Healing Discourse

ドラゴンズ・ボディ [第5回] ヒーリング・ウェイ

[フォーミュラ1] 
 立位で左右の腰骨(腸骨)をパートナーに両手でしっかり掴み抑(おさ)えてもらう。この抑圧状態で腰を柔らかく動か(そうと)しながら、自分の両腰にヒーリング・タッチ(パートナーの手の上からでも構わない)。そして手の裡を凝集→レット・オフ。

 一枚岩のようにひと塊だった骨盤の中央(仙骨周辺)が、突然ふわりと溶けて透明になったような実感が生じる。外側から加えてくる相手の力は、腰中央の裡なる空間で柔らかく溶かされてしまい、どこにも滞らない。
 骨盤まわりを強く押さえつけられて身動きが取れなかったのに、今は自由だ。掴む側は支えを失ったように力が入らなくなる。数人がかりで掴んで抑えてみても同じだ(ヒーリング・ムービー#3も参照)。
 1枚の板の左右をしっかりつかまえていたと思ったら、その板の真ん中がふわりと消え、2枚の板が左右それぞれの手に残った・・・実際に板を持つ格好をして、そういう状況を自分で造り出してみると面白い。

 この道の経験が浅く、私という人間についてよく知らない皆さんの中には、今、ためらいを感じていらっしゃる人がいるかもしれない。「(見えない板を持つ格好をするなんて)何だか、莫迦か間抜けみたいに見えるじゃないか」・・・と。しかし実際にやってみれば、私の伝えんとするところが、すぐ理会できるだろう。
 しっかりつかまえていた板が2枚になり、「支え」を失った瞬間、あなたの腰には一体どんなことが起こっているだろうか? 粒子状にゆっくり、何度も行なって確かめてみるといい。この道は、ひたすら実践を尊ぶ。そして、直接触れ合い、感じて、知ることを重んじる。

 言葉を通じてあなた方が頭で想像するものと、いやしの触れ合いの中で触覚を通じてあなた方が体験するものとは、まったく異なっている。
 だから、このディスコースも、その内容を実際に行ない、自らの糧にしていこうと望むのであれば、ここに書かれているのはあくまでも実践のためのヒントに過ぎないことを、いつも覚えておくことだ。
 己自身の感覚、すなわちあなた方1人1人が自分自身の「裡」で感じるものを、常に修練の中心に据えるべきだ。
 私の文章や様々な人々の体験記などから、「こうなるはずだ」、「ああならねばならない」といった先入観を造り上げないこと。それらはすべて、あなたが自分自身を発見していくプロセス(道)における障害となる。

 話を腰に戻そう。
 今私が説いているのは、仙腸関節のたまふり法だ。これによって、骨盤中央にある仙骨の左右が「溶ける」感じが起こってくる。そこから温かい(時に熱い)微細振動が滾々と湧きあふれてくる。
 この修法を行なえば、骨盤とは元来ひと塊のものではなく、仙腸関節の部分が柔らかく波打つように動くものであることがわかる。あらゆる姿勢、動きにおける骨盤のBeing(あり方)が根底から変容を遂げる。
 これはスポーツ等で一流選手の資質とされる、「二枚腰」とか「粘り腰」に相当するものなのだろうか? 
 私にはわからない。というのも、腰の何が2枚で、どこがどのように粘るのか、具体的な説明に出会ったことが、私はこれまで1度もないからだ。
 解剖学においては、仙腸関節はほとんど動かない半関節であるとされている。しかし、骨盤開放のフォーミュラを正しく実行すれば、あなたは仙腸関節に「粘り」が実際に感じられることを発見して驚くだろう。
 これまであなたは骨盤を、知識ではなく身体感覚において、いくつのパーツによって構成されていると「感じて」きたろうか? おそらく大半の人の答えは、「1個(ひと塊)」だろう。これもまた仮想身体の実例だ。実際には骨盤は仙骨、尾骨、寛骨(腸骨、座骨、恥骨)から成り立っている。

前方斜め横から見た女性の骨盤。

 仙腸関節の開放を日々励行していくうちに、「粘度」がだんだん低くなっていき、ついにはほとんど抵抗を感じないまでに至る。骨盤が内部から溶けて拡がっていくような感覚と共に、2枚の腸骨が左右でユラユラ揺れているのが自覚できるようになるまでに、それほど時間はかからない。
「これこそまさに二枚腰ではないか」——この修法を学んだ誰もがそう感じるようだが、それが一般に二枚腰と呼ばれる状態に通じるものなのか否か、前述した通り、私は知らない。

[フォーミュラ2]
 左右の腸骨に手を当て、ゆっくり悠然と歩きつつ、手の裡を凝集→レット・オフ。

 左右の腸骨と柔らかくそっと触れ合っている手の凝集が作用し、仙腸関節が締めつけられていく。この時、自分がどうやって歩いているか、じっくり観察してみよう。
 左右の足・脚が交互に前方に振り出され、骨盤(及び上半身)を運んでいっているだろう。ごく普通の歩き方といえる。
 ここから、両手をレット・オフするとどうなるか・・・? 
 腸骨の間が溶け、その溶けた感覚が前へ進んでいく。というよりは、スーッと滑らかに前方へと位置を移していく。まるで腹(の内側)から歩いていくみたいだ。
 両脚・足は、わずかに遅れて自然についていく。今や、腰腹の方に移動の主体が移った。足に引っ張られていたものが、今は足を従えている。これが単なる言葉遊びだなどと、くれぐれも誤解しないように。

 かつて琉球王家の長男のみが学ぶことを許されたという秘伝武術・御殿手(うどぅんでぃ)には、「腹から歩く」という要訣がある。「歩く」ことをとりわけ重視するこの武術は、舞のように動いて敵を制し、敵を制する動きが即、舞となる境地を奥義としている。
 私は青年時代、御殿手宗家・上原清吉(せいきち)先生を沖縄に訪ね、舞の手を実際に見せていただいたことがある。
 当時83歳の上原先生は、快く私を迎え入れ、早朝の特別稽古見学を許してくださった。壮年の屈強な師範らが両手に武器を持ち、あらかじめ何の約束事もなく、上原先生に激しく斬りかかっていく。・・・と見るや、次の瞬間には死角に入られ、あらがう術(すべ)もなく取り押さえられ、あるいは地面に転がされてしまう。上原先生は、ただ無造作に歩いているだけとしか見えない。どこにも力みはなく、あくまで柔らかく・・・。まさに<武の舞>だ。
 稽古終了後、食事までご馳走になったが、その際上原先生は「自らの道を探し、開きなさい」と私の探求の旅路を祝福し、激励してくださった。そして「舞」、「歩み」、「柔らかさ」の重要性を指摘された。その教えは、現在のヒーリング・アーツに全面的に活かされている。
 具体的な技術(Doing)を習ったわけではない。が、全身全霊をもって向かい合うことで、私は上原先生の「姿勢(Being)」から多くを感じ、学び取った。
 人は、自分が感じたことだけを行なうことができる。・・・これは、私が多くの人々とディープに、真剣に、長期に渡って触れ合ってきた経験を元に集約したヒーリング公理の1つだ。深く感じられない人間は、あらゆる動作が平板で粗雑だ。深遠ないやしを経験したことがない者は、他者を深くいやすことはできない。

本部御殿手宗家・上原清吉先生による武の舞。宜野湾市・中城(なかぐすく)城趾にて。

 骨盤を開放しながら歩くと、上体がほとんど揺れず滑らかに移動していく。そういう風に「腹から歩いて」いる人は、何らかの心身修養の道を歩みつつある人間であると一目でわかる。
 逆に、骨盤をひと塊のものと仮想し、仙腸関節の可動性に対して無意識的なまま日常生活を送っていけばどうなるか? 歩きながら、骨盤を極度に凝集してみれば、すぐわかる。
 骨盤が硬直して縮んでいき、本当にひと塊になる。すると腰が曲がり、小股でよろよろと、棒のように脚を運んでいくしかなくなる。街中で高齢者がそういう歩き方をしているのをしばしば目にするが、それは骨盤に無関心のまま人生を送っていった場合の、私たちの未来の姿にほかならない。
「骨盤はひと塊だ。ひと塊だ。ひと塊だ」と、無意識下で念じ、信じ込み続けることで、ついにそれを現実のものとしてしまう。これはある意味で、自分自身に呪いをかけることに等しい。そういう自己呪縛で全身が雁字搦(がんじがら)めになっているのが、私たちの実情だ。

 骨盤の硬化と老化とが対応し合っていることは周知の事実であり、上記の修法を行なえばそれを如実に感じることができる。だから、骨盤を和らげつつ腹から歩くことは、老化防止法ともなり若返り法ともなるのだ。今回ご紹介した各種修法をよく練修すれば、誰でも「腹から歩く」ことができるようになる。
 人は歩く生き物だ。歩くことは、人間にとって最も本質的な行為の1つであり、歩く相(すがた)にその人のすべてが包み隠さず顕(あら)われる。
 どうやれば正しく歩けるか、どういう歩き方が正しいか、そんなことを私はあなた方に教えているのではない。歩くことの裡にあるBeing(あり方、存在様式)に対して、私はあなた方の注意を促している。
 私が説いているのは、人生の歩みをヒーリング・ウェイへと変容させる道だ。

 仙腸関節を開放すると、そこから野生動物のようなしなやかさ、柔らかさがあふれ出てくる。この場所には、人間の中で最も野性的なエネルギー、セックスの中枢がある。
 セックスを恥ずかしいもの、隠すべきものと思い込めば、直ちに仙腸関節がキュッと閉じる。セックスのエネルギーを押さえつけ抑圧するためには、そうやって骨盤を閉じなければならない。
 何かエロティックなことをイメージしながら、仙腸関節をヒーリング・タッチで凝集してみるといい。性的興奮をほとんど、あるいはまったく感じなくなる代わりに、仙骨各部や骨盤内に強い圧力の高まりを覚えるだろう。それが性的抑圧の感覚だ。

 これをレット・オフし、静中求動を心がける。・・・と、凝縮された性エネルギーが開放され、外へと向かう通常のルートとは正反対の方向、すなわち「裡」へと内向し始める。
 同じセックスのエネルギーだが、方向だけが正反対になっている。いったん外側に出て、180度向きを変え、それから内側に向けるのではダメだ。その場合、根の部分がいまだ外側に向かっている。
「外向」がそれ自身の内で反転した時にのみ、「裡(内)」への逆流が起こる。
 それ(レット・オフ)は「起こる」のであって、「起こす」ことはできない。が、イザナうことは可能だ。
「する(注意が外に向かう)」ことの根源まで遡り、その原点で手を放し、オフにした時、新たな世界の扉が開かれる。
 自分が開いたのではない。ただ、ノックしただけだ。そして待っていると、扉が向こうから開く。今度は自分がその中にイザナわれていく。自分からは何一つしようとせず、ただ「ある(Be)」がままに任せる。ただ、受け入れる。

 セックスを、あるがままに受け入れた時の感覚は素晴らしい。実際にやってみるとわかるが、事前の予想は完全に裏切られ、ドロドロした嫌らしさ、隠微さ、渇望に駆り立てられ、せき立てられるフィーリングなどは微塵も感じられない。
 ただ明るい。ただ清々しい。ただ柔らかで穏やかだ。しかも勁(つよ)い。そして美しい。
 セックスは悪いもの、恥ずかしいもの、そういう思い込みは仙腸関節のブロックと密接に対応し合っている。
 男も女も、小さく引き締まった貧弱で薄っぺらな腰回りが良しとされる私たちの社会は、性的な抑圧が非常に強い世界といえる。そういう世界では、野性的で強靱な生命力は抑圧されざるを得ない。行き場を失った野生はエネルギーを蓄積し続け、ある日思わぬ場所から、思わぬ形となって噴出することとなる。国家や民族のレベルでそういうエネルギーが蓄積していくと、不和や戦(いくさ)を招き寄せることになるのかもしれない。

 * * * * * * *

 私は今、沖縄県の西表島(いりおもてじま)に来ている。
 夜の木立の中、心を鎮めてそっとたたずみ、皮膚を全方位に向けて開放してみる。・・・と、暗闇の中で何ものかがじっと息をひそめてこちらを伺っている、そんな気配が周囲からドッと押し寄せてくる。
 ほとんど圧力に近い感覚として、全身の体表面で感じられるこの気配こそ、西表島独特のヴァイブレーションであり、私にはとても懐かしいものだ。
 かつて西表島を頻繁に訪れていた頃、毎日のように深夜の海岸や森、藪の中へと分け入り、アダンの実を狙うヤシガニや危険な毒を秘めたサキシマハブ、マングローヴの根元に身を潜める巨大なノコギリガザミ、翼を拡げると1メートル近いオオコウモリ、満月の下(もと)で海に放卵するオカガニの群れなど、様々な夜の生き物たちと出会った。
 時として畏怖の念を覚えるほどの、濃密にして神秘的な生(いのち)の気配に身を浸す歓びを私に教えてくれたのが、この島だ。
 私の探求の旅はここから始まった。18歳で初めてこの地を踏んで以来、今回で何度目の訪問になるのか、数えようとしてみたがよくわからなかった。1年の間に何度も足を運んだ時期もあるし、1回の滞在期間が数ヶ月以上に及んだこともある。
 大自然というアシュラム(道場)で、武術のトレーニングや瞑想に打ち込んだことは、現在のヒーリング・アーツの在り方に多大な影響を及ぼしている。
 次回からは、学びの「場」を西表島に移し、この地特有の生(いのち)のヴァイブレーションを織り交ぜつつ、ドラゴンズ・ボディについてさらに説いていくこととしよう。

全身を細かく振るわせて放卵するミナミオカガニのメス。海に放たれた卵は瞬時に孵化し、ゾエア幼生が生まれ出る。

<2007.07.14>