◎これまでいろんな死に顔を、心眼を拓いて観てきた。
十全に生き切った人の死に顔は、誰が見ても満足げで、そっと柔らかに微笑んでいるかのようだ。これは、猫や犬でもまったく同じことが言える。
「十全に」とは、必ずしも寿命の長さのことではない。過去の結果ではなく、現在ただ今の、生き方、否、<在り方>の如何について、私は語っている。
◎過去にも、未来にも、一切とらわれることなく、現在のあるがままをひたとみすえ、臆することなく、真っ正面から挑みかかってゆく気概!
全面的に、盛大に、あなたは生命を燃やし尽くしているだろうか? 今、この、瞬間、・・瞬間、に。
それは、とても清々しい。そして、素晴らしい充実感が伴う。
◎いにしえゴータマ仏陀が説いた真理が、やがて人々の心に届かなくなり、ついには御仏の教えが失われてしまう真理喪失の暗黒時代が訪れるという。仏教ではそれを「末法」と言うが、ヒンドゥー神話にも同様の概念があって、真理が見失われる暗き時代のことをカリ・ユガと呼んでいる。
「宗教」は、本来は神聖であったはずの言葉だ。が、今の日本で「それ宗教?」と人から言われることは、不信感、あざけり、嘲笑、排斥、・・・などをあからさまに意味するようになっている。どの言葉も全部、ネガティヴなイメージばかりだ。
これこそまさに、真理不在の時代、「末法」と呼んで差し支えない状況なのではあるまいか?
私たちが今、暗い時代を生きていることは、あなた方の誰しもが身にしみて実感しているところだろう。これは、経済的停滞とか超高齢社会とか少子化とか、そんなレベルの話じゃない。まさに、魂の暗夜だ。
暗闇を怖れ闇雲に追い払おうとする人類の、見当違いの暴走が直接の引き金となって、地球それ自体が今や新しい地質年代へと突入した。それは、地質的スケールの大変動を意味し、地球規模の「末法」(世界の終わり)を、私たちは現在、目の当たりにしつつあるところなのかもしれない。
私がここで述べていること(地球規模の大変動)は、決して個人的憶測などではなく、今や、科学的な「事実」だ。
◎失われし仏陀の真理とは、そもそもいかなるものだったのだろう?
仏という外来の言葉・文字・宗教概念が、日本古来の倭訓では「ほどけ」に相当すると解釈され、いつしか仏(ホトケ)となった・・・らしいのだが、理屈はさておき、我が国では今も死者のことを仏と言い、死者が満たされると成仏する(仏に成る)とされていることは興味深い。
「死ぬ」とは「ほどける(こわばっていたものが緩む)」こと、と確かに言えるだろう。それを現代的な表現へ言い換えると・・・「オフ」が最も適当ではあるまいか。ゴータマ・ブッダが悟った究極の真理が、ニルヴァーナ(涅槃)と呼ばれ、それはサンスクリット語で「(ロウソクの火を)吹き消す」という意味であることも思い起こされる。吹き消すとは・・・まさに「オフ」だ。現代的に表現すると、灯のスイッチを切る(オフにする)、といったところか。
すなわち、「仏(究極の真理を体験した者)」=「(生きながら)ほどけた者、極限までほどけ切った者」=「全面的なオフの体現者」。
オフとは・・・死であり、なくなることであり、やめることであり、実に対する虚であり、身体で言うと力を抜くこと・・・だ。
◎身体においては、とたんに物事がとてもシンプルになる。身体は、高度な宗教哲学論などにまったく興味を示さない。身体にとり、「根源的に」「最も重要な」要素が何かといえば、それは「オン」と「オフ」にほかならない。
ちなみに、呼吸という最根本の生命維持システムを司る延髄には、息を吐く(吐かせる)「オフ」の機能だけがあって、息を吸う(吸わせる)「オン」の機能はないそうだ。
呼吸(息すること)という、それが止まれば数分で生命そのものが危殆に瀕する根本的生命活動において、オンではなくオフがすべてをコントロールしているという事実は、誰もが銘記すべき事柄と信ずる。銘記するとは、心に刻み込んで決して忘れないことだ。
◎死の後ではなく、現在ただ今、<死>の本質そのものを直接味わい、体験することの方が、・・・死後の世界や輪廻、転生等について憶測を逞しうするよりもずっと大切であり、意義あることであり、とりわけ人生の終わりの時に近づきつつあることを自覚する高齢期の人々にとっては、何をおいてもまず取り組むベき、喫緊(差し迫っていること)の課題とは言えまいか?
40年以上、<オフ>(リラクゼーション、柔らかさ、しなやかさ、受容性)を真剣に探求し、修業を積み、人生の様々な苦難へとそれ(オフ)を応用してきて、今真摯に誠実に述べるけれども、<オフ>とは恩寵(神仏の恵み、賜り物)なのだ。前述したように、それはとても気持ちいい。無限の宇宙に無限に溶けてゆくような聖快。
安らかだ。
魂のいやしだ。
生きている間に味わうオフがこれほど素晴らしいものであるなら、そのオフが極まる瞬間(肉体的な死)には、どれだけ絶大な法悦が伴うことだろう。
◎末法とは仏(ほどけ)なき時代だ。
ほどけとは、オフだ。
単なるオフでなく、オフが極まってその裡に対極のオンの種子が胚胎する(原因を含み持つ)・・・東洋的弁証法としての太極思想にも相通じる、オンとオフを共に越えてゆき、両者の統合をはかる道。
それがヒーリング・ネットワークの<道>だ。
なお、誤解なきよう述べておくが、私はオフのみを重視してオンを軽んじているわけではないので、この点には特にご注意いただきたい。
オンとオフのバランスを取ることが大切だ。
◎この秋は洋梨三昧である。多種多様な洋梨がこの世にはあって、それぞれ最高の美味しさを引き出すためには追熟に少々技術が必要ということが、まずわかった。
これまで洋梨といえば、ラ・フランス、ル・レクチェ、ドワイエンヌ・デュ・コミスくらいしか知らなかったので、例えばマルゲリット・マリーラという品種はいかなる洋梨か説明しようとすれば、「味はラ・フランスと比べて云々」とか「口当たりや舌触りはコミスの方が・・」などと、どうしても既知のものを基準にして引き比べようとしてしまう。AはAでありBはBである、と同語反復を繰り返しているに等しく、要するに私は洋梨の初心者、素人ということだ。
洋梨だけでなく、日本の梨もたくさん種類があって、どれがどんな味なのか、互いにどんな類縁関係にあるのかなど、まったく把握できてない。まあ、知らないことがいっぱいあるというのは、これから知って驚いたり感心したりすることがたくさんあることを示すわけで、今後の人生が非常に楽しみである。
◎刑務所名物・きなこ飯。
冤罪で4年余を過ごした刑務所では、朝食に時々これが、薄いみそ汁(具は大根の古い葉など)や少量の漬け物(キュウリの古漬2〜3切れ)と一緒に出た。家畜の餌用の古米に押し麦を加えた饐えた匂いのするご飯に、香りがほとんどない見るからに安物の甘ったるいきな粉を振りかけて食べる。
最初ひどく驚き、食べながら思わず吐きそうになってしまった(呵々大笑)。ところが面白いもので、甘いものを口にする機会が滅多にない刑務所では、こんなものですら間もなく美味しく感じられるようになるのだ。今、呑気にこういうことを書いているが、実は人間らしさを踏みにじる重大な人権侵害にほかならなかったのだと思う。
◎大分から城下カレイの刺し身が届いた。
大分県速見郡の日出町で漁獲されるマコガレイは、棲息域の海底から真水が数ヶ所湧き出ており、海水性と淡水性のプランクトンを食べて育つためか、泥臭さがまったくなく淡泊で上品。すべての魚の中で、城下カレイの刺し身が一番好きかもしれない。
細ネギを巻き、肝をポン酢に溶いた肝ポン酢につけて味わう。
◎本連載第二十二回で、ずっと前に制作・販売していたフィッシュ・レプリカをご紹介したが、別の作品の写真が出てきた。種類はミナミハコフグ(3D、西表島産)、一緒に写っているのはマナ。
魚から直接型取りするというが、それではハコフグのような形をしたものを3Dで樹脂成形するためには、どんな風に型を取ればよいのか、ちょっと考えてみると面白いかもしれない。
<2023.10.24 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)>