<第1の質問(質問部分を中心に抜粋。以下同様)>
ヒーリング・ディスコースを読まさせていただきますと、豊富で、素晴らしい内容で、読み直すたびに奥深さを感じます。
裡における状態についてはたいへん興味深く感じるとともに、練修の際、疑問点が浮かびました。
息の通路の練修を行なっているとき、体の裡に意識が入った状態から息が吐き出される正しい方向を意識すると、裡に意識が入った状態から元の状態へと戻ってしまうようにも思えます。裡に意識が入った状態では、先生は呼吸に関し一体どのような感覚を感じておられるのでしょうか。
ヒーリング・アーツによって身体における意識の在り方が根本的に変わるように感じるのですが、ヒーリング・ムービーのなかでも先生は素晴らしい動きをお示しになられており、修練の賜物としかいいようがないように感じます。動きが顕れているあいだはどのような内的感覚を感じておられるのでしょうか。常に裡に意識が入っておられるのでしょうか。初心者は裡に意識が入ったり出たりと繰り返すと思うのですが、もし常に裡に意識が入っておられるのなら、先生のような動きが顕れるようになるために、なにかよい練修方法はありませんでしょうか。<S.H. 男性・大分県>
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あらかじめ用意された既成の答えを、私は何一つ持たない。そうした重荷・足枷から、私はまったく自由だ。常に未知なるものの裡に我が身と我が心とを置き、任せ続けることは、慣れないうちはまったくもって不確かで、危うい行為と感じられる。
頼れる信念、信条、信仰、そんなものがあればどんなにか安心・安全だろう。楽だろう。過去にうまくいったことには頑なにしがみつき続け、それを使ってまたうまくやらねばならない。前に失敗した方面へは絶対に行かないようにし、2度と同じ過ちを繰り返さないよう注意を払い続けねばならない。
・・・・そうやって私たちは、自らの人生の可能性をどんどん狭めていく。人が大人になるにつれ、小さな子供の全方向に開かれた鮮烈で驚きに満ちた心を失っていくのは、このようにして自らの人生を自ら限定してしまうことが主要な原因だ。思い込みとは、心のこわばりであり、同時に体のこわばりでもある。
ゆえに、私は古いものを捨て続け、常に新たにして新鮮で「ある」ことを、日々心がけている。古いものとは、昨日までにわかったこと、できるようになったこと、それらのすべてを意味する。
捨てるとは、忘れてしまう、あるいはできなくなって構わない、という意味だ。まったく執着しない。捨てて顧みない。・・・すると、次の新たな世界(ステージ)が拓かれる。
こうした「結果」を得んがために、わざと過去を捨てたふりをする、そういうのではダメだ。何も起こらない。
まるで神仏に何もかも見透かされているみたいに、いくら自分の表面意識を取り繕い、偽ってみても、過去に得た術(わざ)に対する執着がわずかでも残っている限り、それがブロック(慢性的こわばり)となって心身の自在な流れを妨げる。現状という「枠組み」の内部に自らを置けば、それ以上の境地へと進めなくなるのは当然だ。
質問の細部へと分け入っていこう。
「息の通路の練修を行なっているとき、体の裡に意識が入った状態から息が吐き出される正しい方向を意識すると、裡に意識が入った状態から元の状態へと戻ってしまうようにも思えます」
どうやら、この質問者は一般的な「内」と「裡」とを混同しているようだ。「身体における意識の状態」という言葉遣いにもそれが表われている。
私が「裡」と呼んでいるものは、「外」に対する「内」ではない。多くの人は、外側の空間から体の内部を感じようとする。これに対して私が言う裡とは、身体そのもので身体を感じている身体の自覚状態を指す。
この時、身体と精神とは一体にして不可分であり、「身体における意識」を離れたところから観察する「精神における意識」などというものは存在しない。ゆえにこの質問は、身体と精神とが分離した状態において発せられたものであることがわかる。
そして質問者は、呼吸の方向を意識すると、息を吸ったり吐いたりするのに伴って意識が体の中に収まったり、外に出たりすると言う。・・・そんなことは当たり前じゃないかね?
息の通路と息とを一緒くたにするから、こういう質問が出てくるのだ。私は通路(空間)そのものを意識せよと説いているのであって、そこを通る流れ(息)の方向と一体化せよなどとは言っていない。
呼吸において息の通り道を常に意識し続けていると、息として身体を出入りする「命」を感じ始めるようになる。そういう体験がないとしたら、その人は生命の本質についてまったくの無知ということになる。
イノチとイキは、同根の相通じ合う言葉だ。インドでもプラーナという言葉が、呼吸と生命力を同時に意味することは非常に興味深い。
「動きが顕れているあいだはどのような内的感覚を感じておられるのでしょうか」
私は自らの身体を、粒子的流動と感じている。精神もまた、粒子的に働くのを感じる。私が「粒子状」という時、それは文字通りのことを意味している。皮膚という袋の中に粒子が詰まっているのではない。その皮膚もまた、粒子の集合体なのだ。
今日、あらゆるものが素粒子(物質の最小単位)から成っているという事実が、広く人々の間に知れ渡るようになってきた。しかし、多くの人はいまだ知的理解のレベルに留まっている。もしかすると科学者たちでさえ、自らの身体を粒子的に認識し、運用している人はまだまだ少ないのかもしれない。
ヒーリング・アーツとは、この新しい知的パラダイムに則して、心身を調和・統合させていく道だ。それは、種としての人類の潜在的な求めに応じて顕われ、育ちつつあるものなのかもしれない。かつて、人々のヒーリングを希求する祈りが、いやしの術(わざ)を執り行なうシャーマンたちを産み出してきたように・・・。
万物は粒子から成っている。ゆえに世界の動きもまた粒子的だ。この宇宙全体が粒子状に流れており、地球上の生命の進化もまた粒子的流動だ。
それがわかれば、この大いなる宇宙の流れに、粒子的に溶け込み、一体化することができるようになる。そういう境地を神道では、「唯神(かんながら)の道」と呼ぶ。
ところで「私」とは、身体なのだろうか? それとも精神なのだろうか?
「私」は「他(あなた)」ゆえに存在する。身体を客観的に他者として観る何ものかがあれば、それが「私」ということだ。
そういう観点から改めて身体を感じてみる。
身体が動いている時、私の裡では複雑な波紋の循環が起こっている。だが、それにまったく関わらない、つまり止まっていると感じられる感覚・意識が、私の裡には確かにある(動中の静)。ゆえに私は身体ではない。
同様のことが精神(思考活動)についてもいえる。動いている言葉、流れている心(心も流れるものだ。コロコロ無数の小珠が転がるように流れていく)を傍観している、「不動」として知覚される意識だ。ゆえに、「私」は精神でもない。
動きが顕われている時、私は裡で内的流動の複雑な循環を感じているが、それと自己同一化することなく、動かざるものを常に求め、意識し続けている(動中求静)。あらゆるものが変転し移ろいゆく諸行無常の流れを超越するこの「不動」こそ、永遠にして不死なる根本実体だ。
「先生のような動きが顕れるようになるために、なにかよい練修方法はありませんでしょうか」
その「よい練修方法」なるものを、私は一貫して説いてきた。各修法を心身にインストール(実践)するとどんなことが起こるか、私自身が生の全体性をもって実際に示してきた。前腕にヒーリング・タッチしながら指1本であれやこれやしてみる・・・何だかこまごまとしていて面倒くさい。確かに。が、実際に試せば、流動循環する動きが自ずから起こり始めることが確かめられるだろう。しかし私の強調点は、外側に表われた結果としての「動き」ではなく、動かざる「裡」の方に常に置かれていることを銘記すべきだ。
質問者は医師を生業(なりわい)とされているとのことだが、(広義の)<いやし>に専門的に携わっている人々にこそ、是非とも「裡」を理会・体得していただきたいと、私は切実に願い祈っている。この世界には、あまりにも多くの病・苦しみが充ち満ちており、真(まこと)の<いやし>が必要とされているからだ。
実際のところ「裡における状態」こそ、すべてだ。あらゆる道における名人・達人たちに共通する要素とは、裡に入っていることだ。それも全面的に入り、そこに安住している。
武術の名人と医療の達人とでは、外側に表われた行為(Doing)は随分違って見える。しかし、裡なるBeingはまったく同じだ。より正確に述べるなら、同じとか違うという対立性を越えた<超越性>において、本質的につながり合っている。
名医(医術の名人)とは、裡にあって病者を観、相手の裡なるこわばりをほどき、裡なる生命(いのち)の流れ・循環をイザナうことができる者に対する尊称なのだろう。彼女/彼は、病気を見るのではなく、時間と空間を超えて人の全体性を観る。細分化・パーツ化に基づく西洋医学を学び、実践してきた医師なら、その「(集中して)見ること」を徐々にレット・オフしていけば、普通の人間よりもはるかに深い「観ること」の層へと至ることができるはずだ。
質問者は、既成の医療に満足し切れないものを感じているに違いない。ヒーリング・アーツに惹きつけられるのは、何か未知なる医術の可能性がそこに秘められていることを直感するからだろう。
そして私には、質問者の潜在的な怖れも明瞭に感じることができる。医学的立場をレット・オフすれば、従前の医療観は自ずから変容していかざるを得ないだろう。だが、器に入った古い水を捨てなければ、そこに新しく湯を注ぐことはできない。
誤解なきよう明記しておくが、私は医業を辞めよなどと言っているのではない。外側に向かって集中していく意識の方向性をちょっと強調してレット・オフすれば(静中求動を心がける)、これまで思ってもみなかった新しい世界が拓ける。その根本には、古今東西のすべての名人・達人たちが指し示してきたのと同じ境地があり、それが外側に現われて活動となる時には、宇宙に2つとないユニークなものとなる。・・これが私のメッセージのすべてだ。
一体どうやっているのかと目を凝らしながらムービーなんか見たって、何もわかりはしない。なぜなら私は何もやっていないからだ。様々な修法はむしろ、いかにして「すること」から手を引いていくかを教えるものなのだ。
映像から何かを得たいと思うなら、「見る」ことを「観る」ことへと変容させればいい。具体的には、映像を見ながら、どこか(手や足の動きなど)を注視しようとするコマンドを<強調→レット・オフ>すればよい。
突然ハイビジョン映像に切り替わったかのように画面が立体的に、鮮やかに観え始めるだろう。これが観(見)取り稽古だ。その前後で自分の体の動き、実感を確認すれば、「観る」ことが確かに稽古となるのだとわかるはずだ。
<第2の質問>
ディコースの「たまふり」第4回・「無為の為」において視覚と聴覚を遮断する練修について解説されている部分がありますが、先生が体感された盲人の感覚はどのようなものか、教えていただけないでしょうか。
私は数ヶ月前、視覚障害者の授産所の所長と知り合いになり、時々訪ねていて、視覚障害者の方々と出会う機会も多々あります。
先日、浜松市にある盲学校の一般見学者向けの交流会の企画で、目にアイマスクを着用して白杖を持って歩く体験をしました。
盲学校の先生に見守られつつ足の裏と白杖を持つ手の感覚を可能な限り研ぎ澄まして歩きましたが、100メートル足らずを進むのに10分もかかりました。点字ブロックの上でも、靴を履いているとかなり感覚が鈍くなりますし、白杖を持つ右手も、「常に臍の前に置くように」と注意されていたにもかかわらず、歩いていくうちにだんだん右外へずれていったため、修正するのに手間取ったためです。
盲学校の敷地の中でこれほど大変なものだとすると、自動車が無数に走る公道を歩くことを想像すると、恐怖さえ感じました。
それでも、先生が説かれた粒子感覚を思い出しながら感覚を研ぎ澄ますと、同じ道を帰る際には半分ほどの時間ですみました。
上述の授産所の所長から、視覚障害者について書かれた手引書を入手しましたが、その中に「人生の途中で失明した人の中には、体のある1点の位置を正しく教えても、確実にその位置を示すことが出来ない場合がある」と記された部分がありました。仮想身体について述べているようで、視覚による補正ができない視覚障害者にとっては非常に厄介な問題となるようです。
先生が体感された境地から、彼ら視覚障害者に役立つ技があれば嬉しく思います。
また、私達がアイマスクを使って練修する際、特に数日間連続して行う際に注意すべきことはないでしょうか?
どうか、よろしくお願いいたします。<Y.Y. 男性・静岡県>
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まったき暗闇の中で、人は自分自身に投げ返される。
私は光を完全に遮断できるアイマスクを使っている。それを装着してしばらくたつと、まず目が寛ぎ始める。見ようとすることを目があきらめる。と、眼球及びその周辺が自然に緩み始める。緩む緩む、どんどん緩んでいく。それにつれて、深いリラクゼーションが湧き上がってくる。
こうしてリラックスすることの中に溶けていくのを楽しんでいると、全身の奥深いところがガクッと一気に緩む瞬間がやってくる。同時に全身の表面(皮膚)がふわりと開いて、皮膚感覚が部屋中に拡がり満ちたように感じる。
アイマスクをつけて数時間も経たないうちに、こういう感覚が味わえるだろう。何度か行なううちに、より短時間で同様の体験が起こるようになる。私はこの皮膚感覚が開かれた状態を活用し、普段視覚に使われるエネルギーを他の感覚に回す練修をする。
私がヒーリング・タッチを行なう際には、最初、触れ合っている箇所に視覚を働かせ、それを瞬時に触覚モードへと切り替えている。ムービーやDVDを注意して観ている方々は、すでに気づいていると思う。
さて、この質問者も誤解しているようだ。上記のような訓練を私は時々行なってきたが、その程度のことで「盲人の感覚を体得した」などとは、微塵も思っていない。暗闇の世界で生きることを余儀なくされた視覚障害者たちの努力・体得に、アイマスクを外せばいつでも光が戻ってくることを知っている私が、及ぶはずがないではないか!
リアルに想像してみたまえ。あなたが実際に光のない世界に突然放り込まれ、残りの一生をそこで生きていかねばならないとしたら・・・どうかッ?
質問者は、盲人にいろいろ教えてあげたいようだが、私は逆に盲人から教わりたいと思っている。盲人のタッチ感覚や、触覚を通じての世界認識など、暗闇の中という対等な条件下で、触れ合いを基礎として盲人と共に研究したいテーマが山ほどある。
もしかして私は、過剰な期待を抱いているのかもしれない。しかし私には、盲人たちとの出会いを通じて素晴らしい叡知と術(わざ)がもたらされるという直感がある。
宝(学び)の隠し場所を告げる私の直感は、これまで外れたことが1度もない。
<2007.11.28 朔風払葉(さくふうはをはらう)>