なにも「観る」ばかりが、ヒーリング・フォトグラフじゃない。それを生きる(感じ・動く)ための修法群が、あれこれいっぱいある。
が、観えないことにはどうしようもない・何も始まらないのがヒーリング・フォトグラフであることも、また事実だ。
まだまだ観の目について語り続けねばならぬらしい。
神明の流れにすべてを委ね(レット・オフ)、裡よりあふれこぼれる言葉を粛々[しゅくしゅく]と綴[つづ]っていこう。
比較的最近ヒーリング・アーツを習い始めたばかりの東前公幸君に、最初はまったくわからなかったという観の目がその後どのようにして開かれていったか、リポートしてもらった。ちょっとやってみて、わからない・できないと諦めることなく、何度も何度も繰り返し、徹底的に向き合うことで(何かの技術を習得しようと思ったら、そんな風に熱心に稽古するのは当然のことだ)、わからなかったものがわかるようになっただけでなく、それをさらに突破して神秘体験と呼んでいいほどの高度な境地を垣間みるに至ったことは素晴らしい。このアーティクル・シリーズの第1回で述べたように、そうした実践体験は、生きることそのものに対する深い信頼と自信を生む。
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観の目体験記 東前公幸(京都府)
私の現在までの観の目に対する経験について、もちろん広大なる可能性の一端のみの体験であろうことを直感しながらも、微力ながらも初学の方々の御参考になれば幸いであるという思いから、現在では失礼、無礼と思われる表現を使うことを御許し願いつつ、記述させていただきたく思います。
初めて、帰神フォトに接する機会をいただいたのは、昨年末頃、広島でのヒーリング・アーツ指導会の折であったと思います。道場の壁に何かの軌跡が写ったようなお写真や美佳先生が様々な衣装を身にまとわれてお写りになっているお写真等がかかっており、一体これは何だろう???・・・???と見ても考えてもピンとこず、ただ眺めておりました。
後ほど高木先生より「これは龍神が口を開いたところで、ここにひげのようなものがあって云々・・・」「ここに兎の顔があって云々・・・」と御説明を受け何度見直しても、なんとかそれっぽい形が写っているなとわかる程度で、だからといってこれは一体何のためのものなのだろう? 新しい芸術活動かしら? くらいにしか思いませんでした。また兎はこうだ、龍はこんなだという先入観が災いして、観ることを邪魔しているように感じました。
次の指導会に参加した際、パソコン上のスライドショーを高木先生の御指導の元、拝見する機会をいただきました。
メドゥーサ修法を執り行ないつつ、何枚も拝見しました。後ろで観ておられる先輩の方々から「オーッ」という歓声がいっせいにあがる中、スライドショーの速い速度についていくのが精いっぱいの私は、またしても???の状態です。
しかし、先生の御導きに従い、レット・オフがうまくいくと、時々、お写真がクリアーに立体的に観えるときがありました。
また先輩の1人が持参されたエロース神像の帰神フォト(プリントしたもの)を観の目で観ようとしていた時、一瞬ですが、その姿が浮かび上がり、観つめられているように感じて、背筋にたまふりが起こるのを感じることがありました。
その日の帰りにタクシーに乗っている際、外の景色を眺めておりますと、ごく普通の道路がとても立体的に感じられて、複雑な空間性が迫ってくるようでした。普段の知覚との違いに少し違和感と眩暈[めまい]を覚え、目を閉じてあまり景色を見ないようにしました。
私塾への入門をお許しいただいてより、帰神フォトを拝見する機会が増え、少しずつ観え方が変わって、植物のお写真等は美しさを感じだしましたが、依然として先輩方の記述される感・動の表現にはピンとこない状態でした。
ブレイクスルーともいうべき体験が起こった時期のことは今でもよく覚えております。ヒーリング・ネットワークのホームページに「ヒーリング・フォトグラフ」の連載が開始され、ギャラリーと観の目を扱ったアーティクルが連載され始めました。
アーティクルを熟読し、御紹介いただいている修法を執[と]り行なっていきました。
まずは「金秋」のスライドショーを何度も観照していきました。観の目をキープしながら動いてみる、光っている部分や色調の同じ部分の連なり、全体性を観の目でとらえる、といった要訣を意識しながら観照していますと、秋の宮島の景色の裡に、まさに超次元ロールシャッハ・テストという言葉がぴったりだと思えるほど、色々な形、目や顔、動物の精霊のようなものが複層的に観えてきました。
こうなると楽しくなってきて、何度も観たり、他のスライドショーで執り行なったりとしておりました。先輩方のコメントにも成程と思われてきて、さらにそこに書かれてあることを試すなど、無邪気にやっているうちに、ますます楽しくなってきました。
そのような時に、帰神フォトを観照するための基本作法と、「祈りをささげる」ことを御教えいただきました。そして、掲示板上でスフィンクス神像の帰神フォトを拝見する機会に恵まれました。
基本作法に則り、柏手を打ち、祈りをささげてから、ゆっくり時間をかけて、観の目で観照させていただいているうち、お写真内の神像が意志を持つかのごとく動きだしたかのように知覚されてきました。
目が痛くなり、涙が出てくるのを受け・容れつつ、目を瞼の形に沿って見開き続けるよう意識しながら、驚異の念で観照し続けていると、ついに動きは止まり、神像が黄金の光を放ちはじめ、さらには画面から黄金の光が漂い出てきました。しかもそれが、見たこともない文字なのか模様なのかわからないものとなって漂いだしたのです。
ここまでくると、さすがに畏怖の念を感じずにはいられませんでした。神と対峙しているという喜びと恐れの入り混じった強烈な感覚に、思考は停止し、しばし呆然としておりました。
そのことがあってより帰神フォトへの私の姿勢は全く変わりました。喜びと楽しみをもちながらも神聖なるものへの畏敬の念とともに、お写真を観照していくとメドゥーサ神、龍神とまるでお写真のなかから呼びかけに応えて顕れてくださるかのようでした。
生きた神と対峙して、観つめ返されるがごとき体験に時空は変容し、魔法の世界に参入したかのような感を覚えました。その時、ふと映画「ハリーポッター」の世界に現実に入ってしまったかのようだと思いました。帰神フォトはまさに現代の魔法なのではないかと思いました。
その後、観の目に関する様々な修法を御伝授いただくたびごとに、さらに多層的な世界が展開されてきて、観の目の素晴らしさにますます心惹かれてきております。
身体感覚も変わってきますし、疲れ目や、疲労感がメドゥーサ修法を執り行なうことで直ちに解体されることがあります。また、植木や道路脇の樹木等、毎日見ていたごくありふれた景色を観の目でみると、帰神フォトのような立体感、輝き、存在感などをもって観えてくることがあり、そのことだけでも心が浮き立ち、癒されるものがあります。
観るという行為に秘められた可能性を、比較的簡単な修法で開いていくことができる観の目を多くの方々に体験していただきたい、この能力を開かないのはもったいないと最近の私は感じております。
また帰神フォトは単なる写真とは全く異なり御神気の込められたものであり、観る者が、祈りの気持ちとそれを開く鍵(観の目)を持って観れば、その中に秘められた神聖な力と共振することができる魔法の神具であるという認識が芽生えてきました。
帰神フォトを観照しておりますと、最初観えていたものとは全く違う形や構造が観えてきたり、観えなくなったりと多層的構造があるように感じます。観の目と祈りに応じて一舞(枚)の御写真のなかにめくるめく神秘世界が少しずつ、あるいは突然に開かれてくる体験は何度体験しても新鮮な驚きがあります。そうなってくるとやはりプリントしていただいた帰神フォトを自宅に御迎えし、じっくりと観照できることの有難さが身に沁みてまいります。
帰神フォトの世界は今も生成発展を続けており、次にどんなマナに出会うことができるのか予想すらつかないものだと感じます。私の体験は個人的で限られたものであり、先輩方には私には想像もつかない驚異的でユニークな体験をされておられる方が何人もいらっしゃいます。
是非、世界と自らの裡に秘められた次元に驚異の目を見開かされる体験を、多くの方がなさってほしいと祈らずにはおれません。
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以上は、約1月前、BBS上で発表されたリポートだ。
その後当人が、「さらに観の目を開きたい」というから、去る7月16日、天行院(プライベート道場・スタジオ・神殿。パイプオルガンも併設)で開催されたヒーリング・セッションにて、霊眼のさらなる深奥を啓くマナを授けた。
観の目には、極まりというものがない。
かなり観えるようになったと思っていても、まだまだどんどん、いくらでも新しく、深く、さらに凄いものが観えるようになる。
だがしかし、あまりに急激に観え過ぎると、それは人の正気を焼いてしまいかねない。それほどの「観える」境地がいくらでもあるという畏怖すべき事実を、東前君は自らの体験を通じ学び取ったようだ。
BBSに寄せられた、最近の彼の投稿を、以下にそのまま転載しよう。
ヒーリング・セッションにおける、特に観の目に関する体験を、セレクトして報告してもらったものだ。
私的BBSにおけるプライベートなやり取りの一部を、私たちがこのように一般公開しているのは、人の霊的成長・成熟に関する重要な情報がそこに含まれており、一部の人間のみで独占すべきでないと強く感じるからだ。
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遅くなりましたが、先日の特別セッションにおける観の目の深まりについて御報告させていただきます。
セッションの際、天行院には「弁財天」「アフロディーテ」「金色(きん)のオーロラ」「神剣クリス 1」「海中帰神ヌード」の帰神フォトが祀られていました。何度かその前で観照することを執り行ないました。
最初のころは立体的に浮き上がって見える感じがあり、美しい絵画を眺めている感じがしました。
私は右目が円錐角膜という病気のため、極度の乱視でぼやけてしか見えないのですが、先生に右目を掌で覆うようにヒーリング・タッチしていただきますと左目より明るさがよく観えてきました。
また帰神フォトを観照する際に、未だに目を帰神フォトと平行と仮想して観ようとしていたものを、目尻が目頭より後ろにある斜めの眼球から正面の平面である帰神フォトへと視線を伸ばしていくようにしますと、さらに御写真の御姿が飛び出さんばかりの、あるいは自分が鏡の向こうの世界に溶け込んで飲み込まれてしまうかのような感覚が起こってきました。
神々は御写真の向こうで息づき生きておられるかのようでした。それは美しいとか凄いだけではなく真に戦慄を覚える体験であり、臍にヒーリング・タッチすることや、ティアマト修法(上あごと下あごに基づき、全身を再統合していく修養システム)を執り行なうことで、何とか圧倒されないことができた次第でした。
セッション中、同じ御写真を薄暗がりの照明の下で観たり、明るい光の下で観たりする機会がありました。
薄明かりの時と明るい光の時では、観えてくるものとその時の心の在り方が違っていました。前者が呪術的、神話的ともいうべきなのに対し、後者は科学的とでもいえるような感じがしました。
特に前者のような在り方は、現代においては忘れ去られているか抑圧されていると感じました。そのため、自分のなかにそのような感性があったことに驚き、人間のあるいは意識の全体性についての認識を再構築する必要を感じました。
観の目が深まった状態では、通常ではみえないものも観えてきました。
先生が渡辺さんの背中に筋骨矯正術を施術されるのを観照しておりますと、その背中が光の粒子でできており、先生の軽く触れ合われた親指は光の海に浮かんでいるように観え、背中が私の筋肉のイメージとは大きく異なり、繊細に波打ち、うねっていました。
ある時は時空が変容し、天行院がどこかアジアの国の王宮に観えてきました。参加者の白の道衣は独特の黄金色の衣装を纏われているかのように観えました。
先生の舞を観照させていただくと、すべての動きが隙なく決まっており、こちらにも爽快感が伝わってきて、格好良さに思わず感嘆の声がもれました。
セッション後半に改めて、パラオの海で撮られた「海中帰神ヌード」と観の目で向かいあう機会がありました。
先生の御指示に従い、観の目を保ったまま動いてみると海の広がりがかなり遠くまで観えるとともに、きらきらと輝きだしました。
そして全く宝石としか思えないような輝きと質感を伴って観え出した時には言葉を失い、その変容ぶりに頭が真っ白になりました。
観の目と帰神フォトがこれ程凄いものだとは私の想像を遥かに超えておりました。世界観まで一変してしまいそうですが、この貴重なる体験を自己の裡に統合していけるよう日々精進していきたく思っております。
御指導賜りありがとうございました。
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観の目開発のための修法を、最後にひとつ。
ネット道場・学院たるプライベートBBSにおける過去記録より抜粋。
いまだ一般には未発表のスライドショー作品名がいくつか出てくるが、それらも今後、追々公開していく予定だ。
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以下は、観の目を鍛える修法だ。
任意のスライドショーを選び、観の目で向かい合う。
その際、1つのフォトを観の目でしっかりとらえたら、一体化し(相手は自分だ、自分は相手だ)、やがて、それが自然に消えていくがままに任せる。
まるで自分自身が消えうせていくような感じがする。すわーっと粒子分解され、見えないほど細やかになる。レット・オフ・・・・。
するとそこに、ヌーッと新しい世界が突如として、空間から湧きあふれてくるがごとくに、消えていこうとしていたこちらにぶつかってくるように、立ち顕[あら]われてくる。
今度は、その新しいフォトに観の目を乗り換える。ただし、眼球を動かしたり目に力を入れたりなど、一切しない。
その世界もまた、まもなく滅びる。
それとまったく同時に、新しい世界が誕生してくる。
・・・・・おわかりか?
輪廻転生とは、こういうことだ。
次々と新たな生を生き継いでいく生命の連鎖。
輪廻転生の基調であるレット・オフを使えば・・・・・どうやら、輪廻の輪すらほどけるらしい。
ご伝授いただいた修法で、観照させていただきました。レット・オフの流れの中に、お写真が浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・、なるほどこれが輪廻転生か、と納得いたしました。細かい光の粒子が様々に結び、溶け合いながら形を変えていく様に、感動致しました。
増岡氏は、まだこの新しい修法の「半分」しかわかってない。喜ぶのはまだ早い。
「浮かんでは消え、浮かんでは消え」、ではなく、「浮かんでは消え、消えては浮かび」、でなければならない。
言葉遊びをしてるんじゃない。どうか、他の皆も注意深く聴くように。
この修法の要点は、「写真の移り変わりの際も、ずっと観の目を保ち続ける」ことにある。
まず、観の目を活性化させる予備修法を一手。
観の目でみながら、かしわ手を打つ。
すると、たちまち、目に衝撃波が響いて、みえ方が瞬間的に深まる。
もう1度、2度、打つ。
そのたびに、さらに陰影がはっきりし、立体的となり、クリアーになる。
「ヒーリング・ディスコース」等で、これまで手の感覚をかしわ手で活性化してきたことを、今度は目や視神経に応用するわけだ。
何度でも、好きなだけ打つといい。スライドショーの最中、適当に何度か執り行なうのも良い。今回だけでなく、今後も。
ただし、フォトの変わり目にかしわ手打つことは、最初のうちは、私の経験によれば、あまりよくないかもしれない。
かえって、精妙さを乱してしまう。
君たちも、私の言葉を鵜呑みにせず、自分自身で確かめるように。
慣れてくれば、いつかしわ手を打っても大丈夫だ。
さて、そうやって観の目をバージョンアップしたなら、1つのフォトが消えていく際にも、ずっと観の目状態をキープする練修に入る。
要領がつかめれば、それほど時間をかけず、できるようになるだろう。
観の目で向き合っていた世界が、虚空に粒子分解されるように消えていく。
それでも、ずっと観の目を保っている。消えていくものを、あれこれ探したりしない。
すると、古い世界の消滅が始めると同時に、新しい世界の最も薄い、いわば「ひな形」が、実は産み出されていたことが、やがて明らかとなってくる。
最初、はかなく薄かったそれが、古いフォトの消滅とシンクロして、その姿をズズズーッとあらわにしてくる。
その様を、観の目状態のまま、つまり完全に無垢なまま、こちらから相手を見ていくのでなく、相手がこちらの視界(視覚の世界)に出現してくるのを、ただあるがままに受け入れる。
何が出てきたのかと、あれこれ細部をうかがったりしない。
それは、受胎のようでもあり、また幼子[おさなご]が世界を少しずつ認識し始める時の感覚とも、とてもよく似ている。
つまり、フォト切り替えの際には、1つの世界(状態、マナ)の寂滅・死と同時に、まったく別な世界の発生・誕生が、同時に、相照的に、起こっているわけだ。
ここが、この修法の面白み、本当にすごいところだ。
輪廻転生のエッセンスを、今、直ちに、味わうことができる。それができるように、フェードイン、フェードアウトの時間・タイミングを調整してある。
輪廻転生を、生まれて生きて死ぬことの繰り返し・一方通行的なもの、などと、決して勝手に誤解・曲解してはいけない。それでは、絶対に輪廻の輪を超脱できない。
消える時、同時に生成が起こる。その、消えることと、現われることの両者を同時に意識できれば、超越へのジャンプが起こる。
これすなわち、「解脱」だ。輪廻からの解放だ。人生の苦しみをいろんな形で繰り返し続けることから、永久におさらばする術[わざ]。
この最後のところは、なかなか手ごわい。すぐできるようなことではない。
が、先延ばしにし続けてもいけない。
まずは、輪廻転生感覚とでもいうべきものを、たっぷり味わい(特別な浄化作用がどんどん起こる)、しっかり堪能し、どんどん元気に楽しくなっていけばいい。
これに諸君が熟達してきた頃合いを観計[みはか]らって、ジャンプへと至るための、次なる修法ステージを紹介しよう。
<樂[たのし]!!!!>
柏手を打ち、観の目を活性化させるマナを練修し、初めのうちはおぼろげだった観の目の深まりも、練修するごとにその差がハッキリと感じられてきました。柏手を打つと、お写真の鮮明さが際立ち、奥行きが深まることが明らかに感じられました。
その後、 スライドショーを観照しつつ、観の目を保つ練修をしていきましたが、お写真が消えていくのと同時に新たなお写真が顕れてくるその時間がいつもよりもすごく長く感じられ、時間も粒子的に感じられました。
お写真と同時に自分も溶け去るように消えていく・・・と思ったら、それと同じくして新たにお写真が生まれてきて、内側からパァーッと自分が全く新しく開かれていくかのような感覚になり、目もどんどん観開かれていくように思い、帰神フォトの神聖さが強烈に迫ってきて、驚きとともに感・動しました。
コメントをいただき、ありがとうございました。「浮かんでは消え、消えては浮かび」のくだりを読み、その言葉に深く瞑想させていただきました。
まさしく、それは「生成」と「消滅」とが同時均等に起こり、2つの世界が分かちがたく存在している、輪廻転生の本質そのものを言い表した言葉だと分かり、深く感じ入りました。
しかし、まだまだ頭で理解しているだけですので、さらに、練修を続けていきたいと思います。
ご教授いただいたマナを修しつつ、スライドショーを観照させていただきました。
1舞1舞の帰神ヒーリング・フォトと自分を、クロスオーバーさせつつ一体となり、聖なる世界へと身を投じていくと、未知なる新たな世界が、眼前に、身の裡に展開されてきました!
帰神フォトが消え入ろうとするのと同時に、自分の存在感も虚空へ消えていきそうになり、しかしまた同時に、新たな帰神フォトの出現により、さらなる流れが創られてくる・・・・。この消滅と生成の重なるときに、これまで体験したことのない、独特の感覚が生じました。死の波と生の波が、ぶつからずに溶け合いつつ、始まり(生)も終わり(死)もない感覚。しかしやはりそこには生と死がある・・・・・・なんと表現すればよいのか、言葉が見つかりません・・・。
この生死が重なるときに、観の目を保ち続けるのはまだまだ難しく、奥から顕われ出る帰神フォトを、一瞬「見の目」で見ようとしてしまいます。もっと深く修練し、新たな流れに乗っていきたいと思います。
それにしても、普段は考えることすらしない(考えても答えが出ないので)、とてつもなく深く、神秘的なテーマである「輪廻転生」のエッセンスを、この身をもって体験できるなど、夢想だにしないことです! 偉大なる修法の誕生に、畏怖の念を抱かざるを得ません・・・!!!
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霊眼の深みへと、私は今、超越的なジャンプを次々試みつつある。
つい最近のことだが、わが家の長老猫スピカにオーラ視のやり方を教えてもらった。人間の頭の上を猫がじっと観るのは、オーラを通じて相手の心を読んでいるのだと、私は猫とのつき合いは随分長いのだが、スピカとの沈黙のコミュニオンを通じ、その時初めて知った。
教わった方法で(猫のやり方を真似て)、人を観る。
視線を正しい方向に向け直す。猫みたいに。
と、突如として、かげろうのように、あるいは湯気が立つごとく、相手の頭上空間が活発に乱れているのが、・・・ハッキリわかるではないか!
ちらっと猫が上目遣いに相手の頭の「上」を見上げる、あの要領だ。下から上へちらっと、の流れに視線を乗せることがポイント。
流れとうまくチューニングが合うと、俄然、面白いものが観えてくる。自分の手を観たり、鏡に映った自分自身を観ることも、もちろんできる。
昨日、一昨日と、天行院にて執り行なわれた相承会(神事的伝授)にて、この猫直伝のオーラ視の修法も分かち合ったのだが、参列者全員がたちまち「観える」ようになり(歓びのあまり)皆で大笑いし合っていた。よっぽどうれしかったらしい。
私は、ちょっと練修(実践)してみたら、オーラの色まで観えるようになってきた。人によってまったく違っている。
精神や身体の状態、あるいは気分などを、オーラはどうやら反映するようだ。猫は、オーラを通じ相手の気分を読み取っている。
私がぐっと中心姿勢を極[き]めると、猫たちはびっくりしたように目を真ん丸にして、私の頭上を観ている。
私のオーラが、一気に燃え上がり、輝き始めるからだ。
<2011.08.01 土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)>