Healing Discourse

ボニン・ブルー 小笠原巡礼:2013 第4部 龍宮門

 すでにお気づきのことと思うが、海の色だけでなく、空も山も、私たち夫婦の過去の作品ではお馴染みのハイビスカスやブーゲンビリアなどの花々の色も、小笠原のそれは、違う。
 しかし、これは小笠原に限ったことではなく、これまで私たちが巡礼で訪れた場所すべてが、それぞれ特有の生命[いのち]の色、質感を備えていた。

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 ところで、唐突だが、私は泳げない。
 今日まで発表してきたもろもろの海の作品をご存知の方は、「何の冗談か」とお思いだろうが、事実だ。

 シュノーケル・セットを装着すれば、何時間でも泳げるし、潜れもする。が、それなしではてんでダメだ。
 海外のリゾートに滞在中など、プールで泳ごうとして、思うように進まず、自分が泳げなかったことを突然思い出す、なんてことがしょっちゅうあった。

 が、水中で水をかきながらノーブレスで50メートルはいける。妙な話だ。

 私が泳げないのは、小中学生時代、学校のカルキ臭いプールの水に我慢ならず、何かと口実を設けては体育の授業をサボっていたためだ。その後進学した新設の高校にはプールがないと知り、心底ホッとしたことをよく覚えている。

 20代始め頃より、沖縄の西表島に足繁く通うようになり、エメラルド・グリーンの海に招かれるようにして、自己流でシュノーケリングを覚え、海中世界を訪れる楽しさを知った。
 素潜りにもすぐ熟達し、漁師の友人に教わってウニやサザエを採ったり、魚をヤスで突いたりするうちに、自らの身の裡[うち]を流れる海洋民族や狩猟採集民の血を強く実感するようになった。

 それでも、シュノーケル・セットなしで泳げるようになりたいと思ったことは1度もなかった。

 ところが今回、小笠原の海で初めて野生のイルカと出会って、「このままではいかん」と強く感じた。イルカと同質の泳ぎ方、いわゆるドルフィン・キックができなければまったく相手にされないのではないか・・・と。

 私が提唱してきたヒーリング・アーツは、人のあらゆる営みの質を短時間で急激に熟達させる力を秘めている。「泳ぐ」ことへと、それを応用してみてはどうか?

 そこで小笠原滞在中のある日、二見港に隣接する大村海岸にて、妻と共に、ヒーリング・アーツを水泳へと応用する実験を執[と]り行なった。

 執り行なう、といっても、何か明確な指針、計画があるわけじゃない。ただ浜辺と浅瀬の間を行ったり来たりしながら、身体が自然に感じ、動くがままに委[まか]せていった。
 ヒーリング・アーツを母胎として武術的方面へと展開・発展したものが「龍宮道」だ。海の巡礼を通じ期せずして顕[あら]われ始めたものだが、陸上で身体内の「水」や「波」を感じ、表わす、龍宮道の術[わざ]を、海中で使ったらどうなるか?
 ふと、そう思いついて、龍宮道の個人的な研究テーマとしていた肩胛骨[けんこうこつ]の烏口突起[うこうとっき]に指先でヒーリング・タッチし、その部位の感覚/意識を目覚めさせた。そこは肩胛骨の動きの中心となる場所だ。鎖骨の下にある。

 背がようやく立つくらいのところで、烏口突起ごと片方の肩胛骨を外側へスライドさせてみた・・・・・・・ら、期せずしてくるりんと全身が半回転した。肩胛骨を戻すと、逆に半回転して元の態勢に戻る。

 水の抵抗がまったく感じられない。

 面白くなってきて、肩胛骨を交互に横へせり出したり、引っ込めたり、水面に平行に浮かんだ体勢で行なったり(同様に全身が半回転する)、あれこれやっているうちに、肩胛骨が船の櫂[かい]のように水をかき分ける作用がハッキリ感じられるようになった。
 試しに、烏口突起を常に意識しつつ、左右肩胛骨をオールのように動かしてみると・・・・・進む。進むぞ。
 両腕は肩胛骨に任せて、自然に、柔らかく動くようにし、両脚の動きも自然に任せる。それだけで、肩胛骨(あるいは脇)が的確に水をとらえ、自分でもびっくりするような速さで、どんどん、スイスイ、進んでゆくではないか。息継ぎも自然にできる。なるほど、これがクロールか・・・・。

 その瞬間、なぜこれまで泳げなかったのか、「わかった」。
 肩胛骨ではなく、両手を一生懸命動かしていたからだ。肩胛骨→腕→手へと力(波紋)が伝わってゆかねばならないのに、その正反対のことをやっていた。実に一生懸命に。

 1つわかれば後はイモヅル式だった。

 平泳ぎ・・・・直ちにできる。これまで、手と足のタイミングが逆になっていた。両腕を胸前に寄せる動作は上体に浮力を与え、息継ぎをするためのものなのに、両脚を伸ばす際、同時に両腕で水をかき分けて推進力を生じさせるものと勘違いしていた。

 ではドルフィン・キック(両脚を波打たせるように動かす方法)は?
 これは肩胛骨とは直接関わりがなさそうだ。そこで、水面に両手、両足をまっすぐ伸ばして浮かび、静かに全心身を解放した。
 海中で目に焼きつけたイルカの姿が脳裏によみがえり、まるでイルカたちが導いてくれたかのように、両目の間にあるナジオン(鼻根点)の体感位置が・・・・・1ミリ弱・・・ズレていることが「わかった」。
 それをヒーリング・タッチで正した途端・・・・・全身の骨格配分が組み替わり、背骨が柔らかく、静かに、縦に、波打ち始めた。その波紋が少しずつ大きくなってゆき、・・・、ついには・・・進み始めた!
 波に乗るみたいに、あるいは自分が波そのものとなったかのように進む、進む、面白いほど進む。
 そのやり方で水中に潜ったり、海底スレスレでくるりと翻[ひるがえ]って身をかわしたり、岩の間を泳ぎまわったり、・・・・自由自在だ。
 これまでドルフィン・キックを試みたことは、何度もあった。が、くねくねじたばたするばかりで、その場からちっとも進まない。下手すると後ろにさがってしまう始末だ。
 何が間違っていたのか、いったんできてみると、あまりにも明らかだった。背骨における波動の焦点(中心点)が、ズレていた。あるいはこうも言えるだろうか。背骨に起こる波形が正しくなかった、と。

 長いひもの一端をくぎのようなものに結[ゆ]わえ、それを地面に固定して、もう一方の端をゆらゆら上下させる。すると、波の形が現われてくるが、手の位置はそのままで、釘をさす場所を移すとどうなるか? 
 違う波形が発生するだろう。

 ドルフィン・キックで推進力を得るには、ある波形を正しく造らねばならない。そのためには、ナジオンを1つの端として正確に使わねばならない。
 もう一方の端は、両足の親指にある。波動の発生源は腰。が、あれこれ同時にやろうとする必要はない。

 すでにドルフィン・キックをできる人がこの要訣を用いれば、イルカ並みとまでは言わぬが、自他が驚くほどの急激な進歩がごく短期間で、またはその場で直ちに起こるだろう。
 このドルフィン・キックに先ほど述べた肩胛骨の動きをクロスオーバーしたところ、これまでいかに努力しても1度もできたことがないバタフライが、一瞬で「できる」ようになってしまった。

 横泳ぎ・・・自然にできる。
 背泳ぎ・・・できて当たり前。

 古流泳法の上級者は両手を後ろ手に縛られ両脚をくくられた状態でさえ、水中に飛び込み、泳ぎ逃れることができるそうだが、実際に縛って試したわけではないが、そうした態勢でも楽に泳ぐことができた。

 すでにある程度泳げる方々は、こんなごく当たり前のことで一体何を大げさに騒いでいるのか、と眉をひそめていらっしゃるかもしれない。

 どうかご理解いただきたい。これまで52年間、泳げなかった者が、誰に教わるでもなく、自らの内面から湧き出てきた<叡智>により、突然スイスイ泳げるようになったことは、私にとり奇跡に他ならないのだ。

 妻は子供の頃スイミング・スクールに通っていたというだけあって、平泳ぎやクロールは出来ていたが、私が発見した要領を教えたらたちまち熟達が起こり、私同様、これまで1度もできたためしがなかったというバタフライも一瞬でできるようになった。
 それから後は2人して、広い湾内を縦横無尽に、自分のペースで自由に泳ぎまくった。

 時折、妻の姿を確認すると、ある時はクロール、ある時はバタフライ、またある時は平泳ぎ、と文字通り自由自在だ。こちらもスピードが出ているから、近くにいたと思ってもあっという間に遠ざかってゆく。
 そんな風にして、休憩の時間も惜しむようにして、かれこれ4~5時間、泳ぎ続けたろうか。練修を終え、宿泊所に戻る頃には、これまで感じたことがない疲れを全身に覚えた。52歳になるまで泳げなかった者が、泳ぐための筋肉をいきなり全覚醒させ、長時間泳ぎまくったのだから、当然だろう。

 なお、蛇足ながら付け加えておく。
 前述した肩胛骨および烏口突起[うこうとっき]の使い方を、練修が終わってビーチを去る間際、波打ち際で試してみた。

 腰がつかるくらいの場所で、押し寄せる大波を真っ正面からまともに受けると、ふわりと体が浮き上がり、大きく後ずさりする。この日の波は、浜辺に座って受けると、時にひっくり返って、転がされるくらいの強さだった。
 ところが・・・・、ひときわ大きな波に対し、烏口突起で肩胛骨をスライドさせつつ、半身となって肩胛骨のエッジを波に対し垂直となるよう調整すると・・・・肩胛骨が波を斬るような働きが起こり、波の中を真っ直ぐ潜[くぐ]り抜けることができるではないか。
 体が持ち上がらない。バランスも崩れない。

 何度も行ない、確認した。妻も同じようにできるようになった。これは武術的にも応用可能かもしれない。

  それではスライドショーだ。
  小笠原で出会った様々な光景、動植物などを、順不同で並べてある。

 生命[いのち]は、花やトカゲや、木々など、進化の歴史の中で様々にその姿、形を変えてきた。
 生命[いのち]というものを広義にとらえれば、岩や山や水も、すべて生命の表われにほかならない。
 その、生命の形の移ろいを、本作『ボニン・ブルー』では特に意識しながら各スライドショーを制作した。