Healing Discourse

ヒーリング随感5 第13回 生命[いのち]の奉納 高木一行

[ ]内はルビ。

◎前回お約束した通り、第7回龍宮道研究会の模様を写したムービーを以下にご紹介する。

 ムービー3では、手首そばの掌底密珠(豆状骨)および膝外にある膝密珠(腓骨頭)を例にとり、関節とは別の部位を支点に使って実際に動くことができるという事実を、その場その場の閃きにしたがい示演していく様が写し撮られている。例によって、事前にああしようとかこうしようとか、私は何も考えず、何も決めてない。
 肘を床に強く押しつけてしっかり固定され、手首も自由に動かせないようがっちり固められた状態でも、掌底密珠自体はフリーなのでそこから小さな波紋を起こすことができる。そして、その波紋は螺旋状に働き、人体を介して第3者にまで伝わってゆく。
 ムービー4は、肥田式強健術の型に膝密珠を応用したらどうなるか、という実験だ。肥田式の一般指導から離れて久しいが、個人的に興味を持って研究・実践している人とワークする際には、強健術のいずれかの型を例にとって説明することがよくある。
 ここでは、簡易強健術・大腿二頭筋練修法の本運動がきまった際の姿勢を元にして、膝のところで脚を曲げ伸ばしするやり方と、膝密珠を支点とした場合とを比較してみた。ちなみに両者(膝と膝密珠)の方向性は、互いに直角の関係になっている。
 膝とか脚などの部分にとらわれることなく、全体像を観の目で静かに視野に納めておれば、膝密珠を支点に換えたとたん、受け手の全身姿勢が瞬時に変わることがおわかりだろう。
 この型は、ももの裏側にある筋肉を鍛えるエクササイズだが、膝を支点として脚を伸ばし、最大の努力を払って大腿二頭筋をストレッチし、緊張を起こした、いわば現在の自分の最高レベルが、膝密珠を導入した瞬間、楽々と越えられ、まったく新たなストレッチ/緊張の境地が自然に体現される。つまり、従来のゴールが新たなスタート地点へと自ずから変容する。
 これまでの限界をやすやすと越え、脚の裏が瞬時にぐんと伸びる。それでいて、どこにも不自然なこわばりや痛みが生じない。とりわけ、腿[もも]の表側が以前とは比べものにならないほどリラックスしている。
 膝を支点として脚裏をストレッチすると、膝それ自体や腿の表がどうしてもこわばってしまうものだ。これは、正しいストレッチがなされてないサインだが、そういうやり方を長く続ければ、必ずや体に害となる。と同時に、高いところから下を見下ろすのが怖くなる。膝が慢性的にこわばっておれば立ち姿勢でのバランスが悪くなるから、当然のことだ。

◎以上は肥田式強健術という限られたメソッドのみに当てはまることではなく、一般によく行なわれている立位前屈など、脚裏のストレッチを目的とするすべての運動についても言えることだ。
 膝そのものを曲げ伸ばしすると、膝がこわばり(ゆえに、膝裏やももの裏が充分伸びない)、膝の機能が充分発揮されない。
 言葉を換えれば、密珠とは、関節以外の部分を関節として使うといった特殊な身体運用法を意味するものでは決してなく、関節の働きを最大限に活かすための要所あるいは急所であるといえるかもしれない。
 が、何せ、一般常識からはあまりにもかけ離れている。
 私自身、いまだに半信半疑といった態[てい]だ。
 密珠を使うと、自分でもびっくりするくらい、自由自在にわざを繰り出していける。しかし、どういう理屈でそうなるのか、よくわからない。自分がわからないものを、人がわかるように伝えることなど、もちろんできるはずがない。
 どうやら、関節そのものをダイレクトに動かすという概念自体が、現実にはあり得ない仮想、妄想であり、実は誰もが密珠を使って動いているにも関わらず、「関節のところで動きが起こる」という(集合)無意識的思い込みが、自然で自由な滞りなき動作の発露を阻害しているらしい。
 そこから先を知るためには、長期断食によって感覚を極度に鋭敏化する以外、方法がないとわかった。
 よって、断食に入るべく、もろもろの準備を今、進めているところだ。※)
 断食中は細い細い糸のような生命の流れを保持するため、通常の活動をすべて控える。断食中にいきなり普通の食事をとると急死することがあるという事実をみても、食を断つことによって心身がどれだけ繊細になるかがおわかりだろう。外出、書籍、雑誌、新聞、テレビ、インターネット等もすべて廃止だ。
 いったん絶食に入ったなら、本ウェブサイトも休止させていただくことになる。

※断食について詳しくは、『超越へのジャンプ』第5回参照。ページ下より『太霊道断食法講義録』へもアクセスできる。

◎東日本大震災を契機として、日本人全体の活力を高める道を祈り求め、巡礼を重ねるうち、龍宮道という形をとって、心身を統一する新しい原理が啓発的に示現し始めた。
 その原理は武術(心身錬磨)という特殊分野だけにとどまることなく、療術や、各種芸術、芸道など、人のあらゆる営みを本質的に変容させる力を秘めていることがわかってきた。
 その探究を推し進めるため、わが命を差し出すことを私はまったく厭[いと]わない。否、それこそ本望だ。現在、私の周辺は平静とはおよそ縁遠い異様な状況であり、そんな状態で断食に入れば生命に危険が及ぶことは重々承知している。が、新たな時代の大波[ビッグウェーブ]をもたらすため犠牲が必要とされるのであれば、喜んで命を差し出そう。すなわち、命を、奉納する。
 そもそも、私を生かしているこの「輝き」は、私のものでは元来ない。だから、「私の命」という言い方自体、おかしな話だ。個としての命を捨て去ることを通じ、人は永遠[とわ]の生命[いのち]と合体・融合する。

◎日本画家・田中一村[いっそん]の作品群を収めた美術館が完成する直前、奄美に巡礼した際のことだ。
 空港から車で約2時間。市街地を抜け、つづら折りの峠道を越え、奄美大島南部の瀬戸内町を目指した。
 その途中、休憩のため立ち寄った日用雑貨店で、ねずみ取りを大きくしたような細長い金属製のカゴが売られているのを見つけた。マングースをとらえる罠だ。
 同行者たちにそれを示したが、皆、無関心の様子だ。
 かつて、農作物に害を及ぼすネズミ退治を目的に移入された数十頭のマングースが増え過ぎ、アマミノクロウサギなど珍しい在来種を圧迫し始めたため、今やマングースは「駆除(つかまえて殺す)」の対象となってしまった。地域によっては、1頭殺すたびに報償金が出るらしい。沖縄では、過去数年間で1万数千頭ものマングースが「駆除(大量虐殺)」されたそうだ。
 狭い檻の中でマングースをハブと闘わせ、観光客や修学旅行の中高生らに見せる残酷ショーも、つい最近まで白昼堂々と行なわれていた。
 ところでご存知だったろうか?
 マングースというのは実にかわいらしくて賢く、愛情深い動物で、子供の時から飼えば人によく慣れ、飼い主から引き離されると悲しみの余り食べ物をとらなくなって死んでしまうことさえあるという。
 アフリカから連れ去られた黒人奴隷みたいに、マングースたちも人間の勝手な都合により、故郷のインドから沖縄・奄美に強制移住させられ、野に放たれた。ふるさととはまったく違う環境をものともせず、人間の力など一切借りず、マングースたちは自力で生き延び、子孫を増やしていった。
 そして今、またしても人間側の勝手な都合により、マングースたちは迫害され、追い立てられ、殺され続けている。せめて、つかまったものたちを引き取って飼おうとしても、法律で規制されていて思うようにならない。
 人間に感染する危険な病気のウィルスを保菌している(可能性がある)、との陰険な噂を立てられもしている。そんなことを言い始めたら、野山の鳥獣のみならず、牛、豚、鶏、犬、猫などもすべて同類となるのだが。
 よその土地へ進出していって、その場所本来の自然環境・生態系を激変させる者が悪であり、滅ぼされねばならないとしたら、まず駆除されるべきは「人間」ではあるまいか?
 マングースを主人公にした(大人も子供も楽しめる)受難と希望と友愛の物語を、誰か書き著[あら]わしてくれないものかなあ。マングースを好きになり、思いやる人が1人でも増えるように。

◎龍の台[うてな]や密珠などの諸原理が、龍宮道という武術方面のみで発揮されるとしたら、そんなものに特に価値があるとは思えない。
 ところが先日、肥田春充が創始した強圧微動術に密珠を応用してみたところ新たな発見と体得があったので、概要のみ簡潔にご報告しておく。春充がこの療術の要訣として「指でしっかりポイントを押え、肘から柔らかい微動を起こす」と述べた「肘」とは、どうやら肘関節ではなく肘の密珠を指していたようだ。
 肘から微震動を起こすといっても、肘(あるいは肘密珠)そのものを細かく作為的に振るわせるのではない。そういうやり方では、もっぱら「横波」が手先へと伝わっていくのみだ。そういう波動には、深いヒーリング効果は、ない。ただ、表面がかき回されるだけだ。
 掌底密珠と肘密珠の腱を通じてのリンクを活用し、「縦波」を発生させ、全身の統合を司る主要ポイントに作用させる、それが強圧微動術の原理だったのではあるまいか? すると、指で押えている方向に沿って振動が起こり、身体の奥深くへと送り込まれてゆく。同時に、術者の意識も内向する。強圧微動術の別名「中心療法」の意味も判然としてくる。
 そういう視点から改めて強圧微動術の各術式を検証してみると、足刀密珠や掌底密珠、肘密珠、肩密珠等に直接働きかける(かのごとき)型式が含まれているではないか。これらは密珠覚醒法としても使えそうだ。 
 理屈はさておき、密珠に基づく強圧微動術はかなり「効く」。これと食餌療法を併用することで、最近、胃ガンのヒーリングに成功したばかりだ。
 諸種の病気をヒーリング(健康回復)する術[わざ]を、私たちはいくつか再発見・研究し、蓄えてきたが、大半の病を自宅で安全・確実に、安価にいやすことができるという事実は、福音(喜ばしき知らせ)以外の何ものでもないと思う。

◎昨春より現在に至るまで、私が最もエネルギーを注ぎ、情熱を傾けてきたのは、実は龍宮道でもなければ龍宮館リノベーションでもない。
 昨年春、妻の美佳を巫女として帰神法(古神道の降神術)を修していた時のことだ。突然、STM(自発調律運動)を越えた霊動レベルの舞が、妻の身体を通じ顕現し始めたのである。
 霊動による舞とは、単に身体が無意識的・自動的に動くといった呑気・無邪気なものじゃない。
 カミが乗り移って(内なる深淵より立ち現われて)、自らの意思とはまったく無関係に、これまで体験したことがないようなやり方で、身体が突き動かされる。
 そうやって現われる舞の中に、超越的なメッセージがコズミックなシンボリズムとして含まれている。
 この時、帰神の場には厳粛にして荘厳・濃密なる<気>が充ち満ち、慣れない者を同席させると、全身に鳥肌が立って震えが止まらなくなったり、意識が薄れて何も記憶に残らないことさえある。
 それ以前、妻は、舞を最も苦手としていたのだが(妻が舞っている写真やムービーがこれまで1つもなかったのはそのためだ)、驚くべきことに、その日以降、(ヒーリング・アーツ流の)儀軌に則り帰神の場に座してかしわ手を打ち、私が石笛[いわぶえ]を吹き鳴らすと、自ずから超越的な舞へとシフトすることができるようになった。
 とはいえ、カミ(の意識)を宿して舞うというのは気軽に試せるようなことじゃない。物凄いエネルギーを使うため、妻などは翌日げっそりやせ細る(ヒーリング・フォトグラフ『チャロナラン』のライナーノーツもご参照いただきたい)。生命、というよりは魂を賭け、私たちは帰神舞の撮影に取り組み、その営みを通じて神々に問いかけ、結果として得られた作品群を超越世界へ奉納してきた。

◎その、新たに開幕した「奉納帰神舞」シリーズでは、クモやサソリの女神とか、うろこに覆われた龍蛇女神、死の女神、血を浴びたような紅[あか]いコウモリの翼を持つ夜の支配者など、異形[いぎょう]の神々が次々登場する。新しい時代を統べる生命[いのち]の法の管理者たちは、こうした生物多様性を反映するかのごとき姿として次世代以降の人々に認知されるのかもしれない。
 極めてセンシュアルかつセクシーな作品も多く、またそれぞれの作品にこもっているマナ(御神気)は半端なものではないため、すべてを一般公開する意思は、現在のところない。
 以下に、奉納帰神舞シリーズの比較的初期の作品を1点ご紹介する。これまで私たちの活動に暖かい共感を寄せ、様々な形で応援してくださってきた方々への、妻と私からのささやかな贈り物だ。
 静止画がメインだった従来のスライドショーとは本質的に正反対の、帰神スライドショーなる新形式を、初めて正式に発表する。真っ暗な部屋でPC画面の輝度(明るさ)を中間に設定した状態で観照していただきたい。 
 帰神スライドショーも、いうまでもなく観の目で観る。が、これまでとはかなり勝手が違うかもしれない。
 各帰神フォトの表示時間は0秒だ。つまり、形が一瞬たりともとどまることなく、常にうつろい、変化しつづけてゆく。その「変化」を、観の目に映すのだ。
 古いものの裡より、新しいものが生まれ出る。
 それは直ちに古くなって、また新たなるものを内包し、暗黒に吸い込まれるように、あるいは遠ざかるように、または沈みこむように、消え去ってゆき、新しいものの台頭に場を譲り渡す。そうした、いわば輪廻転生のエッセンスが、あなたの眼前で繰り返される。
 まもなく、根本的かつ劇的な大変化が、地球規模で起ころうとしていることを・・・・これらの帰神スライドショーを通じ、自然界の諸神(スピリット)や女神が我々に告げ知らせようとしている、・・・そのように私には感じられる。
 観の目をまず造る。そのためには、画面中心の1点を周辺から凝視しておき、その形を変えず、まばたきも一切せず、凝視することだけをレット・オフ。視点は一切変えない。つまり、目を動かさない。まばたきしないといっても、目は常にリラックスさせて余計な力を入れないように。
 帰神フォトが移り変わってゆく、その流れ、変化に対し、かしわ手を打つ。部分的なあれやこれやを見ないように注意しながら。
 何度か繰り返すうちに、まばたきも、眼球を動かすことも、一切なしに、ずっと画像の変化そのものと向かい合い続けることができるようになる。
 すると、聖なるコズミック・ダンスが、まもなく目に映り始めるだろう。
 常に変化し続ける生命の本質が、宇宙的なダンスを踊っている。
 ヒーリング・アーツで言う舞とは、一瞬一瞬トータルに全身丸ごとが変化しつつ、しかも常にバランスを取りつづけることだ。それが具体的にどういうものか、帰神フォト・アニメで確認することができる。

◎ヒーリング・ネットワークというヴィジョンを掲げ、少数の共鳴者たちと共に、<ヒーリング>の本質へと迫るべく、これまで努力・精進を重ねてきた。
 50歳でヒーリング・フォトグラフに開眼し、51歳で龍宮道に入門するなど(現在52歳)、夢中になってあれこれやっているうちに、気づいてみると本ウェブサイトは文字通りの電脳密林と化し、どこに何があるのか、そもそもこれは一体何なのか、部外者にとってはわけがわからぬであろう渾沌状態を呈するに至った。
 技術としてのヒーリング・アーツを求めてこのウェブサイトをひもといた人は、猫の写真など単なる私の個人的趣味とみなし一顧だにしないかもしれない。が、猫にも心、否、魂があり、同じ地球に生きる仲間として心を通い合わせることができるという事実を、私は猫シリーズを通じ語ってきた(ヒーリング・フォトグラフのギャラリーでまもなく発表予定の『龍宮館の猫たち 6』のライナーノーツもご参照いただきたい)。本ウェブサイトには「(命がけの)遊び」の要素が充満しているが、「お遊び」の部分など微塵もない。
 ここまで探究の歩みを進めてきて、現在私たちが直面している地球規模のクライシス(危機的状況)を乗り越えるためには、アート(技、術、藝)という道のみでは力不足であるとわかった。
 人間による人間のための芸術や宗教を越えた、普遍的な生命[いのち]の法を、私は新たに祈り求め始めた。
 人間だけが繁栄すれば、それでいいはずがない。地球に暮らすあらゆる生命[いのち]が栄えることを祈り、願う道。

<2013.05.23 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)>