Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション1 第二十一回 呪術家の仕事

文:高木一行

花

帰神撮影:高木一行

◎裁判官というのは、超難関の司法試験に受かったエリート中のエリートであり、正義を守る高潔な人々である・・・そんな風に大多数の日本人が固く信じ込んで、疑おうとすらしない。
 確かに、(どうでもいい、くだらない、瑣末さまつな)法学の知識量は膨大なのだろう。が、それ以外については驚くべき・信じがたいほどの、莫迦ばかさ加減であり、ものごとを正しく判断する能力においても、一般市民より著しく「劣って」いるのである。あれらの人々がどれくらい無知で非常識なのか、私自身の訴訟ケースを持ち出すと客観性を欠くかもしれないので、実際に起きた他の冤罪事件から実例をご紹介しよう。注)

注:参考文献『冤罪判決実例大全』(日本国民救援会・裁判員制度検証プロジェクトチーム編)

◎1985年7月19日、埼玉県草加市の残土置き場で女子中学生の死体が発見された。仰向けになった遺体は、首にブラスリップが巻き付けられ(死因は窒息)、上半身は裸、スカートはめくり上げられ性器が露出していた。被害者の血液型はA型だが、衣服に付着していた髪の毛や精液、乳房についていた唾液は、すべてAB型を示していた。
 当時13~15歳の少年6名が、いい加減な聞き込み情報により犯人として逮捕され、自白に基づき有罪となった。いわゆる「草加少年事件」である。
 ところが、少年たちの中には血液型がAB型の者は一人もおらず、O型かB型だけなのだ。また、自白によれば、交代で膣内、肛門、口腔内にコンドームをつけずに挿入、射精したことになっているが、被害者のいずれの部位からも精液は検出されず、処女膜が残っており、肛門周辺部にも裂傷等はなく、自白に見合う強姦の事実はうかがえなかった。
 中高生でもこれはおかしいとわかるはずだが、裁判所の判断はいかなるものだったか?
 何と、「被害者(A型)の乳房をB型の犯人が舐めれば、そこについた唾液はAB型になる」のだから、少年たちが犯人で間違いない・・・のだそうだ!
 では、衣服についていたAB型の毛髪や精液はどうなるのか? ・・・「別の機会についたものであり、事件とは無関係。」
 強姦の自白内容と客観的証拠との矛盾は?・・・「少年たちは性的に未熟であったため、挿入箇所や射精の有無などを誤信した。」
 ・・・これらは、誇張や冗談などでは決してなく、裁判官自身の手になる公式の判決文に、上記のようなデタラメがハッキリ明言されているのである。そして、最高裁判所までがこの判決を全面的に支持した(再抗告棄却)。

◎こんな馬鹿馬鹿しい実例が、残念ながら「いっぱいある」。第二回でご紹介した冤罪被害者・桜井昌司さんの布川事件もそうだし、私自身の裁判でもまったく同様な珍無類の茶番劇が繰り広げられた。無罪を示す証拠を握りつぶすことすら、あの連中は平然とやってのける。
 上述の判決文を読む時、あなたは「莫迦さ」と共に、(何が何でも有罪にしてやろうという)強い「妄執もうしゅう」をも、感じ取ったはずだ。
 我が国では、こんな名ばかりのエセ裁判官どもが、多くの人々の人生を狂わせ続けている。客観的に観れば明らかに無罪であるにも関わらず、警察・検察・裁判所により無理やり死刑にされてしまった人たちだって少なくない。私も、でっち上げの(被害者すら存在しない)罪により刑務所へ送られた。
 こんな・・・国に住んでいて、誇りとか自信を、強く感じられるはずなど、あり得ないではないか。私が語っているのは、あなたの「幸福感(幸福度)」に関することだ。
 世界に誇れるような素晴らしい社会に暮らし、自分もその社会の一員として関わっていることに強い自信を感じている、そんな状況を想像してみただけで、高揚感、わくわく感と共に、自分自身の幸福度がスーッと高まるのがハッキリわかるだろう。
 社会に対して誇りや自信を感じることは、人の幸福感を増す。自信も誇りも、幸福しあわせの材料なのだ。

◎とても誇りなど感じられない国に暮らしながら、必然的に起こる幸福度の下降を、敢えて全面的に受け容れ、神経反転のわざ(内破法)にて上昇へと換える。そういうことをやっているのが、呪術家だ。
 その、個人内で起こる反転が、やがて集合的な無意識層にまで届き、社会レベルの反転を引き起こすことを祈り願いながら。

第二十回に登場したブラッドムーンの、幼少期のビデオが出てきた。
 以前これを観た友人の一人が、「すごい。ちゃんと人間の言葉がわかってる!」と感激していたが、その質朴しつぼくは愛すべきとしても、ただ楽しい笑いを旨として撮ったものに、これは、過ぎない(蛇には耳がない)。
 道理に外れた理不尽な裁判のさ中の、ある日の龍宮館の光景。

ムービー 『ブラッドムーン』 撮影:高木美佳

◎爬虫類飼育が一般に普及し始めたことにより、蛇や大型トカゲ用の食べ物として、あらゆる成長段階のマウスやラットが新鮮に冷凍されたものが、通信販売で手軽に入手できるようになった。
 湯煎で解凍し、人の体温程度に温めてから与えるのだが、その際ネズミの命に対して十全なる敬意を払いながらヒーリング・タッチでマナ(生命力)をこめる。マナとは形に宿る生命の実感であり、イメージとか思い込みのようなものではなく、普通の感性があれば誰でも実際に感じられるものだ。
 龍宮館の蛇たちが全身全霊でマウスを呑み込む様を観守りながら、毎度毎度感じるのは、「食べる」という行為の徹底したトータルさにおいて、我々人間は蛇に到底及ばない、と。手も足もないのに、自分の頭よりも大きなものを丸呑みしようとすることを、本気で想像してみていただきたい。
 上の動画を見て、「残酷」とか「かわいそう」などと見当外れも甚だしい感想をいだく慌て者は、読者諸氏の中にはよもやいらっしゃらないとは思うが、そういう安っぽい感傷にとらわれる器の小さな人間に限って、生きた牛や豚が世にも物悲しい悲鳴をあげながら屠殺場へとひきずってゆかれて無惨に殺され・切り分けられてゆく時に、どれだけおびただしい量の血が流れるものなのか、まったく無関心なのだろう。
 それと比べると、蛇の場合は徹底的なまでにクリーンだ。獲物の全身どこも余すところなく、丸ごと全部平らげてしまう。噛みちぎることも、咀嚼そしゃくすることさえ、しない。毛や羽以外、骨まで全部消化して吸収する。
 誤解なきよう述べておくが、動画のようにいつでもマウスを差し出せばほい待ってましたとばかりに蛇が食べてくれる、そんな単純なものでは蛇飼育というものは、まったくない。蛇の代謝サイクルは種類によって違うし、それぞれの個体の成育段階でも異なってくる。ほ乳類のように毎日定期的に食べるわけではなく、脱皮前の1~2週間は絶食する蛇も少なくないから、初心者は皆とまどい、心配で夜もおちおち眠れなくなったりする。「一筋縄ではいかない」とは、まさにこのことだ。
 蛇に限らずあらゆる爬虫類を飼育するためには、科学的なマインドと繊細な感性の両立が要求される。自分が飼っている蛇やトカゲ、カメなどが、自然の中ではどんな環境で暮らしているのか、外国語で書かれた専門書も含めてありとあらゆる情報を収集し、その条件を飼育下で再現するべくあれこれ工夫を凝らしたりしているうちに、自ずから「自然環境」そのものに対する鋭敏な意識が育まれてゆく。

◎ところで呪術家の本分は、人々の意識を変えることにある。意識が変わる、ということの中には価値観の変化も含まれる。
 本稿を読み始める前と、「今」とで、裁判所や日本という国家、あるいは日本人そのものに対する、価値観や考え方が変わった、あるいは揺らいだ、または変わりそうだ、そんな風に感じるとしたら、・・・呪術が確かに効いているということだ。
 これが、呪術家の仕事だ。

<2021.06.20 乃東枯(なつかれくさかるる)>