Healing Discourse

ヒーリング随感5 第11回 龍宮探訪記(後編) 高木一行

[ ]内はルビ。

 前回に引き続き、2000年7月14日に沖縄・慶良間諸島で執り行なわれた海中帰神セッションの報告をご紹介する。

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特別セッション・リポート(後編) 高木美佳

 水中の学び

 龍宮世界がかなり浸透してきたところで、先生より新たなワークの指示が出た。それは、水中におけるストレッチングともいうべきもので、水に浮かんだまま徐々に身体を伸ばし、脊椎にまとわりついたブロックを解放していくものだ。地上でのストレッチとは比較にならないほどに、筋肉や腱が気持ちよく伸びていく。これぞ水中の禊[みそぎ]・祓[はら]いである。陸上でのストレッチが2次元とするなら、水中ストレッチングは3次元にまで作用が拡大したような感覚が得られる(本来は陸上でも3次元的ストレッチができていなければならない)。
 実際、水の中では全身をスクリューのように、中心線を軸として回転させることもでき、全身が洗濯機でもみくちゃに洗われているような、強烈な浄化運動が可能となる。背骨に絡まるように存在するブロックが、紐がほどけるようにスルスルと解放されていくのを感じつつ、楽しく禊祓っていった。充分に背骨を伸ばした後、ゆったりと波に身体をあずけ、清められた心身の感覚を味わうのはたまらなく爽快である。
 水中ストレッチングの応用として、「水中集約拳」(集約拳は肥田式強健術における拳の握り方)も伝授された。全身を各指で伸ばしていきながら拳を握り込んでいくと、全身の力が手の中に集約されていく様子がありありと実感できる。「集約拳」と呼ばれる理由がはっきりと自覚できるのだ。このようなことも、陸上では認識不可能と思われる。やはり実際に体験してみなければ到底わからないだろう。こうして水中での練修を行なってみると、普段いかに無自覚・無意識であることかと呆れてしまうほどだ。
 次の指示で水中サンダンス(身体各部のブロックを強制的にちぎりほどく荒わざ)を行なった。浮力を生かしてリラックスしたまま全身をくまなく伸ばせるので、その効果が倍増される。伸ばしきった後は、爽快感を水に浮いたままで味わうことができるので、開放感は素晴らしいものであった。伸ばされた箇所から海の水と同化して溶けていくような、これもまた陸上では味わえない格別な感覚が得られる。

 参加者のリポートからの抜粋:6

 先生から背骨を伸ばすように指示を受け、体を伸長すると1つ1つの骨の間が引き伸ばされるのを感じた。これで充分かなと思っていると、「もっと伸ばせ」と先生からの叱咤を受けてさらに伸びをした。すると、自分が思ってもみなかった程に背骨が伸びていくではないか。ぐんぐんと伸ばすと腰が今まで感じたことがないほど反るようになった。
 背骨が充分に引き伸ばされると、仙骨、背骨の感覚が非常に敏感になった。その状態で目を開けて漂っていると、自分の体が海に溶けて母の胎内にいるような気分になった。また、海を通じて自己が限りなく拡大し、地球と一体化しているとも感じられ、深い安らぎを覚えた。<服部秋雄>

 参加者のリポートからの抜粋:7

 屈筋を脱力して背骨を伸ばすようにすると、今まで感じられなかったような、身体が無限に伸びていくような感覚が湧き起こってきました。しばらくは海中との一体感に酔いしれていたのですが、やがて海全体が意識をもったもののように感じられ、その中で愛をもって受け容れられていくのがありありと感じられました。普段の地上の生活ではこれほどまでに身体をゆだねることができないためこのような身体感覚は味わえず、今回貴重な体験をすることができました。<井田浩之>

 参加者のリポートからの抜粋:8

 水中でのサンダンスは陸上でのそれと全く違う感覚でした。陸上では痛さの後に晴れ渡るような爽快感が訪れますが、水中では痛みは少なく、爽快感も「落ち着いた爽快感」とでも表現できる違ったものでした。また、サンダンスされている部分に対して、容易に意識化できるようでもありました。胸鎖乳突筋(首の筋肉)など、陸上ではどうしても痛みをこらえ、逃げてしまう傾向がありますが、水中では気持ちよく、ゆえに意識化して行なうことができたように思えます。
 水中集約拳では、集約拳に対する概念を一変させられました。先生に脇腹の背中側をつかんでいただき、集約拳を握り、さらに腕を伸ばすと、背中の腱が腕を伝わって伸びていきました。従来は手(あるいはせいぜい腕まで)を使って集約拳を作っていましたが、実際は全身の腱を使って握るのが正しいやり方なのでしょう。<米山幸作>

 数人のグループに分かれてしばらく自由に龍宮の一端を楽しんだ後、島に上がって休憩の時間が設けられた。
 重力が一気にのしかかってくるようで、身体が非常に重く感じる。ここまで龍宮世界の扉が開かれると、不思議と水中の方が落ち着くのだ。人間の祖先(猿人)は海で進化したという説があるが、もしかして事実かもしれないと思えるほどだ。この「アクア説(水棲進化仮説)」を頭ごなしに否定する人は、おそらく瞑想的に海中に身を置いた体験がないのではないか。
 しばしの休憩後、打ち上げられた魚にでもなったかのように、水を求めて再び海へ入っていった。
 浅瀬でも、様々な学びが進められた。先生の指示で、フィンを外し顔の前へ持ってきて、思いきり突き出した舌をベッタリと押しつけ、舌を様々な方向へ伸ばし広げていく。これは、舌のストレッチングともいえる行法だ。中国武術の一派にも舌を鍛える行法が伝えられているそうだが、舌をストレッチしてみると、ある一部分(例えば舌の右側)のみがひきつれて痛みが出てくることに驚く。舌は喉や胸、さらには会陰にまでつながっており、舌を柔軟にすることで、屈筋側のブロックを溶かしていくことができる。さらに舌には各臓器に対応したエリアがあり、舌を開くことで内臓を整えることにもなるのだ。
 指を用いて口腔内を伸ばし広げるワークもあわせて伝授された。特に頬の内側は驚くほど縮んでおり、グイグイと引っ張り伸ばすと、全身にもその作用が及んで開かれていくのだ。
 こうして開いた舌と口腔をもって海の水を口に含み、その塩加減を味わってみるようにとの指示で、海水の味を感じてみる。すると、舌に海水が染み通ってきて、塩辛さの加減がよくわかるようになる。塩加減のみならず、料理の様々な味付けは、微妙な舌の感覚(もちろん嗅覚も必要だが)を得ることで可能となるのだろう。肥田式強健術における強健のための3大要素の一つ「真食養」を探究する上でも、舌を開くことは非常に重要と思われる。
 その他、指を用いて、突き出した舌をつけ根から引っ張りしごいたり、歯茎を海水でマッサージしたりと、口腔内を禊祓ういくつもの方法が伝授された。

 ヴァイブレーションの神秘

 エメラルド・グリーンに輝く美しい慶良間の海のように、禊ぎ祓われて透き通ってきた心身をもって、太霊道・霊子顕動法[れいしけんどうほう]を起こしてみる。
 骨の髄から様々なリズムをもった波動が起こり始め、自分で何かをしようと思わずとも、顕動が全身に及んでいく。海に浮かんだ状態での顕動は、形にとらわれない、より本質的な霊子作用を学べるような感じだ。震えることそのものが禊祓いとなり、ため込んでいたネガティヴなものをふるい落としていくのだ。水に浮かんだまま様々に姿勢を変えて行なってみると、通常では届かないブロックにまで、顕動作用が伝わってくる。
 シュノーケルの構造をたくみに利用した「水中ヴァイブレーション」を先生が発すると、周囲に集まっていた私たちは、微弱な電気が身体を走るような感覚に包まれ、皆一様に驚きの叫び声を上げていた。これも言霊の一種で、心身に特別ないやしの作用をもたらすようだ。空気中よりも水中の方が音波は伝わりやすく、その振動をダイレクトに肌で感じることができる。耳で聴くというよりも、身体で聴くといった感じである。
 私たちもヴァイブレーションを発しながら、魚のようにあたりを泳いでみた。なぜかとても楽しい気分になる。
 さらに、先生による水中霊子潜動法[れいしせんどうほう]は、空気中と比較してパワーが倍増されたようで、波のリズムにまで影響を及ぼしていることがはっきりとわかるほどであった。先生がヴァイブレーションを発したり、潜動作用を発すると、魚が集まってきて指示通りに舞い踊ったり、波の方向が変わったりと、あたりの海の様子に変化が起きる。先生のポジティヴなヴァイブレーションと共鳴して、龍宮はそのさらなる深みを垣間見せてくれているように思えた。

 クライマックス

 新・三種の神器の使い方にも大分(?)慣れてきた頃、ゆっくりと移動しつつ海底に足の届かない沖の方へ向かい、その途中にある神秘的な色に輝く珊瑚礁や、極彩色の魚たちと戯れた。午後の太陽が海の中まで明るく照らし出し、より一層光と影のコントラストが強烈になっていく。波に逆らわず、ただ委ねて浮かびながら、時には海の中に潜って、珊瑚の下にいる珍しい魚を見に行ったりした。
 なまめかしい女性器を思わせる、美しくも妖しい彩りの大きなシャコガイ。先生につかまえられ、全身の針を立てて威嚇するハリセンボン(フグの一種)。先生の手を離れても、体を膨らませてしまったため、海面近くに浮かんだままなかなか身を隠すことができない様子は、とぼけた可愛らしさで思わず微笑を誘われる。

 参加者のリポートからの抜粋:9

 隣にいた先生が私に合図された。先生の指さす方向を見ると、海底にいたサーベルのようなヘラヤガラが一瞬にして海面近くに餌の小魚をとりにいくのを目撃することができた。その他にも、ハリセンボンやイカの群れなども見ることができたが、教えられなければすぐ目の前にいても気づかなかったと思う。先生は、「なぜあんなにご存知なのか」と思うほど、様々な生き物の名前や生態を知っておられた。
 海水は光のコントラストを描き、陰と陽は融合されていく。全ての生命が我を称賛しているようでもあり、我が全ての生命を睥睨[へいげい]しているようでもあった。全てが生きている。全てが輝いている。「あぁ、絵にも描けない美しさとはこのことだ。」<池尻正教>

 参加者のリポートからの抜粋:10

 先生は、「海底に映る光と影に着目するように。そうすると、目に映るあらゆるものが生命のダンスを踊っているのが見えてくる。肥田春充が語った『万物が光り輝く』現象の海底バージョンを体験することになるだろう」とおっしゃった。指示通りに海底をしばらく眺めていると、サンゴに映ずる海底のゆらめきが徐々に変化し始め、まさにサンゴがダンスをしているように見え始めた。光のゆらめきが生命の発する振動として感じられ、その振動が印堂の奥の部分(松果体か?)に影響を及ぼし、全身が激しく顕動した。視点を真下から前方へと写して海底の広い範囲を見渡してみると、まるで草原の草が風で揺れているようにサンゴがゆらめいていた。枝サンゴの群集の上にさしかかると、それらの現象は最高潮に達し、サンゴは光のダンスにより生命の喜びを雄弁に語っていた。その波動はまさに喜びそのもの、エクスタシーの脈動であり、私の内側は歓喜で満たされた。生命のエッセンスというべきものを、光の脈動として受け取った。
 セッションの冒頭では、水中を自分が見ているという感覚があったのだが、セッションの中盤からは目に映る対象物が自分の内側にあるような感覚が生じるようになった。見るというより映っているような、あるいは見ることなしに見ているとでも表現すべき状態になった。
 水中深く潜り水圧を受け容れると、周囲との一体感が増して、生命のおりなす舞台に一緒に参加している気分になり、嬉しさと安らぎを感じた。そこには調和があり、自分がそこに存在していることに対して露ほどの疑問も浮かばない一瞬一瞬が存在した。そのように常に人生を歩んでいけたらどれほど素晴らしいことかと思う。その鍵となるのが、水圧を受け容れる感覚ではないだろうか。<服部秋雄>

 波に身を委ねて

 時を経るほどに、さらにさらに深みを増していく龍宮世界。もっと味わいたい、学びたいという気持ちに駆られつつも、迎えのボートが来る時間が迫っている。私たちは後ろ髪を引かれる思いで、沖へと向かう波から離脱し、時間をかけて浜辺へと向かった。
 思ったよりも潮流が強く、なかなか浜にたどり着かない。先生は初心者の私たちに合わせて、非常にゆっくりと先導してくださった。波に逆らって泳ごうとしても、全然前に進まないし、疲労してくる。波に逆らわないようにするには、やはり全身の余分な力みを抜くことが重要と思われた。ただ浮かんだり泳いでいるだけでも、正しい身体運用法を学ぶことができるというのは凄いことだ。
 随分長く感じられたが、私たちはいつの間にか浅瀬まで戻ってきていた。そして浅瀬においても、龍宮の学びは続いた。波が打ち上げてくる浜に身体を横たえたまま、全身を波に委ねていく。ここでも波に逆らおうとすると、途端に海と自分とが切り離されたようになってしまう。波に逆らわずに、波と一体化する。——言葉で言うほど簡単ではないが、しばらく波に身体をあずけているうちに、自分という存在感が薄れ、海のゆりかごに揺られているような安心感に包まれてくる。

 参加者のリポートからの抜粋:11

 セッションの終盤に波打ち際で漂っていると、岩の陰に小さな魚がいるのが目に入った。その小魚は波のリズムに同調してゆらゆらと揺れており、流れに逆らい、抵抗して泳いでいないことに気づいた。その姿を見て、自分はそのちっぽけな魚を見習う必要があると感じた。広大な海にしてみれば、その小魚はちっぽけな存在である。同様に、広い宇宙からすると私など在ってないがごときのものである。そのちっぽけな存在がつまらないエゴに振り回され、あれがいやこれがいやだと宇宙の流れ、内在する神(意識)に逆らうことで自らを苦しめているのである。自分もその魚のように大いなる流れ、タオとともにあり、大海のリズムとともに生きるすべを身につけたいと思った。そのためには、負けて、負けて、負けきることのできる受容性を養わねばならない。<池尻正教>

 何ものにも逆らわず、大自然のリズムとともに生きること——私たちが龍宮世界で学んだのは、余分な意思(思考)、余分な力みをすべて振り捨てて、何もない状態にただ安らぐこと——そのような教えであったように思う。究極の受容性を体現することとは、このような在り方ではないだろうか? 女神が司る龍宮における学びは、やはり受容性、明け渡しといった、女性的なるものの根本が示されていた。とはいえ、このセッションも龍宮のほんの一端であり、今の私たちには想像もし得ない、遥かなる学びの道がこれから開かれていくのだろう。
 先生からは、この日のすべての学びを、充分に開かれ意識化された手(神明掌)として体現するよう注意があった。それは手のすべての関節を開放して、球のごとくに自在に使いこなすということである。浦島太郎は龍宮を去る際、乙姫より玉手箱を手渡されたというが、私たちもまた「球(玉)の手」という、類い稀なる龍宮土産を受け取ったのであった。
 浦島太郎は、玉手箱を開けることによって一気に老人となってしまった。先生によれば、このエピソードは、極めて短時間のうちに、老賢者のような奥深い叡知を身につけることを意味しているのだという。

<2013.05.05 立夏>