高木一行:編
10年ほど前のことになるが、マレーシアの首都クアラ・ルンプールで面白い話を聴いたことがある。
彼の地で乗るタクシーのどれもこれもが、頑なにメーターを使おうとせず、ハグル(haggle 値段交渉)で不当に高い運賃を吹っかけてくる。どのタクシーのドアにも大きなステッカーで、「この車はハグルいたしません!」と明記してあるにもかかわらず、である。
ほとほとうんざりしていたら、ある若いマレー人運転手は正直者で、メーター通りの料金でよいというから(数日滞在して初めてのことであった)、チップをたっぷりはずみ、「君みたいな正直者に出会えてうれしいよ。皆、ハグルばかりで・・・」と話したら、その運転手が言うには、「胸を引っ込めるからですよ」、と。
レッスン料をもらったから、ということでもなかろうが、実に丁寧に詳しく教えてくれたのだが、観光客をカモにしてやろうとふっかけてくるような連中に対し、胸を引っ込めた弱気な態度・姿勢をとっていると、相手はこちらを舐めてどんどん強気になるのだそうだ。そんな時は胸を張ってぐっと突き出し、相手の胸にぶつかっていってはじき飛ばすくらいの勢いをもって交渉しなければならない・・・そんな風なことを、熱心に時間をかけ教えてくれた。
それはアラブの流儀なのか、あるいはマレー式の考えかた・やり方か、そこまでは確認しなかったが、今我々がやっている含胸抜背とは正反対で面白いではないか。
含胸抜背ということにおいて私が常に注意を払っているのは、胸の中心(両乳首中央の凹み、いわゆる膻中)だ。諸君の組手を観ていると、膻中が下を向くケースが多いようだが、すると相手の力とぶつかり合って双重の病となりがちだ。
ちなみに、膻中をネットでちょっと調べたら「だんちゅう」と読んでいる記事が多いようだ。「たんちゅう」と私は覚えていたのだが。
「膻」をネットの漢字辞典サイトで調べてみたところ、「たん」と読むものばかりで「だん」と読むものは一つも見つかりませんでした。
私の手元にある漢和辞典「新漢語林」で調べたら、漢音で「たん」、呉音で「だん」とありましたので、「だんちゅう」と読むことも可能ではあるようです。他に「せん」という読み方もありました。
「たん」「だん」と読む場合は「肌脱ぐ」、つまり衣服を脱いで肌をあらわにするという意味になり、「せん」と読む場合は「生臭い」の意味になると言うのです。
「膻」は特殊な字のようで、新漢語林には「袒に通ず」「胆に通ず」とありました。
どうやら、袒(肌脱ぐ)、胆(内臓)それぞれの意味を兼ね備えた字ということになるようです。
どちらの字も「たん」と読むのが一般的なので、「たんちゅう」の方が適切と思われます。
おそらく、「花壇」「論壇」という言葉があるため、「膻」もつい「だん」と読んでしまう日本人が多いのではないでしょうか。
ネットで調べると、日本語の記事では「だんちゅう」が多く、私もそのように読んでいたのですが、栁田さんがおっしゃるように辞典で調べると「たん」であり、「『膻中(たんちゅう)』は、左右の乳の間」とありました。
先生がおっしゃっていた膻中の向きについて、様々な動きの中で含胸抜背を意識しつつ、敢えて膻中を下に向けてみたところ、途端に流れが滞り、意識が頭に上りました。この感覚はなじみがあり、自分がよく陥ってしまう状態であると感じました。
膻中を上からだけでなく、下からも同時に意識し、上下のバランスをとって正面を向くようにしますと、明らかに全身の流れが良くなり、動きが滑らかになります。
非常に重要な要訣をご教示いただき、ありがとうございます。
ご投稿を参考にして、膻中の向きでどう体感が変わるものか、壁に手を当て、含胸抜背を意識しながら、膻中の向きをいろいろ変えてみました。
下へ向けると首が詰まったように固まってきます。自分でもよくこういう姿勢になっていることがあるとわかりました。
正面を向けるとスッと背中に意識が通って、地面に垂直な方向に流れが生じて全身が軽く感じました。
それでは上に向けるとどうなるのか? と思い上に向けていくと、今度は脚の方に緊張が来て固くなりました。
膻中を正面に向けた時に感じる全身の状態を感じていると、「立身中正」という中国武術の要訣が思い起こされてきました。
第1回目となる龍宮会(広島)に参加しました(6月10~12日)。
学びの中で、先生の膻中と触れ合う機会をいただいたのですが、先生が含胸抜背を意識されますと、先生の膻中から背中へと沈み込んでゆくような流れが生じ、触れ合っている指先がスーッと吸いつけられるような感覚があり、離すことができなくなりました。その間、先生は胸を(私が認識できる範囲では)一切動かされておらず、意識するだけでそのような現象が起こることが大変不思議でした。
以下は龍宮会で撮影した動画だ。すでに公開している動画の内容と一部重複しているところもあるが、別のシチュエーションにて異なる角度から説明を加えているので、修行の参考になると思う。
フルハイビジョン画質 02分58秒
含胸抜背の動画を公開くださり、ありがとうございます。
胸を引き、背中を出すような動きでは、全身に響いてきませんが、先生が含胸抜背(胸に含ませ、背へ抜く)にされますと、先生の膻中に触れ合った私の手が柔らかく吸い付いたようになって全身が引きつけられ、背中と触れ合った手には柔らかで透明な波が生じて全身が波打ち出しました。柔らかく、ぶつかることのない虚の作用が含胸抜背により生じるのを感じさせていただけたのはありがたく、既成概念を超えた体験でした。
含胸抜背の動画を公開していただき、ありがとうございます。
先生が含胸抜背を行なわれると、渡邊さんの身体を通して吸い込まれていくような感じで身体が崩れていきました。
また先生の身体と直接触れ合っている時は、先生の身体内側へと染み込んでいくような感覚があり、どちらの場合も結果として自己の身体が透明感のある波紋に満たされていきました。
組手の練修の時にも含胸抜背ができていないことを指摘され、途中から胸が突き出てしまったことが何度もあり、私にとり含胸抜背の修得こそ最優先課題であると感じました。
編注1:含胸抜背については、『ヒーリング・リフレクション2』第二十七回の動画3もご参照いただきたい。
編注2:龍宮道における含胸抜背は、胸郭を和らげる修法の一つだが、この胸郭の和らぎについては、以下の動画も参考になるだろう。
『ヒーリング・リフレクション2』第二十六回 動画『胸郭の和らぎ』
『ヒーリング・リフレクション2』第二十七回 動画『胸郭の和らぎ2』
編注3:楊澄甫は「(含胸)抜背は気を背に貼するなり」「抜背を能くすれば、則ち力を脊(背中、背骨)より発するを能くし、向かうところ敵なきなり」などと述べているが、含胸抜背を保ちつつわざを使う術者の背中に第三者が触れ合うと、その手が術者の背中に張り付いたようになって共に波打ち始める。その様子は、以下の動画にて。
『ヒーリング・リフレクション2』第三十一回 動画3
これまでに公開された動画の中で、「腕のつけ根を肩から鎖骨(胸骨端)へ移し、鎖骨そのものを覚醒させると、鎖骨(や腕)が鎖のようにしなやかに動くようになる」というご説明があります。このことを自分自身に問い返してみますと、お恥ずかしながら理会が不十分であると思われてきました。
私が先生の鎖骨に触れ合った状態にて、先生が鎖骨を覚醒されますと、先生の鎖骨に何ものかが満ちてくるのが感じられ、身体内が波打ち始めます。
自分で鎖骨胸骨端のふくらみ(編注:龍宮道でいうところの鎖骨密珠)にヒーリング・タッチし、そこを腕の支点として球状に意識して動かしていくと、柔らかく胸郭が波打つところまではできてきていると思うのですが、鎖骨が鎖と化するという感覚がよくわかっていないと感じました。
鎖の定義を調べてみますと、環状の部品をつなげて線状にしたものとありました。鎖骨は独特の曲線を描いてはおりますが、一本の骨です。先生が鎖骨を鎖と感じられる際は、この一本の鎖骨の裡にいくつかの環状の部品が繋がって、動いているような感覚を感じていらっしゃるというように理解してよろしいのでしょうか? あるいは私が何か根本的なところを勘違いしているかもしれません。この点につき、ご教示いただけませんでしょうか。
例えば、胸ぐらをつかまれた態勢でそれに対して何とかしたいという場合、腕のつけ根を肩にした場合と、鎖骨密珠にした場合の違いを、まず比較してみてはどうだろう?
ご教示いただきましたように、胸ぐらを掴まれたことをイメージし、それを腕で払うような動作をしてみました。
腕のつけ根を肩として行なってみますと、胴体が一つの筒のような感覚になり、動きが硬く、特に体幹は不動で、流れが感じられませんでした。
腕のつけ根を鎖骨密珠にしてみますと、体幹部が流体化し、相手に対して動ける方向性がたくさんある感覚が生じてきました。
何度も練修していて気づきましたのは、鎖骨密珠から鎖骨全体への意識が満ちておらず、鎖骨密珠と肩の間の感覚が希薄ということでした。そのため鎖そのものの感覚がまだ判然としないのではないかと思いました。
鎖骨周辺のブロックが浮上してきたのか、鎖骨周りに痛みや張りを感じるところも出てきました。鎖骨密珠から肩までの鎖骨をしっかり意識してつなげることを行なっていきたいと思います。
私も胸ぐらを掴まれた場合を想定し、腕を払う動作をしてみました。
腕のつけ根を肩にしてみますと、肩から先の腕だけが動き、胸ぐらを掴まれている腕を叩いたり、払ったりする単調な動作しかできないことを感じました。また、単調な動きしかできないため、腕を払うことができたとしても、次のわざにつながらないことも感じました。
そこから、鎖骨密珠を腕のつけ根として意識しますと、腕だけでなく身体全体として自然に動くことができ、螺旋のような動きで胸ぐらを掴んでいる腕に絡みつくわざが顕われることを感じました。
鎖骨密珠と触れ合いながら、ゆっくり、柔らかく、粒子的に検証いたしましたが、どのような動きをしても、鎖骨を含む腕全体が鎖のような、しなやかな性質を帯びた動きになるように感じられました。
自分の鎖骨と触れ合い、まず幅を感じてみて、その太さに驚きました。つまり実際より細く仮想していたことに気づきました。
鎖骨密珠から少しずつ肩の方に動いていきますと、途中で大きく背中側に向かって曲がっているところがあり、この周辺も意識できていなかったことに気づきました。鎖骨の形を意識しながら、鎖骨密珠を球転しておりますと、胸郭の前と後ろの形が意識されるようになり、波紋が滑らかに広がるように感じました。
その状態で、胸ぐらや肩を掴まれた体勢を想定し腕を使ってみますと、まず腕がとても長く感じました。肩から先の腕が鎖骨部を鎖として動かす武器や道具のように動くことを感じ始めました。
まだ曖昧ではありますが、途中経過をご報告いたします。
胸ぐらを掴まれた状態で何か動いてみようとする際の、腕の付け根を肩とした時と、鎖骨密珠から動こうとしてみた時とを何度も比較してみました。
腕の付け根を肩とすると、掴む・払うどころか、身をよじる・足を引いて後ろに下がるといった動作でも、掴まれているところから遠くで働きかけていて、遅いし弱いと感じました。
鎖骨密珠を腕のつけ根と認識して動くと、密珠の場所自体から渦のように力が発生すると同時に、全身の連動が起きるのが感じられました。腕の付け根を肩とした時と違い、肩から先だけを動かすような形にならず、小さな動きにも大きな動きにも流れが繋がって全身が関与するようになります。
また、東前さんが書かれているように、鎖骨密珠を意識すると、掴まれている場所以外の部分に様々な方向に動ける余地が出てくるのが感じられるのですが、腕の付け根を肩として区切ると、そこから胸や胴体部の体幹がひとかたまりのユニットになってしまい、動きの可能性が限られてしまうように感じました。
東前君が鎖骨(の大きさや位置)について述べていることは、その通りなのだが、面白いことに、東前君がこの話題を持ち出してくる直前、佐々木君と巡礼準備のためZoomで話していた時、まったく同じ質問が佐々木君からも出され、東前君が述べていたようなこと(プラスα)をアドバイスしたばかりだった。
学びの場を通じて共鳴が起こると、こういう現象が頻繁に発生し始める。
東前さんが鎖骨密珠について書かれていた内容は、私自身も体感しつつあることと非常に近く感じました。
先生からZoomで、鎖骨の一番外側に近い部分(10cm程度)が特に無意識となっていることをご指摘いただきました。
そこにしっかりヒーリング・タッチし、意識化していくと、鎖骨から肩→腕へと到る繋がりが感じられてくるとともに、そこがかなり後ろ側(肩胛骨に近い)に存在することが理会されました。
鎖骨をどのように使うかという以前に、鎖骨自体の意識や存在感が希薄な状態では、肝心なところがわからないし、わざとして使えないのも当然と思われました。
その後さらに練修し、鎖骨の形や位置関係がより感じられてきますと、そこに繋がる僧帽筋もまったく仮想の状態にあったことに気づき、愕然としました。
僧帽筋が鎖骨に接する部分(停止部)を、これまで正面から観て水平に仮想し、横にあると思っていたのですが、それが斜めであり、鎖骨自体がかなり後方まであるため、位置も後方に移動し、ガクッと僧帽筋の位置と角度が変わり、首が軽くなりました。
これまで、幻の僧帽筋が横方向にあると思い込んでいる状態で、やれ肩(首)が凝るだのなんだのと言っていたと思うと恐ろしく感じます。
佐々木さんのご投稿を参考に、鎖骨の僧帽筋の停止部と触れ合っていきました。
そのあたりは感覚が非常に曖昧で、触れ合っていくと、鎖骨が長く感じられてきました。短く仮想していたことがよくわかりました。
僧帽筋の停止部と触れ合いますと、僧帽筋が背中側から感じられてきて、首が立ち、肩が背中側に引かれるように姿勢が変化していきました。
首や肩がかなり楽になりました。鎖骨をトータルに意識できるよう実践していきたいと思います。
参考までに、捨てようと思っていた動画を一つ。
途中で私の道衣の襟がひっくり返って見苦しいが、ご了承いただきたい。
フルハイビジョン画質 02分24秒
<2022.11.26 虹蔵不見(にじかくれてみえず)>