Healing Discourse

ドラゴンズ・ボディ [第3回] 陰(かげ)

 短気は損気、という。
 しからば、あなた方に問う。短気をいやす道とは如何(いかん)?
 そのような問いが、真剣を振り下ろすような気迫をもって私に向け発せられたなら、私は以下のフォーミュラをもって即応する。

[フォーミュラ1]
 もっと短気になって、それをレット・オフ。

 これは悠然養成法だ。あくせく焦ることの中へと、粒子的・意識的に入っていき、その感触を、労宮を中心として開かれた手で感じる。焦っている時、手はどうなっている? 焦りを手で感じてみるように。焦りにおける手のBeingをわずかに強調したなら、それをオフにするのだ。
 この瞬間より、自分からは動こうとせず、かといって固まってしまうのでもなく、「待ち」の態勢に入る。全面的受け入れ態勢だ。それが同時に、「内向」となる。
 待ったから内向するのではない。内向によって、待ち受け状態が起こるのでもない。両者は1つのものを表わす別の名だ。
 悠然と私が言った意味がわかってきただろう。あなた方の顔に深い驚きと喜びの表情がゆっくりと拡がっていくのが、私にはほとんど観えるようだ。
 慣れてきたら手だけでなく、顔や目など、様々な箇所で「焦り」を感じ、レット・オフしていくといい。

 同様にして超然だって養える。このあたりから、あなた方自身で考え、工夫する時間も少しずつ作っていくことだ。
 超然の反対にあるものとは何か、それを探して反転させるのだ。間違っても辞書なんかに真っ先に飛びついてはいけない。今この瞬間の、あなた方1人1人にとっての「実感」こそが、プリマ・マテリア(変容の原材料)だ。それに他者の言葉や考えを混ぜ合わせてしまうと、修法はその力を全面的に発揮することができなくなる。

 以前、「ヒーリング・アーツによって熟達感をその場で直ちに味わえる」と書いたことがある。だが、悠然とか超然といった感覚まで本当にその場で直ちに味わえるとしたら・・・、そしてそれが、「なるほどこれは確かに悠然であり超然であり、これまでに味わったことがないものだ」とあなた方が深く納得するようなものであったとしたら・・・・・、これは実に大変なことではなかろうか? 
 もっとヤケになって、さらに自暴自棄になって・・・・・、私たちのあらゆる状態が、鏡に映るように手に現われる。それを開かれた手で味わったなら、・・・・レット・オフ・・・・・・。
 自暴自棄ですら、いやすことができる。全身至るところで、いやしの泉が無数に湧き出してきているのを、あなたは今、感じているだろうか? 
 自暴自棄の反対極は面白い。私はこれがレット・オフによって起こった時、自分の内面に一気に投げ返されたような反転感覚に続き、深い落ち着きと慈しみを感じる。自暴自棄とは、文字通り自らをボロボロに破り、棄てて顧みないことなのだとわかる。それは、死を覚悟して腹が据わることとはまったく別の感覚・状態だ。

 一指禅で、伸ばした指をさらに伸ばそうとし、レット・オフ(レット・オフ後も指は伸びたまま)。これに、手の中心という概念をクロスオーバーする。つまり、労宮を中心として一指をさらに伸ばそうとし、労宮を中心としてレット・オフするのだ。意識化を促進するために、机の角等に労宮を当てた状態で行なう。
 ひとまず労宮のことは忘れよう。人さし指を伸ばした状態から、それを普通のやり方でさらに伸ばしてみる。労宮は机の角からズレるか、あるいはズレようとして引き伸ばされるだろう。これが頭を中心とする伸ばし方だ。
 今度は、労宮がその位置(机の角)から移動しないよう注意しつつ、人さし指をゆっくり、伸び伸びと、精一杯伸ばしていく。今度は、指さす方向だけでなく、反対の手首側にも「流れ」が起こり、それは身体内に満ち拡がって充実感を生む。
 再び、労宮の中心を無視して、ただ人さし指だけを伸ばそうとしてみる。・・・そのためには全身を固めなければならない。たちまち体の中が曇ったように重くなる。鈍くなる。

 労宮を中心にするとは、この場合は文字通り、労宮を今ある位置(机の角)から動かさないという意味だ。手全体を固めるのではなく、労宮の1点のみを不動とする。
 繊細な感覚を粒子状に使ってよく感じ取るように。 
 労宮を机の角に当てたまま、今度は粒子状に身体を働かせていく。
 粒子レベルで手の中心をチェックし、そこがわずかでもブレないように指を伸ば「そうとする」。指に行為の主体があったら、必ず中心が粒子レベルでズレ始める。
 労宮を主体とし、労宮が指を伸ばそうとする。「指を伸ばそう」という意図を受け、労宮が必要なコマンドを各部に向けて発する。労宮は、全体に気を配りながら個々の部分を指揮(コマンド)していく。すると一斉にあかりが灯るように、全身に意識が満ちる。皮膚の外に漏れ出す力は、もはやない。
 労宮は常に不動だ。そこは台風の無風地帯みたいに静かだが、固定して動かないのではない。そこはいつも柔らかく、力が入っている実感はないが、実は様々な力がそのポイントで平衡を保っている。これが「中心」の働きだ。

 この状態から、労宮という中心を保ちながらレット・オフする。指を直接操作するのではない。レット・オフもやはり中心(労宮)から起こす。
 ちょっとしたコツが必要だが、意識の錬金術的プロセスを引き起こすことに成功すれば、なぜこの修法が「禅」なのか、生理的に実感することができるだろう。未知なる反転空間が、身体の奥に向かって拓かれ始める。超時空関門の扉が開かれる。
 指1本1本によって、オフの内的感触は異なる。いろいろな指のオフを組み合わせると、どんどん多層的になっていく。裡なる無音のヒーリング・ハーモニーを、好きなだけ味わい、楽しむといい。
 どんな体勢でもできるが、正座、あるいは椅子に座り、両手を股の上にそっと置いた姿勢が基本だ。労宮に小さな球のようなものを貼りつけると、そこを中心として意識する役に立つ。
 じっと静止しているのに飽きてきたら、柔らかく体を動かしながら行なうことを合間にはさんでもいい。動と静を交互に、わずか数分行なっただけで、非常に奥深い静寂とリラクゼーションがもたらされる。繊細にして力強い活力が、心身の奥底から静かに湧きあふれてくる。

 最後は腹と腰をヒーリング・タッチで意識化し、練修を終える。
 手と同じく足にも中心があり、同様に身体各部にすべて中心がある。それらは互いに響き合って全身を覆い包むコマンド・ネットワーク(いわゆる経絡)を形成し、これを動と静の二大中枢(腰腹)が統括する。
 その2つの中心は、センター・オブ・センターズとしての人間の最根本中心へと最終的に集約していく。それは、個々の人間の最根源にある基準点であり、ここから発するあらゆる行為は、自ずから天地自然の理法に合致する。その時、DoingとBeingは1つに統合される。
 
 労宮をもっとしっかり開いていこう。労宮の自意識を目覚めさせるのだ。そのためには、

[フォーミュラ2]
 労宮と指先を触れ合わせ、一指禅。

 どの労宮とどの指先を合わせ、どの指で一指禅なのか、順を追って解説していく。
 説明上、左労宮と右人さし指々先とを触れ合わせる。
 それぞれが一直線上で向かい合うように。これはヒーリング・タッチの新たな要訣だ。
 作用・反作用の法則のごとく、一直線上で互いに相反する同量・同時の意識の使い方をしていく。これによって「響き合い」が起こる。
 ヒーリングとは相互作用によって生じるものであり、術者から被術者へと一方的に何かが流入した結果ではない。
 まずは、指を粒子状に凝集させる。そしてレット・オフ。再び凝集→レット・オフ。これを悠然と繰り返す。・・・・・・指のレット・オフと完全にシンクロして、精妙な波紋が労宮を中心として手全体に広がっていくのが感じられるだろうか?
 このようにして準備を整えたなら、上記のフォーミュラを様々なやり方で試してみる。
 右人さし指で一指禅。まずはそういうやり方ができるだろう。なかなか面白い。次は左人さし指で一指禅。これも面白い。両者はまったく別の修法だ。
 それでは、左人さし指を柔らかく伸ばそうとするコマンドを発したまま、右人さし指で一指禅を行なったら、どんなことが起こる?
 同様にして、右人さし指をレット・オフした状態で左人さし指の一指禅、左人さし指がオフ状態で右人さし指一指禅、さらには両指のオンとオフのタイミングを様々に組み合わせて一指禅・・・・・・・。
 これが<たまふり>だ。またの名を<瞑想>ともいう。

 左掌を向こう(自分の前方)に向け、右人さし指で労宮と触れ合う。そして、労宮を労宮そのもので感じてみていただきたい。
 こちらからは隠れて見えない労宮を、まるで手の甲を透かして見ようとするか、あるいはくるりと掌側に回って感じようとしているなら、・・・つまり「こちら」から「あちら」へという意識の向け方をしているなら、・・・あなたは「部分の意識が覚醒する」と私が言う意味を、まだ自らの身体を通じて理会していない。
 労宮(掌)に意識が灯った時には、まるでそこにあいた穴からのぞき込むようにして、誰かが自分の体の中の様子をうかがっている、そんな感覚がリアルに生じる。
 腕の中の空間を通して、何者かが自分の体の中を探り、感じようとしている。「あちら」から「こちら」だ。

 このようにして身体と意識を重ね合わせていくことを、昔の日本人は鎮魂と呼んだわけだが、それに通じる概念を他にも見出すことができるだろうか?
 皮膚で覆われた空間内に意識がスッポリ収まり、その内部を動く流動が外形の変化として表われる、そういうあり方で身体運動が起こる時、私の脳裏をしばしばよぎるのは、日本古武道の「陰(影)」という言葉だ。影流、陰流、新陰流など、陰の文字を流派名に冠する流儀が古武道にはいくつもある。
 私は陰(影)流については何の知識もないし、自ら修業した経験もないので、それらの流派について論じる資格を持たない。だから、これから述べることは特定の流派に関する論評ではなく、あくまで一般論として聴いていただきたいのだが、「陰」とはどこから光を当てても常に影になるところ、すなわち身体の裡(うち)を表現する言葉として最も適当ではあるまいか? それは武術的に表現するなら、意識が身体にピタリと重なった心身統一状態だ。腰腹間の中心を基盤にして、常に全心身が調和し、最大の力と最高の速さを意のままに発揮できると同時に、手足の隅々にまで意識があまねく行き渡った、どこにも隙のない態勢だ。これは私が頭で考えたことではなく、自らの裡(陰)で今、現に生じている実感を、そのまま述べているに過ぎない。
 中国武術には外家・内家という概念がある。前者は筋肉的な力と速さで敵を圧倒しようとする武術、後者はもっぱら内的にエネルギーを運用し、静をもって動を制する武術とされている。太極拳や形意拳、八卦掌が内家武術の代表だ。こうした分類に意味はないと唱える中国武術研究家も多いようだが、再び一般論として述べさせていただくなら、内家とは陰(影)同様、身体内で力を流動的に処理する特殊なマインド/ボディ操作法を意味していたのではないか?

 統合された心身を体現した人間は、普通のやり方では掴み抑えることが非常に難しい。しっかり掴んだと思っても、次の瞬間、体の芯がぐにゃりと溶けてしまうような不思議な感覚が生じ、気づいたら床に転がっていた、なんてことになる。
 その実例の一端を、「グノーティ・セアウトン」第5回のムービー1で観ることができる。私は何かの技を使って相手を倒しているのではない。むしろ私は、いかにして「(余計なことを)しないか」の方に気を配っている。
 複数の相手が体のあちこちをギュッとつかみ、満身の力を込めてその場に固定しようとしている。それらの力を自らの身体内で総合的に感じ、侵入者のように荒々しくやってくるそれを柔らかく迎え入れ、響き合い、精妙な霊的ハーモニーの中へと一緒に溶け入ってしまう。・・・するとどうなるかは、ご覧の通りだ。
 相手の力を外側の空間に受け流すのではない。自分の体内空間に受け流すのだ。熟達すれば、全身のあらゆる場所で行なえるようになる。相手をゆっくり蕩(とろ)けさせるも、一瞬のうちに崩すも、意のままだ。

 言うまでもなく、これらは人を倒すことを目的とする術(わざ)ではない。いかに倒すかというDoing偏重の視点から自由にならない限り、私が説いていることは理会できないし、自ら体現することもできないだろう。
 ヒーリング・アーツにおいて倒す(現状を崩す)のは、新たに建て直すためだ。「健」という文字は、「人を建てる」と書く。
 ある術、道を、いかなる「意図」の元に学ぼうとするか、それによって、あなた方はそれぞれまったく異なるBeing/Doingへと導かれていく。

<2007.07.17 鷹及学習(たかすなわちがくしゅうす)>