Healing Discourse

ヒーリング随感4 第19回 龍宮神礼讃

◎前回に引き続き、龍宮拳伝授会(2012年度第4回)の模様を、ムービーにてお伝えする。前回ご紹介した動画と合わせ、元来一続きの場面なのだが、ダウンロードに時間がかかりすぎるため一部を抜粋してある。
 龍宮拳の熱心な実修者、あるいは龍宮拳に真剣な関心を寄せてくださっている方々を対象として、私はもっぱら龍宮拳について書き、示演している。そういう人たちにとっては、いろんな動画資料を観られることが歓びであるに違いないし、事実、いろんなヒントがムービーのあちこちにふんだんにちりばめられている。
 ちなみに、「演じている」と単純に書かず示演[じえん]という言葉を使う理由は、あらかじめ決められたことを行なってみせるのではなく、ただレット・オフ状態に任せ切っていることを強調せんがためだ。
 STM(自発調律運動)が武の舞として昇華されることで、武術的な攻防が自ずから相手との間でなされていく。
 龍宮拳では、そうした術[わざ]のやりとりが、即、身体調律法にもなっている。確かに、ただ投げたり、倒したりするだけでなく、あれこれいろんな働きかけを、受け手一人一人に対しやっているようだ。
 ムービーを観ていて、なぜあんなことをしておるのか、どうやっているのか、自分でもわからない点が多々ある。受け手たちによれば、素晴らしい・気持ちいい・楽しい、などと大喜びだ。元気になる、ともいう。
 深い信頼感に裏打ちされた共感が響き合って強い一体感を育み、真の友情が体感できる。そんな体験は、索漠とした現代社会にあっては極めて貴重な、価値あるものと感じる。

◎充分手加減しているつもりなのに、後でムービーを観ると、人々が時に荒っぽくフローリングの床に倒されたり、叩きつけられたり、投げつけられたりしていて、自分でも驚くことがある。
 しかし、やっている最中は、「大丈夫」という、ほとんど絶対的といっていいほどの確信がある。否、確信しているのではなく、ノープロブレムであると「知って(わかって)」いる。
 受け手たち(最初武術の素人だった者も多数)も、ゆっくり柔らかい稽古から始めて無理なく進んでいくうち、いつの間にかああいった少々荒っぽい稽古をも楽しめるようになってきたのだ。
 こうなると、ちょっとくらいの衝撃ではビクともしなくなる。そうした強さ(勁さ)は精神面にも直ちに反映される。

◎ちなみに、ヒーリング随感シリーズにおいてこうして龍宮拳関連の記事やムービーなどを多数発表しているのは、あくまでも読者の皆さんの参考に供するためであり、自分自身の備忘録でもあり、一つの道が自ずから姿を顕わすプロセスを記録する目的もある。完成された技法や理論について説いているわけではないので、誤解なきようお願いしたい。

◎ムービーでは、全身まるごと、表と裏をぐるりと引っくり返し・巡らせる、いわゆる全身周天の波紋で藝[わざ]を舞う用例なども出てくる。
 ぐるりと、表裏が同時反転し合う。つまり、「引っくり返る」。これを言葉で説明するのは非常に難しい。そもそも大概の人は、自分を表から感じ(ようとす)ることは知っているが、自身を内面から感じたことがほとんどない。
 コインを裏返すのとは違って、どこにも裂け目や切り込みがないのにテニスボールの表と裏が瞬時にひっくり返る、そんな反転の仕方(意識・体感)について私は語っている。
 これは、各自が実際に体現して体験するしかない「現象」だ。つまり、体に現わし、体で験する(調べる、テストする)。

◎龍宮拳では、ユニークな蹴りの稽古法も用意されているらしい。「らしい」というのは、そういう予感がある、という意味だ。予告、と呼んでもあながち的外れではあるまい。そんな予感(予告)があって、その後しばらくすると、本当にそれが実際に顕われることはよくある。
 考えてみれば、蹴りとは(通常)片足でバランスを取りつつもう一方の足で加撃するという、それだけでもかなり高度な動作を、戦いの中で成功させようとするアクロバティックとさえいえる行為だ。
 それを、いきなり足を高く、速く蹴上げることから練修し始めるというのは、いささか無理があるかもしれない。私は、昔、そうやって一生懸命練修したものだが。

◎ようやく本の大半をわが家から運び出した。資源ゴミとして相当数を処分したが、収集日に運び切れなかった(ごみ捨て場からはみ出してはいけないので)ものが、天行院裏にまだまだいっぱい積み上げてある。
「古本屋が開けるね」と、膨大な本の山をみて妻が言った。
 私たちは、昨年秋に仔猫マヤを新しく迎えたことをきっかけとして、自宅を徹底改装して聖地化するという、「龍宮館プロジェクト」を始動させた。
 今や、マヤは優美で愛らしく、とても賢い美猫へと成長した(日々絹の布にて磨きあげられしその毛づやよ)。
 気候も過ごしやすくなってきたから、わが家を龍宮館へと変容させるリノベーション・プロジェクトもいよいよ最終段階へと突入だ。天行院へ猫たちと共に移住し、そこでしばらくレフュージ(避難あるいは隠遁)生活を送りながら、龍宮館完成の時を瞑想的に待つのである。
 猫たちを新しい環境に慣らすため、毎日天行院に連れていって短時間そこで過ごすトレーニングを開始した。
 せっかくだから、この期間を積極的に活用し、レフュージ・ライフもヒーリング化し、そこから何ものか、ヒーリング芸術の新たな表現法をつかんでみたいとも思っている。
 PC関連の機材一式とカメラを天行院に持ち込めば、執筆とヒーリング・フォトグラフの創作活動も続けられる。

◎私に本を捨てさせた真犯人は、今気づいたが、クリシュナムルティだ。
 その証拠に、クリシュナムルティの本は、岡本太郎の本と共に全部残っている!
 OSHOの本は全部なくなったのに!
 クリシュナ爺[ジ]のあのチャーミングなほくそ笑みが、裡なる虚空にほとんど観えんばかりだ。
 まあ、おかげで心も体も随分軽くなったわけだし、今となっては実に有難いことだと思う。
 クリシュナムルティの詳しい伝記を、私は数ヶ月前に初めて読んだ。講演や著述の内容から相当高度な教育を受け、本もたくさん読んできた人なのだろうと思っていたのだが、全然違っていたからびっくり仰天した。
 子供の頃は周囲の人々からしばしば知恵遅れと思われ、イギリスの大学入試に何度も失敗し、宗教や哲学の本は晩年に至るまでほとんど読んだことがないという(愛読書は探偵小説だったそうだ)。
 そんなシンプルな人が、一体いかにして、「世界最高の知性たちが感嘆する人類究極の哲学」を打ちたてることができたのか。まさに驚異であり神秘だ。
 クリシュナムルティの人生は、老子の「タオの体現者は愚かで何もしないようにみえるのに、全世界が彼女/彼の前にひざまずき、敬礼[きょうらい]す」という言葉を思い起こさせる。
 私にとり、クリシュナ爺(ジ:北インドで年長者に対する敬意を表する接尾辞)は個人的なメンターであり相談役だ。賢者のアドバイスは、時に猛毒を帯びているように苦い。が、それを敢えて呑み、受け容れれば、毒はいやしの甘露へと変じ、深甚なるヒーリングが起こる。

◎かつて南太平洋の人々はサメやウミガメ、カニ、海ヘビ、エイ(パラオではマダラトビエイが現在も神聖視されている)の神々を拝んだというが、龍宮の神は、私の経験によると、拝み甲斐のある・頼み甲斐のある、神々のようだ。 注)
 試しに龍宮館を願ってみたら、いろんな偶然や必然、熱意礼讃、奉賛共鳴などなどなどが重なり・列なり合って、実現(願いの現実化)がどんどん、どんどん近づきつつある。
 龍宮拳といい、こんな霊験あらたかな神様なら、是非拝みたいと言う人々が私の周囲で出始めており、ここで速度を落として加減すべきか、逆に加速して一気にテイクオフ(離陸)か、近いうちにハッキリ決めねばならないだろう。

 注:ただし、私は自分の外側のどこかにいる外在神や人間のように振る舞う人格神などを一切信じない。私が神という「メタファー」を使うのは、それが人々の無意識の奥深くにまで届くからだ。

<2012.05.25 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)>