◎ルビ(ふりがな、異なる読み方)を、[ ]内に入れることにした。ご了承いただきたい。
◎はれやはれただゆるみなきあずさ弓 はなつ矢先は知らぬなりけり
武術の極意を、和歌の形式を借り風雅に詠んだ剣術古歌だ。
腰と腹が相照的に起動する・・・と、「あずさ弓」とはこれ、このことか!と、心身一如で理会できる状態が、満身の裡に充ちる。
はれとは、張れであり、晴であり、ハレだ。はれやかな解放の機縁が満ちる体内感触だ。
そんな状態を、あなたも造り出すことができる。自分自身にも他者にも。体系的、戦略的、合理的、地道に、トレーニングしていきさえすれば。
◎まずは、あらゆる静的姿勢[ポスチュア]、姿態[ポーズ]において、「腰スジ(に意識)を入れる」練修から始めるといい。
腰というものは、それが本当に働き出してリアルに内観できるようになって初めてわかることだが、大半の人にとって普段は「(感じられて)ない」感覚なのだ。
本当に腰が入る・・・!と、腰仙椎の芯である脊椎神経の束に、生命の火[スパーク]が超微細粒子レベルではじけて灯る。生命の木にぱあっと、プラズマ的な火ならざる火が燃え上がる。
腰仙椎そのものを直接どうにかしようとするのでなく、その両脇にある太いスジに働きかける方が効率的だ。これは、井上仲子が創始した筋骨矯正術からインスパイアされたものだ(ただし、筋骨矯正術には腰スジという呼び方とか、それを使って腰を入れる、といった概念・方法論はない)。
腰スジを注意深く、天秤のバランスをとるように、上体(胸郭から上:立位時。以下同)と下体(骨盤から下)の間に弓を立て挟むように、天と地を同時・均等に支えるが如く、そっと据え置く。そのように、身体感覚の方向性を配置替えする。
すると、たちまち満身に<元気の素>が溢れてくる。全身を内部から満たし・張る・柔らかな緊迫感。
その、合理的に張った腰と腹とに、ヒーリング・アーツのいろんな術[わざ]で内的に働きかけ、「振るえ」を引き起こす。アルテミスの聖弓より、妙[たえ]なる生命の響きが力強く発せられる。
悦びがあふれこぼれる。歓びが炸裂する。
これが、「元気」の正体だ。エクスタシーそのもの。
◎腰が入ると(腰スジに意識が通ると)、確かに「元気」が出てくる。まがいものでない、から元気でもない、正真正銘の元気。それが、私の言うヒーリングだ。<樂[たのし]>だ。
私の経験によれば、腰がだんだん機能し始めると、ものがびっくりするくらい軽くなってくる。少し前まではあんなにも重かったはずのものが、今はあっけないほど軽く感じられる。そういう体験が、腰を入れ始めて一月と経たないうちに、何度も繰り返し起こり始める(ただし、変わり始めの頃は無理をしないように)。
重いとか軽いというより、「支え・持つこと」や「重い・軽いという感覚」そのものが、根本的に組み換わった感じ。
重さを、どんな風に全身で受け支えるか、その構造[ストラクチャー]自体が換わったのだ。
言うまでもなく、自分自身の心も体も、驚くほど軽やかとなり始める。
◎静的姿勢に充分慣れ、骨格の内的組み換え[トランスフォーメーション]がある程度滑らかにスムーズに引き起こせるようになってきたなら、動的な訓練を少しずつ加えていく。
シンプルな反復動作をまずは変容媒体として選び、1つ1つの動き[ムーヴメント]を、丁寧に変換する。動きのあらゆる局面で、ずっと腰が入り続け、動きの中心であり続けるよう、修練を重ねるのだ。
ヒーリング・アーツにおける心身調律とは、1回切りの静的なReconstructionではなく、絶え間なき動的平衡の連続(現在進行形)としてのReconstructingを意味する。
そのリコンストラクティングの要となるのが、腰だ。ただし、単体としての腰で終わることなく、腹と対応し合う、弦[つる]を張り矢をつがえた弓のような腰へと進んでいかねばならない。
◎ただ文章だけ読んでいても、実感が湧きにくいかもしれない。
先日、友人たちが広島に集った際、彼女/彼らをモデルとして、即席で神勇禅(旧・肥田式強健術):基本姿勢の1つをとらせ、腰のあり方を換えるとどうなるか、という実験を行なった。その模様をビデオ撮影したので、参考までに読者諸氏のご高覧に供する。
実験協力者は、いずれも腰腹相照原理を得て日が浅い者ばかり(一部の者は前日習いたて)なので、今回はもっぱら腰のみに焦点を当てた。全員、ヒーリング・タッチの初級〜中級レベルを修得済みであり、後ろ手でもヒーリング・タッチをある程度効かせられる伎倆の持ち主たちだ。
ヒーリング・タッチは、どれくらいの変容力を姿勢に対し及ぼすことができるのか? また腰(椎)の据[す]え方如何[いかん]により、全身姿勢がどれくらい変わるものか?
片足を一歩、真横に大きく踏み出した立ち方[スタンス]から始める。この際、神勇禅では、前足の踵と後ろ足の爪先を直角に規定する。
この基本姿勢にて、仙骨と腰椎の境(腰仙関節部)を腰と見なして反り、そこを臍の高さと合わせつつ、自分に可能な最高レベルで姿勢を極[き]める。
肥田春充の解説に忠実に従ったやり方だ。
それから、最初のドラムの合図で、合掌し、かしわ手を打って両手の粒子/振動感覚を活性化させ、おもむろに腰仙椎全体のカーブに添いながらその周辺とヒーリング・タッチ。カーブの真ん中から(カーブに沿って)ますは上下に意識を分ける。これにより、腰の「あり方(根源認知)」そのものを、別モードへと移し替える。
ヒーリング・タッチの3大要訣(粒子感覚・直交・空間性)を同時に満たしさえすれば、腰と正しく触れ合う・ただそれだけで、ガクッガクッと姿勢が変わってくる。もうこれ以上開けないと思った歩幅が自然と延び、これ以上落とすのは無理と感じられた腰が、さらに「(自ずから)落ちて」いく。
と同時に、上体が真っ直ぐ立ち、腰と腹の間に球状(最初はおぼろげな形)に力が集約してくる。
活眼を開いてご注意・ご確認いただきたいのは、こうした変化はすべて、腰へのヒーリング・タッチにより自然(自己目的的・自律的)に起こってくるものであり、どこかを変えようとして作為的に体を動かしたり、意図的に力を入れ・あるいは抜く・ことを、術者たちは一切していない、という事実だ。
ある程度全員の姿勢が整ってきたなら、ドラムがもう1度鳴らされ、それを合図に再び、新たな腰を元に姿勢を極める。ウン!という気合が、自然に漏れ、全身がより高度に統合した状態を、各自が身体をもって現わす。
この間、わずか数十秒時。
◎神勇禅[しんゆうぜん]という新しい名称を、今回より試験的に使い始めた。
かつて肥田春充はある文章の中で、「肥田式強健術」に代わるより相応[ふさわ]しい呼び名を誰か考案してほしい、と述べたことがある(『山荘随筆』)。
自分では「武禅」しか思いつかない、と彼は自嘲気味に述べているが、そのぎこちない呼称に代えて私は、神の如き真勇を錬り鍛えるネオ禅、という意味で、「神勇禅」なる言葉を提案し、春充の御霊[みたま]に霊的に捧げるものである。
◎ムービー1では、ヒーリング・タッチで触覚的に「腰」を意識化した途端(ただ意識するだけ)、1人1人の姿勢が大きく変化し始める様子がよくおわかりだろう。
しかし、これで驚くのはまだ早い。
上記のやり方でかなり姿勢が変わった者に対し、その腰に私がヒーリング・タッチでさらに働きかけるとどうなるか、という実験も試みた。
腰に柔らかく親指を充[あ]て、腰仙椎1個1個の「空間的方向性」を、自然なカーブに沿うて整えていく。
左右の親指でそっと軽く腰仙椎の脇をおさえ、残りの指を脇腹に充てているだけであり、強い力は一切加えない。これは、筋骨矯正術の原理にも完全に合致する<指づかい>だ。
表側と裏側と、(ほぼ)同じ術[わざ]を示演した。観の目でじっくり向き合っていただきたい。
相対で術[わざ]を受けると、このように、顕著な変化の上にさらに劇的な変化が、明瞭に顕[あら]われてくる。
こんな場合には、えてして「声(ヒーリング・ヴォイス)」が、自然に漏れ・発せられるものだ。その様子も、ありのままに収録した。
この実験で受け手となった妻は、「ヒーリング・タッチで腰を調整されると、まるで機械みたいに全身の姿勢が切り替わっていって、勝手に<極[き]まって>しまった」との感想を、後で述べていた。
もちろん、小手先のやり方ではこんな風にはいかない。全身の姿勢をもって、私が術[わざ]を有機的に運び・用いていることが、あなた方の観の目にも明瞭に映し出されたことと思う。
「姿勢をもって、姿勢に対する」のだ。
奇妙なことに、このようにして自然にできあがった姿勢は、かつて肥田春充が示し演じたそれと、形も質も、かなり近似しているように見受けられる。観の目で両者を観・比べてみれば明らかだろう。
2点とも、肥田春充・著『川合式強健術』(大正14年刊)より。
春充が実際に腰として認知していたのは、腰椎と仙骨の接合点(この接合点というのも意味不明だ。皮膚面の1点のことらしいが)だったのか、あるいは腰仙椎全体の自然なカーブをバランスよく使い、その中心(一番カーブしている部分)を腰と呼んでいたのか。
ヒーリング・タッチというツールを使えば、自らの身体を通じて真実を探求していける。
その時、あなたは健やかさと力、スピードの秘密に、確実に近づきつつあるのだ。
◎このように、いろいろ凄いことが、タッチを使ってできる。ただし、私たちがサポート・ツールとして使っているタッチは、単なるタッチではなく、<ヒーリング・タッチ>だ。魂と触れ合う力を、それは秘めている。
触れ合い(最も確かに実感できる認知法)を基礎手法として、心身統合の根本原理解明に取り組むこと、およそ30年。この間、一度[いっしゅん]たりとて、最初にこれと確信して目指した方向性から、視線を逸らせたことがない。「脇目も振らず」とは、まさに私のことだ。
その霊的な(=時間と空間を越えた)探求の旅路で、聖性示現的に授けられた秘法[シークレッツ]の1つが、<ヒーリング・タッチ>だ。
私はそれを、先人及び諸先輩方から多くを学ばせていただいた返礼として、オープンソースとしてすべてをありのままに公開し、万人が各々の道(人生)で活かしていくことを中心(衷心)より祈りつつ、うやうやしく捧げ奉[たてまつ]っている。
人生とは、いうまでもなく道だ。自ら歩まねばならぬ道だ。
そして、人生の道は、他者の道と共振・共鳴し、共にハーモニーを奏でることで、より豊かに活気づいていく。真の友/朋[とも]を持つ幸福者[しあわせもの]なら、誰でもよく知る重要な人生要訣のひとつだろう。
そういう生命的・有機的なネットワーキングの構築に、私は今、ヒーリング・タッチを活用して取り組み始めたところだ。
<2010.10.03 水始涸(みずはじめてかる)>