Healing Discourse

ヒーリング・アーツの世界 第3回 神明掌

 命をかけた戦いにこれから臨むとしたら、あなたは今、その準備として一体何をするだろう? 
 体を鍛えたり、新しい術[わざ]を覚えたり、戦略を練ったり、・・・そういうことをするには、もう時遅しだ。時間はあまり残されていない。
 生き延びるため、あなたがすることとは何か? それとも、何もせず、ただボーッとして、「その時」を受動的に待ち続けるか?

 私なら、全身を亀の子タワシでくまなく磨き、ヒーリング・タッチであまさず触れ合って体の形の裡に入る。最後に、滑らかな絹で全身を磨き仕上げる。
 このようにすることで自ずと体現される微細粒子的な心身統合状態が、中国や我が国で「神[しん]」と呼ばれてきたものだ。失神とか神経の神であり、入神のわざ(優れた達人わざ、普通では考えられないような超人的技量)といった使い方もする。
 この神[しん]もまた、ヒーリングだ。私が使うヒーリングという言葉が、気分転換や病症軽減といった限定的方面のみを指すものと勘違いしている人から、いまだに素っ頓狂なメールが届いたりする。そういう人は、神[しん]=ヒーリングという等式の意味を、体感的にじっくり考えてみていただきたい。とんでもない勘違いを、これまでどうやらしていたらしいぞ、とドキドキし始めた人は、「わかって」きている。

 ヒーリング・タッチとは、掌と身体各部のそれぞれの自己存在感を、触感のエッジ面で重ね合わせること。すると、尋常ならざることが起こる。全身レベルで、骨格の組み替えが始まる。
 これが「わかり」、「できて」いる人は、超一流のレベルと断じて、まず間違いなかろう。名人、達人ともなれば、触れ合うことで神[しん]を励起させる術[わざ]に、必ずや長けているものだ。そういう人は、他者の身体と触れ合い、相手の身体内にいやしの波紋を生じさせることも自在にできる。
 このヒーリング・タッチを日本語にするなら、「神明掌[しんめいしょう]」といったところか。明は、太陽的なるもの(日)と月的なるものの統一を表わし、神明は「ゴッド」ではなく、宇宙万有の超越的本源を指す。

 神明掌には、心と体を合致させる力がある。
 たいていの人の心身は、かなりブレていて、心と体が不協和音を奏でている。心を不透明で狭量と感じているのは、実は体であり、体を重苦しく窮屈と感じているのは、実は心だ。あなたの、「その」状態は、心と体のズレが生む葛藤にほかならない。
 自分の腿[もも]の皮膚を、直接掌で柔らかく等圧でこすり、ゆっくり(適速で)往復させつつ、その「こすっている感覚」を注意深く感じていっていただきたい。
 それは確かに、ありはする。しかし、いかなるものとして、いかなる場所にあるか、それを徹底的に探求したことがある方が、読者の中に果たして幾人おありだろうか?

 ヒーリング・アーツに共感してくださっている読者諸氏なら、実際に体を動かして裡なる感覚を研ぎ澄ませつつ、少しずつ読み進んでいけば、文章を通じて私と超時空的に響き合い、「学び」を体験することができる。
 私の文は「(広義の)触覚」に基盤を置いている。ゆえに、その内容を本当に理会したいと思うのなら、読者も触覚を使いながら読まねばならない。
 そういうやり方をすると、しょっちゅう中断があるし、普通の文章を読む何倍も何十倍も、時間がかかるだろう。それでいいのだ。
 ここでいう「読む」とは、全心身丸ごとで、メッセージを理会しようとすることだ。普通の読み方では、遺憾ながら私のお伝えしたいことの万分の一も伝わらない。皮膚を通じてしか伝達し得ない作用、感覚、意識がある。
 前にも書いたが、私は舞いながら、執筆している。だから、読者の皆さんにも、ぜひ舞いながら読んでいただきたい。時間と空間を越え、共にいやしの舞を舞おう。 

 静かな場所で目を閉じ、触覚に注意を注ぐといい。これからご紹介するような、ちょっと高度で繊細かつ立体的な感覚の動員を求められる修法では、初心者は必ず片手だけで行なう。2つでは、注意が分散してしまう。逆に言えば、2つ分の注意を1つに集中させることで、普段は感じられないものが感じられるようになる。触覚以外のあらゆる感覚を断つつもりで、触覚を際立たせる。
 そうやってよくよく注意していくと、どうやら「感覚のまとまり(グループ)」は、2つあるらしいとわかるだろう。手の感触と、腿の感触だ。
 ところで、この「感触」とはそもそも何を意味するか? よくよく、考えてみていただきたい。「触れることと触れられること」という表現で、以前、別の講授[ディスコース]の折り、神明掌(ヒーリング・タッチ)の要領をお伝えしたことがあるが、今回はそれとは別のアプローチ法で、<奇跡の手>への扉を開いていく。

 手の感触は、腿と触れ合うことによって生じる。だから、腿にも同時・同地点に感触が発生している。手と腿は、互いに触れ合うことで、触感を生み出し続けている。
 言葉を換えるなら、手の触感と腿の触感がクロスオーバーされたものが、「こすれ合っている」感触ということだ。
 ここまでは、納得いただけると思う。

 問題はそこから先だ。じっくり焦らず、悠揚迫らざる態度にて観察を続ける・・・と、理論と違い、実際には手の感触と腿の感触が、輪郭や境界線などはまったく曖昧ながら、かなりブレている(距離がある)ことに、お気づきだろう。
 それがヒーリング・アーツでいう仮想身体だ。心と体がブレている。
 換言すれば、脳の中でピントが合っていない。2種類の異系統の情報が、うまくシンクロされていない。

 脳内の神経的ピントを合わせるためには・・・・、手で腿を適速でこすりつつ、手の触感と腿の触感を互いに歩み寄らせ、重ねる。そして、互いが互いを映し合うようにする。
 これを御鏡[みかがみ]のわざという。ヒーリング・バランス。
 すると、触れ合っている面の位置がまず感じられ、次にそれぞれの内部(体内空間)がリアルに感じられ始める。
 脳内でピントが合う時の感覚は、いつも斬新でクリエイティヴだ。
「感触」には実はフォルム(形)があったのだと、初めて気づきもするだろう。皮膚自身にとっては水面と感じられるような面が(人体の約70%が水であることを考えれば、皮膚とは確かに水面だ)、複雑な3Dカーヴを柔らかに描いている。これがすなわち、「体表面」だ。

 上述の程度でも、スポーツのような比較的安全な「戦い」の準備であれば、充分以上だろう。しかし、命をかけた戦いとなると、もっと精細な感覚を使い心身を高度に調律・統合したい。
 そこで今度は、同じく腿をこすりながら(掌芯を掌の中心として使い、接触面全体が常に柔らかく等圧となるように)、掌の裡で感じる「波」と、腿の皮膚の裡で感じる「波」とを、それぞれ個別に感じ、慣れたら両者をクロスオーバーする。これは、ちょっと難しいから、いきなりはできないだろう。段階を追って少しずつ進んでいくしかない。
 掌(掌芯中心)で体を軽くこするだけで、正反対の波同士が複層的にぶつかり合い、体内に複雑な立体波紋が拡がっていく。こするという行為を、「皮膚同士の摩擦が引き起こす体内波紋」と認知し直せば、そっと触れ合ってこする、そんなシンプルな営みから、直ちにいやしの舞を励起させ、本格的な禊・祓い効果を、好きなだけたっぷり楽しむことができる。

 誰かと戦うわけでは決してないが、ヒーリング・アーツ伝授のあらゆる場に先立ち、私は上述のようにして、神明掌で自らの心身を禊祓う。
 戦うわけではないが、命がけではある。超越界の叡知を人々に伝え、分かち合っている真っ最中に死ぬ。それこそ自分にとって最高の死に方と感じるゆえに、1つ1つの<教えの場>に、私は全生命をかけ臨んでいる。
 命がかかった場へと赴くにあたって役立つことなら、普段の生活の中で使えば、絶大な効果・威力を発揮できるはずだ。
 事実、私は日常生活でも神明掌を随時活用し、その素晴らしい偉功により、輝くようなヒーリング人生を楽しんでいる。
 
 このように、我々の手には、奇跡的と呼んでも決しておかしくない力が秘められている。その力を目覚めさせるためには、まず手を手そのもので感じること。そのためには、掌芯(または労宮。こちらはかなり狭い範囲になる)を手の中心として使うこと。その他2〜3のシンプルな要訣があるが、これらについては他のディスコースで幾度も既述してきたから省略する。
 
 こうしたことが、ほとんどわからない、感じられない、理会できない、という人が、結構いる。最近のヒーリング・アーツ伝授会初参加者の、大半がそうだ。
 例えば、かしわ手を打った後、掌のしびれを粒子的に感じはするが、それが手の厚みの中ほど、あるいは掌の裏くらいまでしか拡がっていかない、と訴える人が、驚くほど多い。
 そういう人に対しては、かしわ手を打つことでどういう作用が発生しているのか、まず体で感じてもらう。
 私の片手甲側に受け手の掌を密着させ、私がもう一方の手を叩き合わせる。10人くらいで手を重ねていても、一番外側の者まで衝撃波がハッキリ伝わるものだ。手を打ってパン!と鋭く円い音を出せる者なら、誰でも同じことができる。
 自分の片手の甲を足裏に充てれば、今すぐ実験して確かめられる。もう一方の掌で撃つと(手は常に柔らかく)、手と足の「内部」を通過する波紋が感じられるだろう。
 それほどの衝撃波が発生していた(甲まで突き抜けるのは当然だった)とわかれば、<理会>まで、あとほんの半歩だ。
 そうやって「準備」が整った1人1人と向かい合い、私が各自の手をはさんでかしわ手を打ったり、あるいは直接触れ合うことなく(甲側から手をかざし)、相手の掌の粒子感覚を手の中を通じて甲まで引き拡げたり(ちょっと不思議に聞こえるが、手の粒子感覚を満遍なく充分目覚めさせた者なら、誰にでもできることだ)、いろいろ働きかけていけば、まず大抵の人は、手の裏と表を別けて感じることが、直ちにできるようになる。
 これが、「手の裡」への第一歩だ。手の裡(内)は、武術各派で非常に重視される教えだが、その大切さは武術に限らず、私たちのあらゆる営みに通じている。

 手の表と裏の感覚を個別に、同時に、均等に意識する。それにより、両者の間(あいだ、ま)の空間に、存在感(心)がパッと灯るように顕われる。それが、「あなたの手」だ。手の裡だ。
 自らの手の形(空間性)を充分に感じていなければ、私たちは、手を正確に(歪ませることなく)合わせて祈ることさえできない。
 私は、これまで何度も、そのように力説強調してきたのだが、残念ながら真剣に耳を傾け、実践しようとする人は、いまだごく僅かなようだ。「祈ること」に真剣な関心を抱く人は、まだまだ少ないらしい。

 手の中心を外した合掌では、私はまったく祈ることができない。想いが周囲に散逸してしまって、腰と腹のど真ん中に向かって全身から<念>を超強力に集約することができなくなる。
 手の中心を合わせて祈り・求めることは、実は、<想い(念)>を現実化させるための秘伝の1つなのだ。

<2010.04.21 葭始生(あしはじめてしょうず)>