Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション3 第二十二回 祝・芸術家誕生

◎少し前、本連載にて、尊敬する人の好きな食べ物について聴くと無性に食べてみたくなる、と記した。
 実際にやってみると、「なるほど」と感心することが多いのだが、時にはひどくがっかりさせられるような例外もある。
 私の文章にしばしば登場する肥田春充(肥田式強健術創始者)は、大著『聖中心道肥田式強健術』で、次のように述べている(古めかしい表現は現代語に改めた)。

「(壊れたといの)修理を終わって、家に帰ると、長男の修一郎が、学校から帰って来ている。そこで二人で楊梅やまももの木に登った。スルスルとたちまちてっぺんの細い枝まで行った。マルで猿のようだ。体を枝の中から出してみると、緑の葉と葉の間には、黒い実、紅い実が、一杯鈴なりに、食らいついて枝垂しだれている。大供子供二人は、その中の熟した黒いのを、両手でつまみとって、頬張った。味においては正に果実の王、美味しい汁は、口いっぱいになって、喉から流れ込む。大豆粒よりも、大きな種は、其のままドンドン呑み込んでしまう。二人で二升以上食べた。子供が一升なんか食べられるかと、都人は怪しまれるかもしれないが、事実そのくらいは何でもないし、また一々種を出しておったのでは、せっかくの旨味が、半減されてしまうのだ。ソンなに種を飲み込んで、胃腸に障りはせぬか? 大丈夫、そんな心配は、絶対にない。
 楊梅には、適当の塩酸が含まれておって、強力な消化作用が行なわれる。楊梅を食べると、直ぐお腹が空く。一番消化作用の強いのは、山芋で、次が楊梅、その次が大根おろしである。」

 上記の著作によれば、楊梅やまももは伊豆半島以外では見られない無類の珍果だが、いかんせん、樹から取って直ちに口に運ばなければその風味を失し、2時間も経過すれば、もはやその特有の風味を味わうことができないという。よっていかなる都会の食通といえども、それを味わうためにはこの地に来なければならない・・云々。
 ・・・こんな風に絶賛されると、その無類の珍果、果物の王を自分も是非味わってみたいと思うのが人情というものだろう。
 関東在住の頃、時折果物屋で楊梅を見かけるたびに買い求めて試食してみた。リンゴンベリー(こけもも)のような控えめな甘さとちょっととがった感じの鋭い酸味があるが、特に美味いとも思えない。何度食べても納得がいかず、肥田春充の本には「取って直ぐ食べなければならない」とあるから、伊豆八幡野の肥田邸を訪れ、春充の記述に登場する楊梅の大木にのぼって直接食べることまでした(楊梅の実が生るのは梅雨時の1週間くらい)。春充の指示通り、種も全部、目を白黒させながら飲み込んだ。
 だが、やはり全然美味しいと感じない。自分の味覚がおかしいのかと思って、いろんな人に食べさせ感想を聴きもした。それでも・・・首をかしげざるを得ないのである。肥田家の人たちも、「あまり美味しいものではない」と、何だか恥ずかしそうに話していた。
 今回、責任をもってこの文章を書くため、わざわざ徳島から楊梅をいっぱい取り寄せ、2日断食しておいてから改めて味を確かめてみた。
 そのようにしてもなお、「ちょっと変わっていて珍しいかもしれないが、美味しいとはとても言えない」というのが結論である。
 ちなみに、楊梅(Myrica rubra)は伊豆半島に限らず、各地の暖地で普通に見られる果樹であり、都会でも栽培可能らしい。

楊梅

クリックすると拡大(以下同様)。

◎ガツポン。豚の胃(ガツ)を茹でて冷やし、薄くスライスしたものに白髪ネギをたっぷり載せ、ポン酢をかけ、最後に一味唐辛子を振る。
 あっさりしているが独特の風味があって、いくらでも食べられる。酒のつまみにも喜ばれそうだが、残念ながら私は酒を一切飲まず、龍宮館を訪れる人もなぜか同じように酒をたしなまぬ人が多い。

ガツポン

 酒の話題が出たついでに述べておく。タイ料理で多用するパクチー(香菜シャンツァイ)を体質的にまったく受けつけない人がいるのと同様、酒を飲まない(飲めない)人間は体内のアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)が生まれつき不活性で、酒を飲んでも何の面白いこともなく、ただ気分が悪くなるだけなのである。
 食前酒を少し飲めば食べ物の味が細やかにわかって食事が楽しくなるとか、酒を飲むと陶然としたいい気分になる、などの酒の効用を聴き、かつて私もあれこれチャレンジしたことがある。が、何か良い効果を感じたことが一度もない。そして、(ブランデーやラム酒、ワインなどの香りは素晴らしいと思うけれども)酒の味そのものに美味を感じたことが、これまた一度もない。要は、身体が奥深いレベルで拒絶しているのだと思う。

◎韓国産の小さなアワビをたくさん買ってきて、アワビ飯を炊いてみた。初めて作ったので出汁をやや濃くし過ぎてしまったが、アワビの身がふんわり柔らかく炊き上がって、まろやかで深みのある味わいがとろけるように口の中に広がる。おかしな表現かもしれないが、海の香りと共に、マツタケご飯のようなかぐわしい風味も感じた。

アワビ飯

 ところで、誤解している方がいらっしゃるかもしれないが、私は料理を趣味としているわけではなく、ただ、どうせ食べるのであれば美味しいものを美味しく食べたいと思っているだけである。そもそも料理というのは、誰か喜んで食べてくれる人がいるからこそ楽しいのであって、真理究明のため天涯孤独の身となることを自ら選んだ私にはまったく縁のない世界だ。

◎猫物語。

シータ&ラ・ムー

シータ&ラ・ムー。川崎市麻生区在住の頃。

ィッシュレプリカとシータ

昔、趣味で制作・販売していたフィッシュレプリカ(ニセゴイシウツボ・大)を枕に昼寝するシータ嬢。招き猫(ラッキーキャット)様にこのように1点1点、丁寧に<福>をつけていただいたおかげか、フィッシュレプリカ・シリーズは売れに売れて、たちまち制作が追いつかなくなった。フィッシュレプリカについては、HN1の『ヒーリング・ポッドキャスト』参照。

◎龍宮館横に立つプライベート道場の天行院だが、経年劣化で屋根と外壁を塗り直す必要が出てきた。有志がその資金集めに奔走してくれたが、私も協力するべく、以前本連載でご紹介した(『ヒーリング・リフレクション3』第十回)シャーマニック・アートのシグネチャー・シリーズを何点か放出したところ、直ちに完売し、塗装工事もすでに完了した。
 それで・・・ふと、思ったのである。
 私を冤罪に陥れた暗黒裁判(2013~2016)にて、裁判官らは被告である私をあざけるように、「無職(自称・芸術家)」と決めつけた。芸術家などと自称していても、芸術作品を売って利益を得ていないのだから、芸術家とは認められない、ということらしい。私を取り調べた警察官たちも同様のことを述べていた。
 ほう、なるほど。それでは、生前1枚の絵も売れなかったフィンセント・ファン・ゴッホは、裁判官たちの言によれば芸術家ではないことになるのだろう。売り絵は描かない、と頑なに自らの信念を貫いた岡本太郎にしても然り。
 まあ、そんなとんでもない非常識かつ馬鹿げた戯言たわごとを公の場で平然と口にするような教養のない連中を相手にする必要などないわけだが、作品が売れて収益を得たのだから、今や私も(裁判官の言う)芸術家の仲間入りを立派に果たしたわけである(呵々大笑)。
 これは一つ、大いなる祝宴を張らねばなるまい。

<2023.06.30 菖蒲華(あやめはなさく)>