文・写真:高木一行
◎沖縄の西表島へ巡礼した帰路、那覇で少し時間が空いたので、昔なじみの魚屋に顔を出してみたら、「最近は滅多に見かけないサイズ」と店主も驚く巨大な活ノコギリガザミ(マングローヴ蟹)がちょうど入荷したところだった。
値段を尋ねると、そんなに安く売ってしまって大丈夫なの、と思わず口をついて出たほどの破格値だ。直ちに買い取り、広島へ持ち帰って、塩茹でにしていただくことにした。もちろん、西表島で作られた塩を使う。
調理に先立ち閃いた直感に従い加熱作業を行なってみたところ、蟹の中身を外へ一切茹でこぼすことなく(茹で汁は最後まで澄んだままだった)、最高の状態に茹で上げることができた。
◎粗熱を取ったら、解体に取りかかる。昔、博物館などで使う標本作製法や剥製術を研究したことがあるので、蟹の解剖学的構造は熟知している。両脚を拡げると3メートルを越すタカアシガニを剥製にしたこともある。
まず、前掛けを外して甲羅を慎重に空けた。王丹色の柔らかな盛り上がり。濃密にふるふると振るえるその蟹みそを匙ですくい、そっと柔らかに舌の上へ運ぶ。・・・波となって押し寄せる芳醇にして馥郁たる絶香と真味、ついに言葉にすることあたわず。
◎西表島巡礼では、むせ返るように蒸し暑いマングローヴ林のまっただ中へも、果敢に踏み込んでいった。時に泥沼の中へずぶずぶ沈み込んで身動き取れなくなってみたり、空気中で蛸足のように絡み合うヒルギの根っこに足をとられそうになったりしながら、マングローヴの神々を求め、長時間歩き回ってきた、その直後のことだから、あの世界がこの蟹の美味を生み出したのかと、感・動もひとしおだ。
◎甲羅の中身を隅々まできれいにしたら、今度は、悠然と爪に取りかかる。これはもう、市販の蟹用ハサミなどではまったく歯が立たぬから、掌に乗せ木づちで手際よく叩き割ってゆく。強く砕きすぎて蟹肉をつぶしたり、あるいは勢い余って殻の破片があたりに飛び散ったりしないよう要注意。
◎最も上質な蟹肉とホタテ貝柱が融合したような独特の味と舌触り。あらゆる蟹の中でノコギリガザミこそ最高、と激賞する人たちも少なくない。ノコギリガザミは東南アジアやスリランカ、パラオなどの南洋諸島、そしてオーストラリアまで広く分布しているが、これまで様々な国で賞味してみて、沖縄とフィリピン産が群を抜き美味だった。
時折マヨネーズをつけてみたり、口直しにセロリのスティックをかじったり、シソドレッシングをつけたりなど、食べ方にいろいろ変化をつけるとさらに楽しめる。
◎ところで今回の蟹だが、爪があまりにも見事で、なおかつ巡礼を無事やり遂げた龍宮土産のようにも感じられ、記念のペーパーウェイトにして手元に残すことにした。これは、蟹の生命に対し敬意を表わすためでもある。現在、防腐処理中。
◎これも龍宮土産なのか、もう手に入らないかもしれないと諦めかけていたイラブー(海蛇)の薫製を扱っている店をみつけ、今後はいつでも取り寄せることができるようになった。イラブーについては、『ヒーリング随感5』第1回もご参照あれ。
◎実は、昨年の鳩間島巡礼中、(冤罪による裁判闘争と刑務所収監により)長年放置し、耐用年数もとうに越えていた水中用カメラの作動が突然おかしくなった。80舞(枚)くらい撮ったところで勝手にシャットダウンし、それ以上撮影を続行することが不可能となってしまう。原因はあれかこれかと取説と首っ引きであれこれ試してみたけれども、ついに直らず、通常なら1日千舞(枚)くらいは撮るところを、その十分の一以下に抑えねばならぬという、いささか面白からざる苦境に陥ったのである。
が、デジタルカメラが急速に普及する以前の、銀塩カメラがまだ一般的だった時代には、1度海へ入ったら撮れるのは(今となっては信じがたいほどだが)最大36枚までだったのだ。
先人たちの困難や苦労を思えば何これしきのことッ! とアクシデントを気合で跳ね返していった、その成果が、『鳩間島巡礼:2020』に収めたすべての海中作品だ。
至誠は天に通ず、というが、全身全霊を込め誠心誠意取り組めば、写真作品という具体的な形で自然の神々からの応えが返ってくる。それが、ヒーリング・フォトグラフの面白さであり、凄いところだ。
◎今回の巡礼に先立ち撮影機材を一新したのだが、20代始めから約40年間ずっと愛用してきたNikonの一眼レフシリーズに潔く別れを告げ、オリンパスのミラーレス一眼を選択した。
フラッグシップモデル、OM-D E-M1 MarkⅢ。
触れ合った際のなじみ具合とか、重量感、安定感、操作性など・・・については、どうやら申し分なさそうだ。が、実際に巡礼の様々な現場で使ってみて、私が表現しようとする世界観にこのカメラがどこまで応えることができるのか、芸術的・呪術的な新境地を斬り拓くことができるのか、何もかもまったく未知数のまま、文字通りのぶっつけ本番で(何せ機材がすべて揃ったのが巡礼出発の直前だ)、西表島巡礼へ、同行者2名と共に、臨むことと相成ったのである。
何だかお気楽で能天気な話だが、18歳で初めての一人旅で訪れて以来、これまで何度足を運んだかわからぬ西表島に対しては、懐かしい故郷に帰るような安心感というか、任せてしまって大丈夫という信頼感のようなフィーリングを、これまでもずっと覚え続けてきた。
◎今回の巡礼では、海だけでなく山や河、そして海と河の境目に繁るマングローヴにも焦点を当て、世界を「感じ」、「共振し」、「通じ合い」、「(言葉なき言葉で)対話する」べく、全心身を研ぎ澄ませていった。
巡礼の旅の道中で私が実際に目にし、精神的・霊的に感じた世界を、新たに手にしたこのカメラは驚くほど精細に、生々しく、描き出すことができるのだと、巡礼から帰還後、直ちに撮像データをPC画面上で現像・編集してみて初めて、わかった(呵々大笑)。
とりわけ、空間性の細やかな表現が素晴らしい。従来は平面的な画となりがちだった海面の複雑なうねりや起伏のフォルムも、見事に立体的に映し出されている。
サンゴをすみかとする小さな青い魚たちの、それよりもっと小さな幼魚に至るまで、一頭一頭が虚無の真空に浮かんで、ふるへゆらゆらと生命の戦きをふるえているみたいだ。
水の透明感とか自然界の様々な色彩の表現も、何だか私好みで、まだ使い慣れぬ点も多々ありはするけれども、私の感性にぴたり寄り添ってくれるカメラと思いがけず巡り合えたのかもしれないと、ひそかな歓びを感じている。
◎帰神写真術の道に50歳で突如、開眼して以来、一度も西表島を訪れたことがなかった。
これまで散々お世話になり、人間形成の上でも与って大きな力となった<聖なる場所>に対し、お礼参りと奉賛の意を込め、巡礼する。そして、かの地の自然に宿る生命感や神秘感をヒーリング・フォトグラフによって描き出し、地球調和の祈りと共に、奉納作品として捧げる。この積年の願い・想いが、今、ようやく実現しようとしている。
願いといえば、改めて思い返せば、かつて西表島で願ったすべての想いが、これまでに叶えられすでに現実化したのではなかったか。
現在の私は、自分のために祈ることはもちろん、人類(だけ)のために何かを祈り願うことすらしない(できない)。
が、私が唯一祈る地球調和の祈りならば、・・・おそらく・・・全世界の人々の多くと、共感・共有できるのではあるまいか。
<2021.07.07 小暑(しょうしょ)>