Healing Discourse

ヒーリング随感4 第20回 たこ足

◎龍宮拳伝授会(2012年度第4回)、2日目の模様。
 この日、蛸足(仮称)なる珍奇なマナが突如出現した。
 蛸足とは、足(足首から先)と下脚(膝から足首まで)の関係性を建て直すことで、しっとりと柔らかく吸いつき、しかも滞らない(居着かぬ)、武術では不可欠の足(脚)づかいを可能とする法だ。注)
 この足で立てば、どこからどのように攻撃されても、すべて脛骨・腓骨と距骨が成す滑車構造が自動的に処理してくれるから、非常に便利だ。具体的には、内外のくるぶしが成す足首の角度をヒーリング・タッチにより意識化する。足首は、ただ単純に折れ曲がるのではなく、「滑車関節」と呼ばれるように、滑らかにスイングする構造となっている。

注:ヒーリング・アーツでは、足首から先を足、足首からもものつけ根までを脚と明記して、違いを明確にする(両者は明らかにまったく異なる)。さらに、膝を境にして脚を上脚と下脚に分ける。

 薄暗くしてあるのは帰神度を高めるため。

◎上記ムービーの体験者による報告(旧・プライベートBBSより)。

蛸足 投稿者:久保朋司 投稿日:2012/05/10(Thu) 21:45 No.970

 ムービーで、先生が蛸足にしない状態で、私が先生を軽く押し、その後、蛸足にされた後、もう一度押す、という場面がありましたが、その時の実感について書いてみます。
 蛸足に変わった瞬間、押した力が、ただ単純に受け流されたというのではなく、先生の全身に私の力が全くどこにも作用していない状態の現出ということがまずあって、よくよく感じてみると、足首や足で吸収されて受け流され、こちらが意図した力が距骨滑車部分の余裕で完全に相殺されてしまっているように感じられました。表現が大変難しいのですが、単に柔らかく逸らされたとかいう状態ではなく、先生の足がそれこそ蛸のように地面に吸い付き、しかし、居ついていない、動こうと思えば、凄まじく速く動ける足、そういう足の上に構築された身体に対して、私の力が全く作用していかない、通用しない、効果を発揮しない、そういった感じがしました。柔らかいのですが、蛸のように強い力というかバネが発生しているかのようでした。その後、圧倒的な波紋によってこちらが崩され、倒されていきました。これまで一度も経験したことがない感覚であり、確かにオクトパス・スピリットとでも呼ぶべき特有のすばらしい”マナ”をこの身で味わったということなのではないか、と大変ありがたく思った次第です。

蛸足感想 投稿者:佐々木亮 投稿日:2012/05/12(Sat) 02:42 No.978

 蛸足となられた先生と組み合いますと、想像を超えた、柔らかく繊細な滑らかさの中に、いつの間にか絡め取られ、無力化されてしまっていました。その滑らかさはまさに「滑車」関節で、ふつうなら在るはずの摩擦、抵抗感がゼロになってしまい、それでいながら全てが連動し、吸い付くような安定感がある様は、まさに蛸足という他はありませんでした。
 また、ムービー冒頭で、アキレス腱の動きを伝えていただきました際には、しなやかに伸び縮みするアキレス腱の動きが初めて(!)自分自身の脚で感じられ、驚嘆しました。普段、どれだけ足首が一塊に認知され、アキレス腱が活かされていないかをまざまざと感じさせていただいた体験でした。

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◎足首のところが、普通我々が思うような、単純に折れたり伸びたりするような構造になって・・・「いない」ことは、ただ骨格構造を観れば明らかだ。私が、「見る」ではなく、わざわざ目障りにも「観る」と表記する際には、普段私たちが「見る」こととして知っているものとは別種・別格の視覚経験が存在することについて、読者諸氏のご注意を喚起しようとしているのだと、どうか私の言葉と接する際には常に思い起こしていただきたい。その他の、耳慣れぬ「ジャーゴン(あるグループ内で使用される言葉遣い)」類についても同様だ。
 私は極めて真剣に言葉で遊んでいる。
 岡本太郎いわく、「お遊び」ではなく「遊び」。

◎蛸足(仮称)とは、これまでご紹介してきた龍宮拳「足のこと」とか「下脚のこと」の集大成ともいえる、大いなるマナ(修法・叡知)であることが、・・・・大地から離されて力を失ったアンタイオスみたいにつり上げられつつ(半ば冗談で)祈り求めた「救済」が、たちどころに藝[わざ]となって「応えられた」瞬間、「わかった」。
 ここまで来てようやく、これは「ただならぬこと」だと、私自身にも思えてきた。周りの者たちがあまりに「スゴイ」「凄い」と騒ぎすぎるので、客観性を保つ意味も含め、これまで私はわざと少し弛[だ]れた、あるいは冗談めかした態度・姿勢を、龍宮拳に対し、時折意図的にとるようにしてきた。ひねくれた怠け者でも誠心誠意をもってすれば必ず「できる」ことを、自ら実践して示すためでもある。
 が、これ(龍宮拳)は、巧妙なばかりでなく、途方もなく神聖とわかった。神聖なものを「おちょくる」のはよろしくない。

◎言うまでもないことと思うが、上脚を無視した下脚だけの働きとか、脚がお留守になって足だけが動くとか、そのような部分のみの活動は人体においてはあり得ない。
 龍宮拳で、人体各部にバラバラにアプローチしていくのは、あくまでも初学者のための配慮に過ぎない。

<2012.06.15 腐草為蛍[ふそうほたるとなる]>