舷側から下をのぞき込んで、じっと目を凝らす。
・・・私たちが日常慣れ親しんでいるものとは、まったく異質の世界が、そこに謎めいて拡がっていた。
その世界の空間は、空気の代わりに液体で満たされている。そこで私たちは息をすることができない。しかし、この異界の住民たちの大半は、液体を呼吸する術(すべ)を身につけている。
彼らの姿は、実に様々であり、色とりどりでもある。私たちとは全然似ていない。
この領域では体の重さが数分の1になる。だが、密度の高い液体が、私たちが敏捷に動作することを妨げる。
それは人間にとって、死がどこで待ち伏せしているかわからない危険な、と同時に、美しい世界だ。
・・・・・こうして書いてみると、まるで別の惑星の話みたいだろう? が、私は水面下の様子をありのままに述べているだけだ。
水面を境界として、そこから上が私たちの住み処(か)である地上世界、下が上述の海中世界だ。私には「地上」という言葉よりも、「海上」という言葉の方がしっくり来る。周知の通り、私たちは陸地の高さ(標高)を、海水面を基準として測定している。
海中をじっと見つめるという行為を改めて意識化し、レット・オフ・・・・・外側の世界として見ていた海が、今度は自分自身の身体内で感じられ始める。私たちの皮膚とは、海を我が身の裡に封じ込めるための境界面だ。私たちの裡には、確かに海がある。それは外側の海同様、海水に満たされて波打つ世界だ。
新・三種の神器(シュノーケル・セット)を身にまとい、船べりからそっと水中に身をすべり込ませる・・・・!!!・・・・・・・たちどころに、異質な、しかし私にとっては懐かしい感覚に全身が包み込まれる。
体中が波に覆われ、ゆったりしたリズムで複雑に揺さぶられている。
背中に南国の日差しを感じつつ、柔らかな波の抱擁にすべてを委ねながらじっと耳を澄ませば、海中の様々な音が聴こえてくる。波がぶつかり合う音、海底の小石やサンゴのかけらが転がっていく音、甲殻類がパチンと爪を鳴らす音、時にはブダイがサンゴをガリガリかみ砕く音まで聴こえてくることもある。
色鮮やかな熱帯魚たちが次々に登場して、私を出迎えてくれた。サンゴの周りをペアで散歩するチョウチョウウオの恋人たち、イソギンチャクのベッドでくつろぐクマノミ一家、ウツボやミノカサゴ、アカジンミーバイ(これがわかる人はかなりの沖縄通だな)・・・いずれも海面から差し込む複雑な光の波紋に彩られ、ダイナミックな生命の輝きに脈動しているかのようだ。
ウミヘビが優雅に泳いでいく。約3メートル潜行してウミヘビの斜め後方にぴたりとつけ、そっと手を伸ばしてその体と触れ合った。厚みのある鱗模様の感触と鞭のように波打つ運動感覚が、一瞬、我が指に残った。
海面より珊瑚礁を透かし見る。西表島近海、鳩間島の東にて。撮影:久保朋司
全身の力をすっかり抜いて波間を浮かび漂いつつ、時折手や足を細かく振るわせながら、肘や手指などの関節をわずかに凝集し、その抵抗感にまで振動が及んだなら、そっとレット・オフする。
海中に無限に溶け広がっていくような、陸上で練修したのではなかなか味わえない拡散感覚を、海に浮かびながらの稽古では比較的簡単に感得することができる。これを全身の各関節に応用していくと、その解放感たるや、透き通った明るい海と一体化して、自分という存在が消えてしまうかと思われるほどだ。
この、無限大の拡散感覚のまっただ中にて、静中求動・・・・・・・・自らの裡に無限に意識が内向し、瞑想状態が深まっていく。
古事記に記された伊邪那伎尊(イザナギノミコト)による禊祓いの神話的一場面を、自らの身体を通じて再現しているような感覚に、ふと襲われる。「このまま宇宙の中に溶けていければ本当に幸せだ」・・・死を目前にした肥田春充(肥田式強健術創始者)の言葉だが、私はその意味を自らの生理的感覚を通じて実感する体験を、とりわけ海の中で、これまで幾度も幾度も繰り返し味わってきた。
様々な珊瑚のグループが、海底で覇を競い合っている。熾烈(しれつ)なテリトリー争いを延々と繰り返しながら緩慢な成長を続ける珊瑚たちによる、複雑に錯綜し合った生命の一大闘争を物語る空間的絵巻、それが珊瑚礁だ。
あたり一面を覆い尽くす枝珊瑚の群生の上に浮かんで見下ろしていると、水面から差し込む無数の光条が珊瑚の上で踊り、光の風が草原をなびかせているみたいだ。
脇を凝集→レット・オフ。・・・・・・・・腋がスーッと粒子状に溶けるに従い、肩が溶け崩れ、胸が軽くなる。胸が空くとは、文字通り胸が空っぽになる感覚をいう。
粒子状に柔らかく検証してみればわかるが、いわゆるプレッシャーを感じた時、あるいは気負って何かをやろうとした時、そういう状況を想い起こしながら身体を観察してみれば、脇に無意識的緊縮が起こっていることを発見するだろう。
よく感じられないなら、肩に何か重いものを担ごうとして身構える、そういう体勢を実際に「演じ」て、その際における脇の粒子的変化を観察するとよい。脇を縮めることによって肩が隆起し、それを使って重さを支えようとしていることがわかるだろう。それも身体の仮想的使用法の一例だ。
その脇の凝集をもうちょっとだけ、ほんのわずかに強めておいて、それを手放す。脇の位置、形、向きを丁寧に感じることがコツだ。そのためには、実際に触れ合うしか方法はない。頭で考えただけなのに、「感じたつもり」になっていると、仮想をどんどん強化していくだけだ。
腋とか胸、肩が溶けるなどと私は書いているが、それが詩的な表現だなどと、私といまだ手合わせしたことがない皆さんは、どうか誤解しないでいただきたい。それは、本当に「溶ける」としか言いようがない感覚なのだ。胸の中に詰まっていた重さが、スーッと溶けて腰腹の間に沈み込んでいく。
スポーツでも芸道でも、「肩の力を抜く」ことの大切さがしばしば強調される。しかし、どうやったら肩の力を抜くことができるかについては、各自の工夫と経験に委ねられることが多いようだ。
ここでご紹介しているのは、肩の力みが直ちに抜けて、その場で熟達感覚を味わえるメソッドだ。前述の肥田春充は、「肩が凝るのは我(が)が強い証(あかし)」という言葉を残している。何かやりながら、脇をちょっと凝集してみれば、「我が強い」という言葉の意味がよくわかる。いかなる流儀を学び、熱心に練修しようとも、脇が無意識的に力んだままでは、我流とならざるを得ないのだ。
肥田春充はまた、次のようにも言っている。「平心とは何だ? 胸の力を抜くにあり」と。胸の力を抜いて平らかな心を実現する方法はいろいろあるが、脇からアプローチする修法は初心者がすぐに行なえて、しかも大きな効果を即座に体感することができる。
海中世界に戻ろう。
シャコガイの貝殻を何となく思い浮かべることができる人は多いだろうが、それが珊瑚礁のそこかしこに開いた神秘的な小窓のごとく、生きて太陽の光を身に受けている様を直接見たことがある人は、まだ少ないかもしれない。
その波打つふくよかな外套膜には、共生する褐虫藻(かっちゅうそう)によって蛍光色の模様が鮮やかに、なまめかしく描かれている。それは、いにしえの島々に暮らした女たちの肌に刻まれた入れ墨を、なぜか私に想い起こさせる。個体によって外套膜の色や模様がまったく違っていて、まるで水の精たちが自らの女性器を惜しげもなく、誇らしげにさらけ出し、ユニークな個性を称賛し合っているかのようだ。
こうして海で戯れていると、ヒーリング・アーツの多くの修法が海によって育まれた術(わざ)であることを、改めて強く実感せずにはいられない。
昔、中国武術を修業中の知人から面白い話を聴いたことがある。例えば長江のほとりに実際に立って太極拳を演じると、気分の変化といった言葉ではとうてい説明しきれないような、これまで味わったことがない特別な感覚がしばしば生じるというのだ。
あなた方は、大河をご覧になったことがあるだろうか? 私たちが「河、川」という言葉からイメージするものを、現実の大河というものは遥かに越えている。流れる水量、河幅、流域で営まれる人々の暮らしの多様性。いずれの違いも圧倒的だ。
私たちが風土から受ける影響は絶大なものだ。風水というのは元来、こうした人間/風土の相関原理を元にして、環境と人間とのバランス・調和をはかろうとする術(アート)だったのではなかろうか?
ヒーリング・アーツの深奥を極めたいと真摯に望むのであれば、時には海中世界を訪ねて心身を開放し、自然界から謙虚に教えを求めることだ。
珊瑚礁のエッジを越えると、突然あたりの雰囲気が一変する。
なだらかな傾斜を描いて前方へと沈み込んでいく海底をずっと目で追っていく。その先に拡がっているのは、青の中の青(ブルーエスト・ブルー・イン・ブルー)の世界だ。海面から差し込む太陽光は、もはや海底に複雑な光の模様を描くことはなく、直線で構成されるパターンを海中に浮かび上がらせつつ、青の世界の彼方へと呑み込まれて消えていく。
呼吸を調え、まずは水面下5メートルあたりの海底を目指す。
ハイパーベンチレーション(過呼吸)を使えば、通常よりも遥かに長い時間、水中に留まることが可能となる。ただし、限界ギリギリの潜水を繰り返すと、浮上直前にブラックアウト(失神)を起こすことがあるので無理は禁物だ。
呼吸のタイミングを図って、水面で腰腹を縦に90度回転させる。この流れを水の抵抗感と溶け合わせて調和させれば、頭が自然に下向きになり、脚が海上に持ち上がって倒立体勢となる。そのまま、引力に全身を任せれば、力をほとんど使うことなくほぼ一瞬のうちに真っ逆さまに2〜3メートル潜行することができる。このコツが呑み込めないと、ここまでの段階で酸素の大半を浪費してしまい、それ以上深く潜ることが難しくなる。たいていの人は腰腹から動かず、頭を直接下げようとするので、上半身が水の抵抗をまともに受けてしまう。
垂直に潜行する勢いに乗って、焦らず慌てず、ゆったり脚を波動させて足から波紋を発する。この波紋によって私たちは水中を進むことができるのだが、人間の足に水の中で機能するこうした能力が秘められていることは、考えてみれば興味深いことではなかろうか? それは、本来陸上用のツール(足)を水中で使ってみたらうまく働いた、というだけのことなのだろうか。それとも進化の過程で得た能力が、陸上に暮すようになった今もまだ保存されているのだろうか。
ちなみに、身体の前面だけを意識して、やたらに足をばたつかせても、自然で有効な推進力は発生しない。すぐに疲れてしまう。身体の背面と前を同時に意識してクロスオーバーすれば、意識が身体内に納まり、体が波紋そのものとなったような感覚が起こって、柔らかな足のキックで力強く、滑らかに前進していくことができるようになる。
ところで読者諸氏の中には、もしかすると「揺れ」を「流れ」と誤解している人がいらっしゃるかもしれない。あなたは2つの言葉の違いを、身体感覚において明瞭に区別できているだろうか? 流れがわかっている者は揺れもわかる。揺れしかわかっていない者は、流れを理会できない。
別の言葉で説明してみよう。
これまで私が働きかけてきたほとんどの人々は、「流動的に動く」という行為を、外側の空間に揺動を起こすことであると誤って認識していた。
あなた方も、今一度慎重に確かめていただきたい。もし、意識を体の外の空間に投影し、そこに流れを感じ導こうとしているとしたら、それこそが仮想身体の始まりと知るべきだ。
あなたは、自分が流れるように動いていると仮想している。そして、自分が流動感覚を味わっていると錯覚している。実際には、連続的な動きはマインド(思考)の中だけで起こっていて、あなたの身体内では分断された流れが諸所で葛藤を起こしている。そういう部分的かつ不調和な身体感覚を、私たちは一般に「流れ」と呼んでいるのだ。
ヒーリング・アーツにおける流れとは、私たちの内面、すなわち皮膚によって閉じられた空間内において感じられるものだ。皮膚という境界面で囲まれた裏側の世界、すなわち私たちの身体内に自在に波紋を起こし、流動感覚を生じさせるための初歩の術(わざ)を手ほどきしよう。
右手で左前腕にヒーリング・タッチ。ヒーリング・アーツでしばしば使われる基本形だが、どれくらい柔らかく触れ合うものか、私はこれまで折りに触れて、その都度表現を変えつつ、何度も繰り返しあなた方に説いてきた。にも関わらず・・・そういう説明をしっかり読み込み、自分なりにあれこれ実践した上で、初心者が初めて私と直接向き合い、互いの掌をそっと柔らかく触れ合わせようとすると・・・(私にとっては)ものすごく固く、強く、ギューっと押さえつけてこられてびっくりする、ということがしばしば起こる。
もっと柔らかく、まだ力が入っている、もっと、もっと・・・・もっと・・・・。「えっ、こんなに柔らかでいいんですか・・・?」と驚くくらいで、ちょうどよいのだ。
ヒーリング・タッチの間に2枚重ねのティッシュペーパーを挟む。その端をつまんで引き出せるくらいの圧力が、ヒーリング・タッチの基本であり、そこから凝集すると引くことができなくなり、レット・オフするとまた引けるようになる。
あらかじめ前腕と掌を亀の子タワシで柔らかく、しっかり、体表面に沿って滑らかに摩擦しておくと、皮膚感覚が鋭敏になって凝集・拡散感覚を粒子状に感じ取りやすくなる。
右手の裡を柔らかく凝集し、レット・オフ。これを何度か繰り返す。粒子状に凝集していったものが、反転して散り拡がっていき、それが再び反転して凝集へと転じる。呼吸のごとく、潮の満ち引きのごとく・・・。
改めて、右手と左前腕との触れ合いの感覚を意識してみる。右手指先から感じたり、指の付け根で感じたり、あるいは親指から感じたり・・・様々な方向から触れ合いの境目を感じてみて、それらの感覚や方向性をクロスオーバーしていく。・・・・と、「実際に(左腕の)空間を掴んでいる」感覚が顕われてくる。その空間は、右手と完全にシンクロして凝集・拡散する。一方が「した」のではない。もう一方が「された」のでもない。ゆえに、私はそれを響き合いと呼ぶ。
さて、左前腕内の空間が感じられてきたら、左手の指で一指禅だ。いずれかの指を柔らかく差し伸ばし、それをさらにピンと張ろうとして、レット・オフ。これをゆっくり繰り返す。
右手で掴んでいる空間内、すなわち左前腕の裡に、はっきりした流れが感じられ始めただろうか? それが一指禅によって生じる流動(波紋)だ。別の指で行なえば、別の流れが起こる。2つ以上の指で行なえば、流れが共鳴し合ってオフのハーモニーが奏でられる。こうした内的流動感覚を、ヒーリング・アーツでは「流身(りゅうしん)」と呼んでいる。
もう少し深く行ってみよう。
まず右手の裡を凝集→レット・オフし、その拡散状態の中で左指のワンフィンガー・ゼンを行なう。
あるいは、左指を差し伸ばしておいて、右手を凝集、そして左指をオフにしながら右手をレット・オフするなど、様々な組み合わせを試してみると面白い。
慣れてきたら、前腕だけでなく、上腕や胸、腹、さらには脚、足など、手が届く限り全身のあらゆる箇所と片手で触れ合い、もう一方の手で一指禅を行なう。・・・・外側からはほとんど見えないような、指1本のごくごく微かな操作だけで、身体内に実際に流れが生じることを確認できるだろう。
慣れれば、任意の箇所、任意の方向に自由自在に流れを起こすことができるようになる。静中求動を常に心がけるが、溢れこぼれて自ずから身体運動として顕われてきた時は、逆らうことなく身を任せる。その場合、充分動き回れるスペースをあらかじめ確保しておくことはいうまでもない。
先ほど私が呈示した疑問の答えも、今や自ずから明らかになったと思う。
人の足・脚にはなぜ水中で機能する推進力が備わっているのか? ・・・・・問いかけそのものが間違っている。私たちは水中で行動する原理を使って、陸上で活動しているのだ。その行動原理がすなわち、私の言う「流身(りゅうしん)」だ。
まずは、ここまでの段階をしっかり練修し、身体の隅々に流れを通していくことだ。習熟してくると、まるで何頭もの龍が身体内を自在に泳ぎ回っているような感覚と動きが顕われてくる。それが龍の身体、ドラゴンズ・ボディの第1段階だ。
すでに気づいた方もいるかもしれないが、労宮を中心としてこの修法を行なえば、行ったり来たりという単調な流れが、身体内を複雑に巡る循環へと昇華される。こうした循環を起こす術を周天法と呼ぶが、余力のある方は徐々に試み始めるのもよいだろう。
道教の教典には、「真夏に雪が降り、水が上昇する」といった、知的な理解を拒む表現がしばしば登場する。
身体内の循環が感じられ始めると、こうしたパラドックスが身体の生理的感覚として自然に「理会」できるようになってくるから面白い。循環とは、ぐるぐる巡る流れの中に身を置くかのように、意識が上がったり下がったり、右に行ったり左に行ったりすることを意味するのではない。一方が上がっている時、他方は下がっている。その上昇と下降を同時に、均等に感じている超越的状態、それが周天だ。
日本最小の蝉、イワサキクサゼミ。草の汁を吸う。
<2007.08.09>