Healing Discourse

『太極拳論』を語る 第九回 含胸抜背

高木一行:編

【高木】

 前回、「ただひとつのわざ」という話題が出たが、そのまま放置しておくのもよろしくないので、ヒーリング・ムービー其之九の、佐々木君と道上君がエンライトした際の記念動画の下にある、それぞれ独りずつに対し、結構長時間わざをかけ続ける動画、あれをまずは観てほしい。
 一人であそこまで長くわざをかけられ続けた者は、今のところ佐々木君と道上君のみだ。ということは、2人はかなり珍しい体験をしたといえる。
 龍宮道が波のわざである、それも同じ繰り返しは二度となく、常に変化し続ける波である(=波として観れば、ただ一つ)、ということについて、2人の経験談を皆も聴きたいだろう。

【佐々木】

 先生のわざを受け続けた体験は、筆舌に尽くし難いものでした。
 思いもよらないところから生じる、複雑精緻な波に全身が解体されては再統合されるような、とてつもないヒーリング体験で、終わった後は、生まれ変わったような清々しさに包まれていたことを憶えています。

 先生がどのように変化されても対応する! と気合を入れて向かって行っても、次の瞬間にはまったく予想できない変化に崩され、搦め捕られ、その変化、流れの美しさには芸術性すら感じて感嘆の声をあげてしまいました。
 そしてそれは一瞬も途切れることはなく、非常に繊細なタッチで先生が触れ合っているにも関わらず、常に抵抗不能な波に翻弄され、ほとんど接触していない場面もありますが、そういう時にあっても、ある種の潮汐作用と言えるようなものが働いているように感じられました。
 その満ち引きにより、地にひれ伏したり、浮かび上がったりするのですが、逆らおうとしても、全身まるごと押さえつけられているように、脱出することができませんでした。液体が満たされた空間の中に、三次元的に波が生じているかのようでした。 

 様々にわざを受けるうちに、自身の存在感がバラバラになって考えることもできず、振り返ってみると、それは純粋な「波」――大波にさらわれたり、もまれたり、巻かれたり、打たれたり、大小・深浅・長短、その他表現し難いものもありますが――として記憶されているように感じます。 

【道上】

 ヒーリング・ムービーを観返していると当時の感覚が観ているこちらにも映ってきますが、波に翻弄されるような感覚を思い出しました。
 皮膚に包まれた形に沿って波が「流れ込んでくる」ので、接触する部分が反応しないようにしよう、あるいは踏ん張って抵抗しようという耐え方が一切できませんでした。自分の身体内のここで波が起きていると感じてそこで耐えようとしても、全く予測もしていない別方向から波が起こり、あるいは巻き取られ、あるいは転がされ、絶えず変化し、抵抗するためのとっかかりとなるような決まった方向性の力が継続するという固定的な状態が存在しないため、翻弄され続けました。
 また、強弱の変化はあっても波が途切れないため、ひと続きのわざがずっとかけられ続けているように感じていました。
 ムービーとして自分の姿を外部から観ていますと、明らかに見えていない場所や角度の、接触していない場所の先生の動きと同調するように崩れたり、場合によっては先生の動きが起きる一瞬前にはもう崩れ始めたりしております。

【高木】

『太極拳論』には出てこないが、太極拳要訣の一つ「含胸抜背がんきょうばっぱい」を、まずは取り上げたい。
 龍宮道のわざを独自に探求する過程で、以下の動画1で示演されているようなわざが、胸郭(ハート)を柔らかく開く修法として自顕(自ずからあらわれること)してきたのだが、検証・実践を進めるうち、「含胸抜背」という言葉がしばしば脳裏をよぎるようになった。龍宮道と太極拳の共通性を意識するようになったきっかけだ。
 術者が受け手の背に胸を柔らかく密着した状態で、胸の力を抜き、その抜いた力を自らの背中へと抜いてゆく・・・と、それに同調して受け手の身体にも同じ状態が生じる。
 この龍宮道独自のヒーリング法は、体得者から初心者へと次々に分かち合って共有することができ、動画の受け手たちの表情を観ればよくわかる通り、すごく気持ちいい。そして、身体の可能性を極めて短時間でひらいてゆくことができる。

動画1 2022.05.03 於:天行院(広島)

フルハイビジョン画質 01分32秒

 続く動画2では、相対の武術的シチュエーションで「含胸抜背」がどのように機能するかが説かれる。
 含胸抜背は通常、「胸を含ませ、背(の力)を抜く(ことにより、背を丸めたような姿勢を造る)」と解釈されているようだ。とすれば、我々がやっていることは中国武術の含胸抜背ではないことになるので、あくまでも龍宮道の観点から語っているという前提の元で聴いていただきたいのだが、龍宮道における含胸抜背は「(スポンジか乾いた砂が水を吸い込むように相手の力を)胸に含ませ、(その力を)背へ抜く」というものだ。つまり、「胸を含ませ・背を抜く」ではなく、「胸に含ませ・背へ抜く」。
 注意していただきたいのは、含胸抜背を研究してそのような解釈へ到ったわけではなく、まず龍宮道のオリジナルなわざが先にあって、それが期せずして「含胸抜背」を連想させた、ということだ。含胸抜背という言葉に龍宮道の体験が集約して以来、私のわざは飛躍的に柔らかくなり、以前にも増して変化自在となった。

動画2 2022.05.03 於:天行院(広島)

フルハイビジョン画質 02分55秒

 楊露禅の孫・楊澄甫ちょうほ(1883~1937)は、世界規模の太極拳普及に尽力した人だが、こんな言葉を残している。
「抜背は気を背にちょうするなり。含胸をくすれば、自ずから抜背を能くす。抜背を能くすれば、則ち力を脊より発するを能くし、向かうところ敵なきなり。」
 あたかも、私自身が現在いま実際に味わっている龍宮道組手の体感を、そのままリアルに・詳細に、叙述しているかのごとくであり、異国の縁もゆかりもない人物によって述べられた言葉とは思えないような親近感を覚える。
 以下の動画3は、含胸抜背を意識しながら観照していただきたい。外から見ると、私は胸をへこませたり背を丸めたりしてないが、内面的には常に含胸抜背(胸に含ませ・背へ抜く)を強く感じている。

動画3 2022.05.03 於:天行院(広島)

フルハイビジョン画質 03分46秒

<2022.05.21 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)>