[ ]内はルビ。
◎「信じがたい実話」をいくつか。
その1:十数年前、霊的な悩みを抱えるある魅力的な精神科女医とシャーマニックなプライベート・セッションを執り行なった際のことだ。
セッション中盤、女医の身体に次々と異なる人格(霊格)が憑依して多重人格者のごとき様相を呈し始め、ついには、小柄できゃしゃな体からは想像もつかないような物凄い怪力を発揮して私につかみかかってきた。
かつて修業した大東流合気柔術のわざが無意識のうちに出て、一瞬のうちに相手の手首を逆に極[き]め、床に押さえつけていたが、それ以降は私に対し非常に従順になり、いろんな人(霊)格が入れ替わり立ち替わり現われて面白い話を聴かせてくれた。
信じがたい話というのは、そのことではない。
この美人女医の勤め先は、関東圏内でも有数の大規模な精神病院とのことだったが、本人いわく、そこには「自分なんか足下にも及ばないようなおかしい人がたくさんいる」のだそうだ。
入院患者の話ではない。患者を診る側の医師たちの話だ。
その2:以前、いろんなセミナーで教えていた頃のこと。
ある朝、広島西署の刑事と名乗る男性2名が、突然、わが家を訪れた。警察手帳を示し、「何かの団体を運営されているそうだが、どんなことをやっていらっしゃるのか?」など、妙なことばかり尋ねる。どうやら私を怪しげなカルト団体の教祖と疑っている様子だ(まあ、当たらずとも遠からず、かもしれないが)。
当時、玄関先にずらりと飾ってあったビシュヌ神やガネーシャ神のテラコッタ像が、彼らの疑惑を一層強めたらしい。実際には特定の宗教とは何の関係もない、タイのチェンマイから輸入した単なるエクステリアに過ぎなかったのだが。
少し話をするうちに刑事たちの疑いも晴れたようで、私の著書を献呈したら喜んで帰っていった。
その直後、新情報が飛び込んできた。
少し前に近所の区民文化センターで開催したセミナーに参加予定だった、という某県在住の一青年から寄せられた手紙には、「セミナー当日の朝、出かける支度をしていたら、(某県警本部の要職についている)父親から、『あそこは今日、公安の手入れが予定されているから行ってはいけない』と脅され、外出を禁止された」、などと記されていた。
もちろん「公安の手入れ」などありはしない。が、その父親なる人物が広島の警察に連絡し、「あそこは危険なカルト集団だから調べるように」とでも指示したのだろう。
私を訪ねてきた刑事たちに「一体どこの誰が、うちをカルト団体などと中傷誹謗しているのか?」と尋ねた際、何だか後ろめたい様子で口ごもっていた理由がわかった。
精神を病んだ人間が警察の枢要部にもいて、自らの妄想に基づき「力」を振るっている・・・・??? その種の「妨害」、というよりは「弾圧」に、これまでずっとつきまとわれてきた。今も継続中だ。
イエスのサークル(十二使途)もブッダのサンガ(原始僧院)も、当時の一般常識・通念・道徳から大きくはみ出した反逆的存在という意味では、カルトにほかならなかったのではあるまいか?
念のため申し上げておくが、あからさまな反社会性を備えた、破壊のための破壊を旨とする攻撃的内容のものでないかぎり、あらゆる種類の「カルト(勇気ある反逆者の道)」を私は認め、敬意を払う。
その3:裁判では真実のみを話さねばならないということは、少なくとも日本の民事裁判においては全然求められておらず、嘘八百のでたらめ放題を述べて相手を陥れようとしてもまったく構わない。また、嘘がばれても処罰されたりしない。自分の方に非があると最初からわかっていても、裁判を起こしてやれば、長期(数年以上)に渡る精神的苦痛と所要経費とを恐れ、たいていの相手は泣き寝入りを選ぶ。一般常識から明らかに逸脱する不利な内容でさえ、法の世界独自の思考法、言葉遣いを操ることで、自己に有利に見せかけることができる。
こうした「信じがたい事実」を、私は今年に入ってから晴天の霹靂[へきれき]のごとく民事裁判で訴えられることを通じ、学び取った。
法律の専門知識を盾に理不尽な要求を突きつけてくる相手ゆえ、素人の私たちにとうてい勝ち目はないと思われたが、先般の久高島巡礼中に受けた啓示に従い、「負けて負けて負け切る」姿勢で臨んだところ・・・・長期に渡る泥沼化が予想された裁判が一気に決着。終わってみると、あれれ? 勝っちゃった・・・・・??? いや、実際には、裁判には勝利などありはしないのだ。
裁判の詳しい内容・経緯は法的な理由により明かすことができないが、常識ではあり得ない、天佑(天の助け)としか思えないような出来事がいくつも重なり、難局を乗り越えることができた。
龍宮道のおかげで「精神的苦痛」を感じることなどまったくなかったし、友人たちによる全面的バックアップも心強い限りだった。
実にありがたいことである。
龍宮館完成後にご招待するとお約束していた多くの方々に対しては、これまでご連絡すら差し上げることもなく、甚だしく礼節を欠く結果となってしまい、慚愧[ざんき]の念に堪えない。
が、裁判の行方次第では龍宮館そのものを手放さねばならなくなるかもしれず、しかもヤクザ風の男達が龍宮館のみならず、まったく無関係な私の実家にまで押しかけ、一人で留守番していた老母(86歳)を脅すなど、 険悪かつ不安定な状況が、今年上旬からつい最近までずっと続いていたのである。
他者をトラブルに巻き込む危険は冒せなかった。どうかご理解とご容赦を願いたい。
◎世のため人のためにと無邪気に、素直に、祈り、願い、求め、探究し、努力し、研鑽し、本ウェブサイトを始めとする様々な媒体にて発表してきたもろもろの事柄は、一部の人々の神経を著しく逆なでし、神経症的な行動へと駆り立てるものであったことが、これまで熱心にやってきた結果として、明らかとなった。
不毛な裁判が片づいたと思ったら、今度は宗教弾圧や思想弾圧に匹敵するのではないかと思われるほどの「迫害」や「嫌がらせ」の暴風が、別方面からどっと襲いかかってきたのである。まるで、のんびり断食などさせはしないぞ、とでもいわんばかりだ。
龍宮道とはそれほどまでに危険なもの、あるいは価値あるものなのだろうか?
私にはわからない。
とりあえず、ヒーリング・ネットワークの活動を休止し、旅に出ることにした。
遥か太古の時代より、人類の営みを静かにみつめてきた「いにしえの種族」を南海に訪ね、「生命の法」について問いかけたいと思っている。
何らかの学び(応え)を得られるものか否か、・・・・まったくわからない。
再び読者の皆さんとあいまみえることが叶うか否かも不明。
本稿がウェブサイトにアップされる頃には、私は旅の空の下[もと]だ。
◎ヒーリング随感シリーズの連載を通じ、自らの<命[めい]>をずっと探し求めてきた。
ここでいう命とは、天命とか宿命のことだ。
<命[めい]>についてはさておき、命[いのち]の捨て方が最近わかった。
道のため、友のために、躊躇なく、ゆったりリラックスして、命を差し出せる。
最も残酷な、誰もが忌避したがるような最期でさえ、大いなる歓びと安らぎとをもって、莞爾[かんじ]として(にっこり円やかに微笑んで)受け入れることができる。
私にとり、これは恩寵以外の何ものでもない。
これまでもずっとそうだったが、単に頭で考えただけの観念論や、実生活では何の役にも立たない空理空論をこね繰り回すことを、私はしない。自らのナマの体験・あるがままの実感に基づき、私は語っている。
非難、中傷、攻撃、迫害、圧迫、包囲。これらもろもろのマイナス要因がなければ、現在の境地に到達することは決してなかったろう。
だから、いささかの皮肉も嫌みも強情もあきらめも自暴自棄も、一切交えることなく、純粋に、私はあらゆるものごと・人々に深く感謝し、「樂[たのし]!!!」と叫ぶことができる。
どうか誤解なきようお願いしたい。
私は自らの命を粗末に扱い、死に急ごうとしているわけではない。
それとは正反対に、命[いのち]を最大限に輝かせることについて、私は述べている。
と同時に、自らの死に方と死の時期を自分自身で選ぶことができる「死の権利」についても、私は主張したいと思っている。
・・・武士道と云ふは死ぬことと見付けたり。
『葉隠[はがくれ]』冒頭の有名な一節が、今や、大いなるリアリティを伴って、私の腹中の奥深くにしみ込んでくる。
<2013.05.26 紅花栄[べにばなさかう]>