Healing Discourse

質疑応答 [第2回] セックスの行為なきセックス

<第3の質問>
 ヒーリング・ディスコースを拝読させていただき、実践させていただいていますが、いつも新鮮な驚きと共に、心身の解放感を味わわせていただいております。ありがとうございます。
 ディスコースも次第に内容が高度になってきており、基本の修得がしっかりしていないと、中々先に進めないことを感じて、個人的にはもっぱら<たまふり>を繰り返し読み、基本を再確認つつ練修しておりますが、まだまだ未熟で修練が不足しているのを感じています。
 最近は、掌における凝集・拡散の感覚が以前よりかなりハッキリしてきました。掌以外でも、時にありありとした凝集・拡散の潮汐作用を感じるのですが、その作用の拡がりをよく感じることができないでいます。例えば掌を凝集、レット・オフした時など、その作用は前腕から身体の方へと流れていくと思います。しかし、私の場合、掌に限りませんが、その作用を、意識した周辺では感じるのですが、全体へと伝播していく感覚が希薄です。おそらく、オフの流れを自ら止めてしまっていると思い、レット・オフを心がけていますが、なかなか流れに任せることができないでいます。この点についてどのように取り組んでいけばよいでしょうか? <R.S. 男性・東京都>

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 質問者の現在のレベルでは、以下の3つのポイントを心に留めつつ、自らの心身を調律していけばよいだろう。
 第1の要点は、「度合い」だ。
 まず両手をしっかり振りほどき、たまふり状態を活性化させてから、次のような実験を行なってみる。
 手を凝集させて、レット・オフする。その際、水が一杯入った器を引っ繰り返すように、一気にレット・オフするのだ。・・・レット・オフが手の周辺に一瞬拡がり、その後は何も感じられなくなるだろう。
 次は、糸のように細く長く、ケチケチと、少しずつわずかずつレット・オフしていく。・・・今度はかすかな浅いレット・オフが、先ほどよりもさらに遠いところまで拡がっていきはするが、ほどなく先細りになって、いつの間にか途絶えてしまう。
 この両極端の間のどこかに、各自にとっての適切なレット・オフの「度合い」がある。度合いとはこの場合、タイミングや加減を意味する。正しい度合いを発見するためには、何度も繰り返し実験を続けるしかない。
 正しいところにぶつかると、突如として心身の感覚が一変する。発進と待機、能動性と受動性が出会い、溶け合う。レット・オフが途切れることなく連鎖反応的に拡がって裡に満ちあふれる。全心身が柔らかく粒子状にほどけていく。限りなく穏やかで、限りなく自由でありながら、同時に力に満ち充ちている。
 質問者はすでに何度かこうした状態の入り口を体験しているようだから、丁寧に探していきさえすれば、かつて開いた扉を再び見出すことはそれほど困難ではないはずだ。

 要点の2は、おなじみの「静中求動」だ。
 レット・オフしながら静中求動を心がける。しかし「静」を、体を堅く硬直させることと誤解しないように。一瞬一瞬、外形を変えないよう注意することがコツだ。
 リラックスして粒子状にほどけているのに、外形が変わらない。このちょっとしたコツをマスターすれば、レット・オフは自ずから内向し始める。さらに熟達すれば、呼吸を使ってレット・オフを速くしたり遅くしたりすることも、意のままに行なえるようになる。

 そして最後のポイントは、「形(空間性)」だ。
 手からレット・オフが全身へと拡がる・・・・一体「何」が、「どこ」を伝わっていくのか?
 単なるオフが伝わるのと、レット・オフが伝わるのとは、まったく異なる現象だ。オフが伝播していく際には、それが通り過ぎた後には脱力状態のみが残されていく。これに対してレット・オフでは、オンとオフが融け合って<たまふり>が起こり、それが連鎖的に全身に拡がっていく。
 レット・オフとは、元来オンもオフも共に超越した状態なのだが、それを引き起こすために我々に可能な努力のオメガポイントが、ヒーリング・アーツの初歩的段階ではオフの位相中に設定されている。即ち、オフ(することをやめる)という行為ならざる行為を通じて、オンもオフも越えた地平へと至ろうとする。ゆえに私は、レット・オフという呼称を便宜的に採用している。

 形の話に戻るが、上述のようなレット・オフのたまふり状態は、手からどこを通って全身へと拡がり伝わっていくのだろう? 
「前腕を伝わるはずだ」などと、頭で考えているだけではダメだ。実際に触れ合うことで探り当て、確認していくのがヒーリング・アーツの流儀だ。
 敬意を払いつつ自分自身の身体と丁寧に触れ合い、手から手首、前腕、上腕、肩、胸、腹・・・・・と、少しずつ体内空間(皮膚で囲まれたスペース)を意識化し、つなげていくことだ。
 地道な努力を継続することが求められるが、やればやっただけ、いやしの報酬が直ちに与えられる。
 例えば、今日は前腕を意識化するワークを行ない、手から前腕の裡へと、たまふりが賑やかに弾けながら拡がっていくのを実感できた。・・それだけで、全身の存在感がまったく変わってしまう。部分に変化が起これば、必ず全体のバランスに影響が及ぶ。部分がより開放され、より楽になり、より活性化し、より流れるようになれば、全身にもそうした肯定的変化が響いてくる。その場で直ちに感じられる変化・・身体が軽やかに自由に動くようになるとか、心が伸びやかに広がるなど・・もあるし、疲れにくくなって気力が充実してきた等、日々の生活の中でふと気づくような変化もたくさん起こる。
 こうした心身の変容を実際に引き起こす練修(ヒーリング・アーツのすべての修法がこれに含まれる)を行なった後は、稽古を収めるにあたってヒーリング・タッチで丹田と腰を活性化させ、全体のバランスをしっかり取ることが大切だ。
 常に「バランス」を念頭に置いて進んでいくことだ。左手だけを開放し右手は捨てて顧みない、そんな練修の仕方では、単にアンバランスを助長するのみだ。
 
 
<第4の質問>
 ヒーリング・ディスコースを実践して、ヒーリング・タッチが出来ていないと何ごとも始まらないし、変わらないと思いました。
 凝集し、レット・オフする時、押さえ付けるように行なうのと皮膚に触れるかふれないかの程度で行なうのとではいやされ方が違いました。
 皮膚に触れるかふれないかの程度で労宮を意識して凝集し、レット・オフすると身体の力が抜け、内側に流れを感じ、温かくなります。
 皮膚を押さえ付けるように行なった時や労宮への意識が薄くなっているときに、レット・オフすると、流れが弱くなっている感じがし、温かさも半減します。
 自分の戸惑いや思考で流れが途切れてしまうことにも驚きました。
 いやしの波紋は、なぜおこるのですか。身体の内側でなにが起こっているのでしょう。
 思考で流れが途切れてしまうのはなぜでしょう。<M.Y. 女性・埼玉県>

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 ちょっと考えると、強く押さえる方がよく「効く」ように思える。
 各種のマッサージを本業とする何人かの人々に直接聴いたところによると、強くグイグイやるのを有り難がる人間が世の中にはまだまだ多いらしい。ところが、そういう風に強い刺激を受け続けると、次第に物足りなくなってきて、さらに強い刺激を欲しがるようになる。そしてついには、ある種の依存状態に陥るそうだ。

 私自身の身体を使ってちょっと実験してみよう。手をギュッと固くするような力を用い、自分の肩を指先でグイグイ揉んでみる。最初は気持ちいいような気もする。・・だが何か変だ。気持ちよさに重苦しさが交じっている。やっている間はよくても、やめた途端に物足りなさ・不満足感が舞い戻ってくる。もっとやりたくなる、否、しないではいられない。そして、長く(数分)続けた後は全身がグッタリする。爽快感(ヒーリング感覚)とはほど遠い。・・・・一体、何が起こっているのだろう?
 まず、「指で押し込む」という行為について検討してみよう。そうやって「強く押すこと」そのものに対して、何らかの気持ちよさを感じる人がいるだろうか? 私は何も感じない。真実を見極めるために、ゆっくり、柔らかく、粒子状に精査してみる。
 ・・・迷妄の霧はたちまち晴れた。指で強く押し込むのは、神経を圧迫し、感じなくさせていただけだ。なるほど、そんなことを繰り返せば、どんどん鈍くなっていくのも当然だ。凝りとは、身体が発するある種のメッセージだ。不調を知らせる信号だ。凝りを強く押し込むのは、そのメッセージを身体の奥深くへと押し戻そうとすることにほかならない。

 実は、揉むことによって起こる気持ちよさとは、押すことではなく、押すのをやめることによって起こっている。これまでそれが感じられなかったのは、する(押す)ことばかりに意識がいって、やめることを極めてぞんざいに、速く行ない過ぎていたからだ。
 今度はオフの位相に注目し、押すという行為を柔らかくゆっくりレット・オフしていってみる。・・・・・・・・接触面から極微粒子が弾けるような活性感が沸き起こり、全身に充ち拡がっていく。柔らかだがしっかりした頼もしい活力に心身が満たされる。
 静中求動の要訣を使えば、このヒーリング作用はどんどん「奥深く」へと浸透していく。裡における「奥」や「深さ」の感覚は、「細やかさ」の感覚と相通じている。質問者が記している通り、より柔らかで細やかに触れ合った方が、身体のさらに奥深くへと作用が浸透していく。

「揉」は手偏に柔らかいと書く。私は療術に関してはまったくの素人だが、手で柔らかくする、あるいは柔らかい手で働きかけるのでなければ、揉むとはいえないのではないか?
 人の背中を硬い力を使って強めに押し込みつつ、同時に自分の背中も観察してみると面白い。相手の肩を押すと、自分の肩もギュッとこわばる。相手の腰を押すと、今度は自分の腰のあたりにこわばりが生じるのが如実に感じられる。人を硬くする行為は、必ずや自分自身に跳ね返ってくる。お互いが柔らかくほどけるいやしの響き合いとは対極の現象が起こるわけだ。

「いやしの波紋は、なぜおこるのですか」

 波紋が起こるためには、正反対の2つの要素が不可欠だ。
 レット・オフとは、オンとオフとの間を橋渡しすることだ。オンとオフの間に張り渡された弦をつま弾くことだ。
 レット・オフとは、能動性と受動性をクロスオーバーすることだ。男性原理と女性原理が出会い、霊的なセックスが起こる。それによって<たまふり>状態が喚起される。古人はこれを「産霊(むすび)」と呼んだ。

「思考で流れが途切れてしまうのはなぜでしょう」

 思考によって流れが途切れたのではない。もう1度、心を研ぎ澄ませてよく観察してみるといい。
 思考が一所にとどまることによって、流れが止まるのだ。立ち止まって1つの考えをつかまえ、それを批判したり、賛同したり、または議論を始める。あるいは、何かを考えまいと、それを閉ざし、押し込め、忘れようとする。そういった葛藤状態が、「雑念」と一般に呼ばれるものだ。
 思考とは元来、流れるものだ。流れる思考を「正思」という。一所に留まらない無住の心は、流れる身体とダイレクトに対応している。この流心/流身状態を、武術方面で活用して威名を轟かせた流派もかつては存在した。

 体内流動感覚と連動させつつ、踏みとどまることなく思考を流れ続けさせてみる。・・・と、ちょっと言葉では言い表わしがたいことが起こる。
「脳の言語と身体の言語が融合する」
「全身に言葉ならざる言葉が満ち溢れ、身体がバラバラの粒子にほどける」
「どこにも滞らない融通無碍の、生理的・心理的な実感」
「いかなる煩悶苦悩も煩悩の感覚も感じられない自由闊達の境地」
 ・・・今、実際にやってみて、かろうじてこの程度の言葉をひっつかんできた。
 瞑想者に古来より与えられてきた要訣の1つに、「思考を止めようとせず、ただ流れるがままに任せよ」という教えがある。その流れにひたすら委ね続けていけば、無思考は自然に起こり、瞑想へと誘(いざな)われていく・・・と。
 重要な要訣だ。しかし、「思考を止めまい」とか「流そう」と思えば、すでに停滞が始まっている。思考する自分がいて、思考を目の前にある川に投げ込む・・・、そういうやり方ではまったく効かない。そうではなくて、思考を含め自分という存在丸ごとで流れの中に飛び込んでいくのだ。流れそのものとなる。
 これも一種のコツだ。思考がどこにも滞ることなく、滑らかに流れる状態を探し、徐々にその裡でくつろぐアート(すべ)を育んでいくことだ。

 私のこれまでの経験によれば、ヒーリング・タッチで柔らかく触れ合ってもごくわずかしかほどけず、ほとんど振るえず、流れないような人々は、体か心の重い病を煩っているか、高齢で心も体も堅くなり動きの幅が極端に小さくなっているか、あるいは重大な問題に直面して解決の目処(めど)が立たないなど、皆一様に「流れない人生」を送っていた。人生の停滞に陥っていた。変化を恐れ、安定を求め、目の前の問題から目を逸らせ続け、無意識的になることを選び続けた結果が、硬直であり淀みだ。
 わずかずつでも心身が流れるようになれば、必ず人生も流れ始める。諸行無常・・・変化こそが、この世界の本質だ。その流れにあらがい、背き、闘おうとするから、抵抗が生じ、葛藤が起こり、疲れ果て、病に倒れ、そして絶望する。
 よくほどけ、振るえ、バランスよく流れているか否かを常にチェックし、チューニングすることは、よき人生を送るための必須要素の1つだ。私はよりよく生き続けるために、日々、たまふりを欠かさない。
 

<第5の質問>
 通常の思考で煮詰まったようになった頭骨を解放し粒子感覚で満たされた際の開放感、清々しさには筆舌に尽しがたいものがあるのですが、日常生活における思考活動とは本来頭骨を凝集させざるを得ないものなのでしょうか? それともこれもまた仮想の脳が生み出すかりそめの思考にすぎないのでしょうか? <K.M. 男性・愛知県>

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 私の観察によれば、あれこれ頭の中で考え込むと、頭骨に微細な、しかし確固たる偏向が生じ、頭を歪めるような力が発生する。想いの内容によって、それぞれ「形(偏向パターン)」が異なる。それらがいくつもいくつも多層的にぶつかり合い、絡まり合って、「煮詰まったような頭」を形成する。
 いきなり無思考になろうとしても、うまくいかない。その無になろうとすること自体が新たな「作為」となって、より巧妙なやり方で心と体を縛っていく。「思はじと思ふはものを思ふかな(考えまいと思っているのは、すでに考えているということだ)」、というやつだ。心が鎮まるどころか、池の底の泥をかき回したみたいに、妄念執念諦念観念怨念邪念・・・がモクモク湧き上がってくる。

「常に流れ続けよ」・・それがヒーリング・メディテーションの教えだ。
 流れず停滞した思考こそ病だ。
 スタックした(煮詰まって焦げついた)思考を自分の意志で動かすことは難しい。しかし、より焦げつかせることなら簡単にできるはずだ。より押さえ込み、抱え込み、抵抗する。あなた方がいつもやっていることだから、苦労せずとも容易に行なえるだろう。
 それを、しなさい。ほんのわずかでいい。しかし今回は、注意深く、意識的に、ごくわずかに、ゆっくりと、自分がそれをどうやってしているかを感じ取りながら、するのだ。
 その、自分で意識的に加えた抑圧は、自分の意識でほどくことができる。それが「オフにする」ということだ。ここでも静中求動が大切なポイントとなる。
 少しずつ思考が流れ始めたら、今度は思考における動中の静を意識していきなさい。そこから「瞑想」が拓かれる。

「日常生活における思考活動とは本来頭骨を凝集させざるを得ないものなのでしょうか?」

 日常生活における思考活動とはいえないかもしれないが、こうしてディスコースを綴りながら、私自身の頭骨に何が起こっているかを観察してみる。
 ・・・・・面白い。何も考えずにスラスラ書いている時には、頭骨に様々な波紋が起こっている。まるで頭骨そのものが微細にユラユラ踊っているみたいだ。 
 ところが、言葉遣いを検証したり、論理的整合性をチェックしようとすると、とたんに頭骨の波紋が凍りついたようになる。少しくこの状態が長引くと、頭が軽く締めつけられるような感覚が起こってくる。
 その重苦しさを、もう少しだけ意識的に締めつけて強調し、手放す。
 すると、オンとオフが出会い、結ばれ、無数の微細な泡が心身の奥深くから沸き起こってくるが如き感覚が発生する。
 静かで、同時に圧倒的だ。精妙なエクスタシーを伴いつつ、静謐さの裡へと沈潜していく。・・・これが鎮魂だ。

 頭骨を開放すると、頭と対応して知らず知らずのうちにこわばっていた体が開放される。一瞬にして変化が起こり、びっくりするくらい体が柔らかく感じられるようになるので、頭骨を固めることが体にとっても相当の重荷となるらしいことが推察される。
 固まった頭を少し開放しただけで、視野が急に拡がったような生理的実感が得られる。山道を登り切って一気に眺望が開けた時の、あの意識がどこまでも拡大して世界に満ちていくような壮快な開放感だ。

 ヒーリング・アーツ修養者は時に、反面教師としてのアンチ・ヒーリング状態をわざと造り出し、その中から学びを汲み上げていく。例えば、自分の頭をふわりと両手で包み込み、この文章を声に出して読んでいく。そこから両手を同時に粒子的に凝集させるとどんなことが起こるか? 両手の凝集をシンクロさせて行なうことがコツだ。
 ・・・・・・・とたんに、スラスラ読めなくなる。読み進むために力を入れなければならなくなる。ゴツゴツする。意味もよくわからなくなってくる。
 ・・・・・これではたまらないので、両手をシンクロさせつつレット・オフ。・・・視野がサーッと拡がる。そこで初めて、頭が締まっていた間は、視界に入ってくる文字数が少なくなっていたのだと気づく。注意深く、繊細な感性をもって実験を繰り返せば、「頭が硬くなると視野が狭くなる」と私が言うのが、単なる比喩ではないことがわかるだろう。

「仮想の脳が産み出すかりそめの思考にすぎないのでしょうか?」

 質問者は自らの脳の仮想について実際に探求したことが、これまで1度でもあるだろうか? まずは、自らの頭骨と丁寧にヒーリング・タッチで触れ合うことから始めることだ。額、頭頂、後頭部、側頭部、いずれもその場所でそのものを感じることは非常に難しい。何度も繰り返し練修しなければ無理だろう。
 頭だけでなく、「顔」も探すといい。次のような修法も、自分の顔と出会うために役立つ。
 仰向けに寝転んで両目を閉じ、顔の上20〜30センチ程度のところに両手をかざす。掌が顔の方を向くようにする。その状態で、自分自身の顔がどこにあるかを「感じる」。充分顔を感じたら、目を閉じたまま、その内的感覚で感じる顔にふわりと着地させるつもりで、ゆっくり両手を下ろしていく。
 顔に当たるまで無意識的・自動的に手を下ろす、というやり方では意味がない。このあたりと見当をつけた顔の位置でピタリと止まるように、掌をゆっくり移動させるのだ。
 実際にやってみると多くの者が驚き、笑い出す。ここぞと思った場所に来ても、掌には何も触れない。さらに手を下げてもまだ何もない。もっと下へ、さらに下へ・・・・大抵の場合、実際の顔は驚くほど下にある。
 その主観と客観の落差こそ、ペルソナ(人格)だ。面(つら)の皮の厚みだ。ペルソナとは仮面を意味するギリシア語に由来する言葉だが、本当の自分の顔(本音)を覆い隠す世間向けの顔(建前)こそ、ペルソナの実体であり、これもまた仮想身体の1つなのだ。

 頭も顔もすべて仮想になっている。だから、その中にある脳が仮想になっていたとしても驚くには当たらない。
 だがしかし、脳が仮想であるとしたら、脳に宿るとされているエゴ(自我)とは一体何なのか? 「自分」という感覚もまた、仮想なのか? ・・・そういう重大な疑問が沸き起こってはこないだろうか?
 この問いを、今度は質問者に投げ返す。

<2007.12.27 糜角解(びかくげす)>

宮島にて。野生の鹿にヒーリング・タッチ。