Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第三十九回 和らぎの息

◎あちこちで龍宮道伝授の場を設けるたびに、これまで一面識もなかったような初心者たちも参加し、新旧の人々が入り交じって皆楽しげに龍宮道に取り組んでいる。それは大いに結構なのだが、調子に乗って龍宮道の高度なわざや最新の修法、秘伝などをどしどし教えていると、あっと驚かされるような質問が時折、初学者諸君の口からあっけらかんと発せられることがある。
 いわく、「レット・オフがわかりません」「粒子感覚というものが感じられません」「観の目とは何ですか?」「地球調和と龍宮道と、どんな関係があるのでしょうか?」「ヒーリング・タッチができません!」

◎・・・・・そうか、そうなんだね。なるほど。
 龍宮道(ヒーリング・アーツ)の基本的なところについては、ごくシンプルで当たり前の(自然な)ことなんだから、誰もが独学・独習でわかり・できるようになっていただきたい・・・、と、これまでウェブサイトですべてを公開し・詳細に解説してきた・・・のだが、どうやら一方通行のところが多々あったようだ。
 これまで心血を注いでやってきたことが(すべて、とは言わぬが、かなりの部分が)無意味であったとしたら、その無意味なことに基づきこれ以上あれこれ対外活動などを展開してもやはり無意味なのだから、いったん立ち止まって現状を把握し、諸々についてよく検証し、必要とあらば軌道修正し、さもなければ無駄・無意義なことなどきれいさっぱりやめてしまうべきである。
 そんなわけで、今はヒーリング・ネットワークの活動を制限中だ。初学者のグループを対象として、例えばオフ感覚や観の目などの基本的なところが、チーム・コミュニケーション・ツールやリモートラーニング、地区の自主練修会などを通じどれだけ伝え得るものなのか、流心会のメンバーが実験・検証しているところである。
 Trust(信頼し)、Let go(あるがままに任せ)、Be open(心身を開く)。それがわからないままで(あるいは、わかろうとせず)、ただ表面的な技術のみ追い求めても、結果は空しいものとならざるを得ないだろう。
 
◎という次第にて、私自身は本連載の執筆以外、ほとんどやることがないので、最近はイノシシ鍋の研究に没頭している。
 肉の産地や味噌仕立ての配合など、あちこち食べ歩いたり、通販でいろいろ取り寄せてみたり、あれやこれやと試した結果、以前公開した龍宮館レシピ(『ヒーリング随感4』第28回)が一番美味かったという、「青い鳥現象(最も素晴らしいものは身近にある)」を再確認する結果となった。

酢ガキ

瀬戸内の冬の味覚といえば、言わずと知れた牡蠣である。写真は酢ガキ(クリックすると拡大。以下同様)。

冬のご飯の供、3種

冬のご飯の供、3種。黄色いのが「生からすみ(ボラの卵の塩漬け。干してないもの):長崎」、赤っぽい粒々は「カジカの卵の醤油漬け:北海道」、そして「瀬戸内名物、このわた(ナマコの内臓の塩漬け)」。

キャビア

魚卵の王、キャビア。

酢ガキ

とらふぐの白子(塩焼き)。

酢ガキ

マレーシア領ボルネオ島のサバ州を訪れた際によく飲むサバ・ティーが手に入った。これと合わせるべきは、先般シンガポールでゲットしてきたマレーシア製の粉末クリームである(日本製のクリームとは根本的に味が違う)。紅茶の供は、イギリス名物ジャファケーキ。

酢ガキ

冬になるとフランス・ダマンフレール社のラプサンスーチョン(正山小種)がとりわけ美味しく感じられるのだが、そんなにお好きなら、というわけでもなかろうが、いろんな人から贈られたラプサンスーチョンが一度に大量に届いた(総量1.5kg)。これらを飲み尽くすまで、ゆっくり休みなさい、との天意であろうか。

◎自分自身の行動を客観的に観察してみると、「これができるようになりたい」「あれがほしい」「それがしたい」といった個人的願望をほとんどすべて実現してしまい、これ以上特に望むもの・望むことがなくなってしまうと、人間はヒマにならざるを得ない、ということなんだろう、とそう思う。
小人しょうじん閑居かんきょして不善をなす」。儒家の教典『大学』にある言葉で、徳のない小人物が暇をもてあますと悪事に走りがちでろくなことがない、という意味だが、なるほど確かにそうかもしれんとしばしば感じる今日この頃である。

◎とはいえ、閑居していても不善をなしているわけでは決してない、その証拠に、心身調和のわざは今も留まるところを知らず進化/深化の真っ最中だ。
 最近、研究しているのはヒーリング・ストレッチの一法で、簡便な方法を通じ、深遠とすらいえるエクスタティックで美しい体験に浸ることができる。
 ところが、ストレッチ法としての手法メソッドはもちろん、原理までが、巷間にある一般的なストレッチ法とは異なっているから、少々厄介である。
 普通のストレッチが凝って硬くなっている箇所を外側から引き延ばし・緩めようとするのに対し、ヒーリング・ストレッチは呼吸と身体感覚をシンクロさせ、そこに細やかなヴァイブレーションを発生させることで、内側の一番奥深いところから緩みを起こす。根本原理が違うので、その効果も自ずから異なるものとなり、「緩む」とか「伸びる」といった言葉ではその実体を到底言い表わせない。
 どんな形式でも構わないから、どこかを適当に引き伸ばす体勢をとる。その状態にて、息を使って微細振動を起こし、息を吐き切ったら寝ころんでリラックス。この間、わずか数十秒。
 すると、働きかけたところの深奥から、ゆっくり・柔らかく・「ほどけ」てくるのがハッキリわかる。それは決して声高に自己主張するようなものではないのだが・・・ひたすら「気持ちいい」のである。気持ちよさの中に全心身が穏やかに溶けてゆく、この状態は、<やわらぎ>と表現するのが最も適切であろう。
 名づけて、「和息法わそくほう」。

◎聖徳太子の手になるという十七条憲法の冒頭にいわく、「やわらぎをもってとうとしとなし、さかふる(逆らったり争ったりする)ことなきをむね(中心、根本)とせよ」、と。
 面白いことに、ヒーリング・タッチなどの基礎修法を体得して心身の感性がある程度開かれてきた人が、和息法を修している最中の術者と触れ合うと、「和らぎ」が直ちに共振してきて、共にやわらかな宇宙的エクスタシーの中へ溶けてゆく体験ができる。
 グループで共に和息法を修するのも楽しい。各自の「和らぎ」が共鳴し合い、人と人の間、人と世界の間にある垣根のようなものが取り払われ、大いなる一体感や純粋な絆の感覚を味わうことができる。

◎和息法は、観の目などの一見関係なさそうな修法とクロスオーバーすることも可能だ。
 ちょっと上級の応用わざになるが、暗いところで、ろうそくや小さな電球を視点にして観の目を起こし、その状態で和息法を修する・・と、目や視神経がダイレクトに振るえ・和らぐからか、あたかも光の奔流が目から体内へどっと流れ込んできたかのごとく、突然視界が(あるいは頭の中が)ピカッと明るく光って驚くことがある。

<2022.12.02 橘始黄(たちばなはじめてきばむ)>