[ ]内はルビ。
久高島の重要な聖地のひとつ、イシキ浜。
神話によれば、ここに五穀の種が入った壺が漂着し、やがて沖縄全体へと穀物栽培が伝播していったという。
浜の向こうに広がるのは東の海。その彼方に、人々は楽土ニライカナイを幻想した。
超意識を開き、再びこの地に立ってみると、同じ光景であるにも関わらず、先ほどとはまったく印象が異なることに驚く。
昨日、ガイドに案内されながら感じたものとも全然違う。
モンパノキなど、沖縄の海辺でよくみかける馴染みの海浜植物たちが、生への強靭な意思を葉の1枚1枚にまで満々とたたえ、みなぎらせ、ぐわっとこちらに迫ってくる。
起伏の少ないこの島は、植物たちにとっても決して安閑として繁茂できるような場所ではないのだろう。台風にいじめられ、なぎ倒され、さいなまれ、ねじれ、曲がりくねりながら、命の踊りを草木たちは全身全霊で踊り続ける。
そうしたあれやこれやを帰神撮影しつつ、合間合間にカメラを脇に置き、感覚を開放して大自然の中に溶け込んでいったり、身体の要所要所に伏在するポイントを活性化させ、自ずから湧き起こってくる舞を奉納していった。
雲の切れ目から太陽が一瞬、顔をのぞかせると、ぱあっと虹色の粒子が振りまかれたみたいに海が輝き渡る。
そうこうするうち、突然、強烈な眩暈[めまい]が襲ってきて、まともに立っていることすらできず、私は崩れ落ちるように砂浜に座り込んでいた。
酔っ払いのごとくふらふらになって(私は酒を飲まないのでこの比喩が正しいかわからないが)、植物とか侵食された岩などの「形」にちょっと目を向けただけで、渦巻き[メエルストルム]に呑まれてもみくちゃにされる擾乱[じょうらん]感覚が起こり、同時にみぞおちの奥から突き上げるようにして強く鋭い吐き気がこみあげてきた。
全身の細胞1つ1つから、生命力が抜け落ちていくかのようだった。
強打を満身いたるところに浴び、幾度も幾度も繰り返し大地に叩きつけられ、それでも足りぬとばかりにギリギリ絞り上げられ、締めつけられ、最後にアイロンでぺしゃんこに押しつぶされて平らに延ばされ、もはや「希望」の断片すらどこにも見出せない、絶体絶命の窮地。・・・私は冗談を言っているのではない。誇張しているわけでもない。頭で考えたイメージとも違う。それは生理的、神経的に味わう「実感」だ。
超意識の奥深いレベルへと参入しようとする者は、必ずこうした<苦>の層にぶつかるものだ。それは私の個人史と関わりつつも、それを越えた、人類全体の集合的な苦しみの記録(記憶)にほかならない。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう? 私にとって、それは永遠に等しかった。
まったき絶望の底なし沼にずぶずぶ沈み込んでいきながら、延々襲い来る吐き気と弱々しく戦っているうち、ふと、砂浜に突っ伏して死んでいる自分自身の姿のリアルなイメージが、眼前に広がる現実の光景と重なった。
——まあ、こういう場所[ところ]で死ぬのも悪くはない。
そうやって死を受け容れた瞬間、吐き気を全面的に受け容れることができた。
そもそも、身体が吐きたがっているというのに、なぜ吐いてはいけないのか? 吐くことは心身の深い浄化をもたらすと、前回の久高島巡礼で学んだはずではなかったか?
水を飲んでは吐き、飲んでは吐くことを繰り返すうち、心身が次第に落ち着いてきて、周囲至るところにある「螺旋」を直視できるようになっていった。
世界に螺旋構造が充ち満ちていた。あそこにも、ここにも、小さな貝殻にも、蜂が花にアプローチする軌跡にも。
それらが、繊細に開かれきった感性に映り、かき回し、眩暈を生んでいたようだ。
あらゆるものの裡に、螺旋状の渦巻き構造が観える。
生と死をぐるぐる巻き込んで踊る対数螺旋のダンス。
気づくと、先ほどまですぐそばにあった波打ち際が、遥か遠くにまで後退しており、緑黄色の海藻に覆われた海底が姿を現わし始めていた。
それではスライドショーだ。イシキ浜とその周辺で帰神撮影した作品群で構成してある。
ニライカナイより豊穰なる贈り物をたずさえて神々が上陸するとされる聖地・イシキ浜をあとにし、福木[フクギ]に守られた神々の行幸路をたどって島の北端を目指す。
つい先ほどまで、今にも死ぬかと思えるほど弱っていたのがまるで嘘のように、一息ごとに新鮮な活力が甦ってきて、躍り上がらんばかりの歓喜が全身を満たし、巡る。
多層的な螺旋の酔いが脳の視覚野を活性化させたか、今や目に映るすべての形の「輪郭」が、揺らぎ、繊細に波打ちながら、息づいていた。それら諸々の形の裡[うち]に宿る生命力——ある種の「意図」を備えて柔らかに輝く波紋——が、形を透かしてぼうっとにじみ出ている。
万物が、波打ち踊る命の光を内面より発していた。南太平洋の文化圏でマナと呼ばれるものが、これなのかもしれない。
クバ(ヤシの一種。沖縄で神が宿る木とされている)が左右に生い茂る参道へ至ると、あちらからも、こちらからも、感性に訴えかけてくる「何ものか」が感じられて、そのたびごとに自転車を降り、観の目を整え直し、丁寧に帰神撮影していった。
やがて前方の視界が大きく開け、龍宮神が鎮まるというカベール浜が一望の元に観[み]渡せた。
植物群落に隠された小道を伝い降り、巫女たちによる神事が執り行なわれる海岸の岩場を目指す。
北からの冷たい強風がまともに吹きつけるこのあたり一帯は、枯れて白骨化したみたいになっている植物も多く、生きているものも低い体勢で地を這うように絡み合っていて、さながら荒涼とした荒れ野のごとくだ。
荒野・・・そこは魂が鍛えられる場所。
スライドショーだ。
夢中になって帰神撮影するうち、次第に不思議な記憶が甦ってきた。
・・・私はこれらの光景を知っている。
以前訪れた時に目にしたとか(実際には、前回の訪問時にはこのあたり一帯は部外者の立ち入りが禁止されていた)、前世の記憶とか、そういったものじゃない。
もっともっと古い、民族の記憶の古層に刻みこまれた魂の源風景とでもいったもの。
あたかも、かつてこの島に初めて上陸し、この島で暮らした原初の人々が日常的にみていた光景に、集合的な記憶層を通じアクセスしているかのようだった。
と同時に、腑に落ちるものがあった。
古代人の感性は、我々のそれよりも遥かに開かれていたに違いない。
おそらく、今私が超意識状態で観ているそのままの世界を、古代の久高人[くだかびと]たちは観ていた、感じていた。
それゆえに、超意識状態にて撮影されたこれらの帰神フォトを通じ、私たちは古代の人々の感性にダイレクトにつながることができ、彼女/彼らのたくましい生活力、ヴァイタリティー、生への強烈な意思、が自ずから共鳴してくるのではなかろうか?
懐かしく、慕わしく、そして畏怖に満ち、神秘的でもある、時空を超えた感触に、 読者の皆さんも圧倒され続けていると思う。
次回発表予定のスライドショー4では、この龍宮神の聖地を、さらに別の視点からご紹介していく。
<2013.04.22 葭始生[あしはじめてしょうず]>