◎日本の刑事司法は中世レベル、と国連の拷問禁止委員会(2013年)で述べたのはモーリシャスの元最高裁判事、サティヤボーシュム・グプト・ドマー氏だ。
「弁護人が取調べに立ち会えない。そのような制度だと真実でないことが真実となり、公的記録に残るのではないか。弁護人の立会が(取調べに)干渉する、という言い訳には説得力がない。司法制度の透明性の問題だ。ここで誤った自白等が行なわれるのではないか。有罪判決と無罪判決の比率が10対1になっている。自白に頼りすぎではないか。これは中世のものだ。中世の名残りだ。こういった制度から離れていくべきである。日本の刑事手続を国際水準に合わせる必要がある」、と。
・・・おっしゃる通り、というしかない。ただし、ドマー氏の言葉にあった「有罪判決と無罪判決の比率が10対1」という箇所は間違いで、実際には1000対1が正しい。10対1でも国際的基準からすれば異常だというのに、1000対1(有罪率99.9%)となったらこれはもう滅茶苦茶である。
上記のドマー氏の発言に対し、その場にいた当時の日本の人権人道担当大使U氏は、「日本は、この分野では最も先進的な国の一つだ」と開き直ったそうだ。
モーリシャス人のドマー氏と、U氏(外務省)と、どちらの言い分が正しいかといえば、実体験に基づき前者であると断じることに、私はまったくためらいを覚えない。
何か、病的で異様な変質が、日本という国家そのものに生じている。
上記の「先進国発言」は会場内の押し殺した笑い声で迎えられたというから、わが国の病態はもはや諸外国にまであまねく知れ渡るほどとなっているのだろう。
激高したU氏が、「何を笑う! 黙れ!」と(国際会議での禁句を)叫んで会場内を白けさせたことは、「病膏肓に入る」と呼ばれる末期状態を示すものにほかならない(U氏はこの数ヶ月後に退任)。
ちなみに、膏肓というのは肩胛骨内側にあるツボで、いかなる病気であれ症状が重くなってくる前に、まずこのポイントが凝縮して閉じっぱなしとなる。逆に、ちょっと体調がすぐれない時などに膏肓に適度な刺激を与えれば、サーッと新鮮な活力が全身に漲ってくる。
2014年、日本弁護士連合会の招きで来日したドマー氏は、講演の中で「日本の唯一の欠点が、代用監獄・自白偏重・長期拘留など刑事司法の問題だ」と述べている。
氏によれば、ヨーロッパでは4日の勾留でも長すぎると言われているそうで、被疑者を警察留置場に長期間(基本は23日)拘禁し、取調べを行なう日本独特の制度(代用監獄)は、「拷問行為」にほかならないとのことだ。無実の罪で拘留され、非人道的な扱いをたっぷり味わった私自身の体験を振り返ってみて、「確かにその通り」と言わざるを得ない。
ドマー氏いわく、「日本が専制国家でなく民主主義国家であるなら、拷問行為はやめ、近代的取り調べ方法を編み出し、それを世界に売り込んでほしい」、と。
「変えようと思えばすぐ出来る」、という彼の言葉には真理の響きがある。
モーリシャスといえばインド洋に浮かぶ美しい島国で、アフリカ連邦に属する国家の1つだ。16世紀初頭、ヨーロッパ人としてはポルトガル人が初めて到達した際には無人島だったが、その頃は奇妙な格好をした飛べない鳥・ドードー(Raphus cucullatus)がうようよいて簡単につかまえられたというのだから、何だかおとぎ話の世界みたいだ(ドードーは発見から100年も経たず絶滅)。
◎上記のドマー氏来日に際し、日本の警察庁は警察署や留置場などを見学してもらい、日本の司法制度が世界の先端レベルであることを説明したそうだ。直後に担当者が、「これでドマー氏の誤解も解けたことだろう」と公に述べたというが、根本的なところでどうも重大な誤解があるらしい。
我が国の留置施設は昔の牢獄みたいなじめじめした暗いところではなく、(見方によると思うが)クリーンで近代的な設備であるッ! 警察の取り調べにおける被疑者の扱いも(人目があるところでは)人道的で、決して暴力を加えたりなぞしないッ! 被疑者が死んだり病気になったりしないよう(最低限の)配慮がなされているッ! これのどこが中世かッ! よその先進国でも、うちよりもっとひどいところはいくらでもあるのだぞッ!・・・と、日本側が言いたいのはたぶんそういうことなんだろうが、ドマー氏が問題提起したのは身体への拷問ではなく精神的拷問についてではなかったか?
先の予定も、これからどうなるかすら、一切知らされることなく、家族とも会えず(接見禁止)、すでに充分長い23日の拘留期限が何度も延長されてゆくなかで(罪を認めなかったり、権利のはずの黙秘を貫いたため、半年とか1年以上も拘禁を延期されるケースは珍しくない)、親切を装う警察官が「本当のことや、言いたいことは、裁判所で言えばいい」「ここでとりあえず認めておかないと、後で刑罰がうんと重くなる」「共犯者はやったと認めているぞ(嘘)」「目撃者がいるんだぞ(嘘)」などと言葉巧みに心理誘導すれば・・・ついにはやってもいないことをやったと、多くの者が自白してしまうに至るのだ。リフレクション1第二回でご紹介した布川事件の冤罪被害者・桜井昌司さんによれば、「人殺しなど絶対にやってないはずなのに、もしかしたらやったのかもしれない」と考え始めるような、異常な心理状態へと追い込まれるそうだ。
「そういうこと」を「拷問」と、ドマー氏は国連で批判したわけだが、日本の司法関係者は、この誰でもわかりそうなことがどうやらわからず、まったく見当外れの解釈(誤解)に終始してしまっているようだ。「病態」と、それを呼ぶことは、果たして見当外れだろうか?
◎自分自身が刑事裁判の被告ともなれば、それまでまるで関心がなかった司法について少しは勉強しようという気も、必然的に起こってこようというものだ(呵々大笑)。
周知の通り、三権分立の大原則を監視し、歪みを正し、均衡を図るための唯一の権限を憲法によって与えられているのが、裁判所であり、裁判官だ。日本国憲法は言う。あらゆる裁判官は、憲法と自らの良心にのみ従うべし、と。
ところが、裁判官らを客観的に評価すれば、「憲法なんてしょせん形式的なものに過ぎず、単なる理想論であり、理想と現実は違うのだ、現実はもっと複雑で憲法が言うように単純にゆくはずがない」と、憲法よりも自らの方をさらに高しと考えていることが明らかだ。
傲岸にして、不遜である。良心なんて、裁判官になることと引き換えに悪魔に捧げたのじゃあるまいか、と本気で思えてくるほどだ。
あれらの裁判官たちは、低劣な感情と、凝り固まった先入観と、偏見と、行政と、そして「自らの利益」にのみ、従っている。
日本の裁判所(裁判官)は、なぜこんな風におかしくなってしまったのか? 冤罪被害者の支援・救済を始めとする人権擁護活動に長年従事してきた本藤修氏(日本国民救援会副会長)から聴いた話だが、「原発や薬害などの行政訴訟(国を相手取って行なわれる裁判)で、政府に不利な判決(=市民が良いと感じる判決)を出した裁判官は、1人の例外もなく必ず左遷され、裁判官としての出世の道が断たれている」のだそうだ。裁判官の配属、昇進、昇給などを決める最高裁判所事務総局による、裁判官に対するあからさまな恫喝・支配である。その必然的結果として、上(事務総局→行政)の意向に従い、言いなりとなるような腰抜け裁判官だけが残る。各種市民活動やサークルなどへの裁判官の参加も禁止されているそうで、一つの地域に長く居住し続けると市民との交流が自然に生じるとの理由から、数年ごとの転勤が強要されるという。市民生活から隔離され、市民の感覚や一般常識すら理解できない(人の心がわからない)裁判官が、このようにして出来上がってゆく。
◎振り返ってみると、モルディヴ巡礼から戻って以来今日まで、1年の約3分の1にあたる期間を、龍宮道の指導などを一切行なわず、内向的・内省的に過ごしてきた。
オックスフォード英語辞典が選んだ「今年の言葉」は「ゴブリン・モード」だそうで、一体何のこっちゃと思って調べてみたら、悪びれもせず堂々と怠けるだらしない者たちを指し、社会の期待に背を向ける自堕落な態度・姿勢を意味する、とのこと。
ここ最近の私の生活態度そのものではないか、と、真夜中に起き出してきてパフェグラスに大盛りにしたキャビアをシェルスプーンでぺろりぺろりと舐めながら、我思うゆえに我在り、否、我在りゆえに我在り、なのである。
◎私は世界であり、世界は私・・・なのだが、いったん悟入すればこれほど当然にして普通のことはないというほど自明なものが、わからない者には徹底してわけがわからぬものらしい。まあ、私自身も昔はそうだった。
「自己(セルフ)」そのものに<たまふり(微細粒子的振動)>を起こし、外的宇宙(世界のすべて)と内的自己との間でトータルに共振させれば、自己を越えた大いなる自己、いわばトランセルフ(超越的自己)が自ずから顕われる。
このことについては、<ヒーリング・メディテーション>として、別の機会に改めて説きたいと思っている。
<2022.12.17 鱖魚群(さけのうおむらがる)>