術という道を具体的に提示した。
私には、太郎の諸々の作品が、命のメッセージを伝える超次元ゲートみたいに観[み]える。
例えば有名な「太陽の塔」は、腰腹の中間に存在感の中心を置く新しい人間のあり方を示すモニュメント、といった具合に。
頭で考えてそう思うのではない。腰腹間[ようふくかん]に意識の中心がシフトすると、「太陽の塔」の元型みたいなものを、自らの裡で私はしばしば感じる。
◎ヒーリング・ネットワークというヴィジョン・ワードを長期断食の際に啓発されて以来、私は、ヒーリング・アーツなる言葉を、「いやしの術[わざ]」といった意味で、あまり深く考えることなく使い始めた。
岡本太郎の本と初めて出会ったのは、それから数年経った頃だったろう。
その出会いを通じ、ヒーリング・アーツの「アート」とは、まず、そして常に一貫して、アヴァンギャルド芸術であらねばならないと、気づかせられた。
私は夢中になって、岡本太郎を読み始めた。
ここに、生き方・表現法は随分違うが、「いやしの芸術」に人生をかけた素晴らしい・尊敬すべき先人・達人——私たちが言うところの「ヒーリング・アーティスト」——がいる。
その人が、私がこれまで歩んできた道のりとこれから目指していこうとする方向性に対し、「それでいい」、「しっかりやりなさい」と、温かく認め、力強く励まし、鼓舞してくれている・・・かのように、読書中、しばしば感じた。
自らの裡なる体験を通じて私がおぼろげに感じ始めていたことを、太郎はズバリ言語化し(今から半世紀前のことだ)、様々な創作活動を通じて実際に展開・表現してみせた。
創造性が、人をいやし、活気づけ、歓びで満たす、と。
ここでいう創造性とは、絵を描くとか楽器を演奏するといった狭義の芸術だけでなく、活き活きとした生命力の活性化を人に感じさせるあらゆる営みを指す。
セックスから超意識、そしてあらゆる形態の芸術など、創造性には多種多様の顕われ方がある。
ヒーリング・アーツもまた、創造性の一表現だ。芸術を超えた芸術。人生(生きること)の芸術。
◎私は、舞踏でも音楽でもない、詩でも絵画でもない、新しい形態の芸術を提唱し、それを生きている。生活そのものを芸術と化しながら、生きること即芸術となる人生を、軽やかに舞い踊っている。
ヒーリング・アーツでは、しばしばアートを「わざ」と訳す。技(わざ)から術(わざ)を経て藝(わざ)へとエッセンス化されていくもの。
そうした人間的洗練の極致も、南太平洋ではマナとみなされた。極意、とそれを呼んでもいい。
ちなみにマナとは、簡単にいうと、形や型・式に宿る生命力のことだ(『ヒーリング・アーツの世界』第1回もご参照いただきたい)。
◎まずは、心ゆくまで追い求め、戦って、あるいは自分の中の何かを犠牲にして、「手に入れる」ことだ。
そのゲームに飽きてつまらなくなってきたら、または「これは結局のところ偽りの道でしかない」と気づき始めたなら、今度は欲望(もっと欲しがること)をわずかに強調してからレット・オフすることを、少しずつ試してみるといい。ただし、全身を使ってやるようにしないと、当然ながら効果は部分的・薄弱となる。
レット・オフとは、内的熟成の道だ。動静両面における自らの存在感と注意を、外へ外へと拡大・拡張しようとすることをオフにし、その「存在のほどけ」に委ねるようにして、内面を充実させ、複雑化させることに意を注ぐ。
もっと増やせ、もっと買え、と人々を追い立てる時流に、著しく抵触する生き方ではある。現代社会一般を支配する価値観に対して、「否」を敢えて唱えようとするのだから。
岡本太郎は言う。そのような挑戦の生を選ぶ者こそ芸術家だ、と。自らの創造的な活動を通じ、社会に対極的な要素をぶつけなさい。それによって、社会は新たな活力(生命力)を得るのだ、と。
◎微細レベルで生命力をスパークさせると、いわゆる<たまふり>が起こる。それが、芸術の本質だ。
そういう意味において、私はアートという言葉を用いている。いやしのアート、生命の芸術。
<2010.05.05 立夏>
東京・青山の岡本太郎記念館にて。「座ることを拒否する椅子」に座ることを拒否する(一切ノータッチ)。