雨雲は、頭上を覆う緑の天蓋をしばし打ち鳴らし振るわせた後、裡に含み孕(はら)んでいた水を大地へと捧げ尽くし、重さから解き放たれて軽やかに拡散し始めた。
西表島、浦内川(うらうちがわ)上流の亜熱帯の森。
むせ返るような暑さに、あたりが満たされる。たちまち全身から汗がじわじわと滲(し)み出てきた。
山道のすぐそばまで迫る密林の葉が、枝が、蔓が、天上から惜しげもなく振りまかれた甘露を受けて甦ったかのように、活き活きと、鮮やかに、喜ばしげに、無形のダンスを踊っている。
発酵した落ち葉の匂いや植物が発散するフィトンチッドなどが混じり合って、その森独特の「気」が醸成される。そのまっただ中に浮かび漂うようにして、感覚を開放する・・・と、大いなる静けさと安らぎに、全身丸ごとが浸されていく。
そんなことは、感覚が鈍い自分にはとうてい感じられそうにない、・・・そんな風に簡単に言ってのける人が多い。あなたが自分でそう決めつけ、言い張るのなら、私にはこれ以上言うことは何もない。
が、それほど自分のことがよくわかっているとは大したもんだ。私なんか、自分にどれだけのことが感じられ、できるのか、いまだにそれがまったくわからない。まもなく47歳になろうとしているが、日々新しい感覚が開かれ、新しい術(わざ)が使えるようになり、ヒーリングへの理会が深まりつつある。
昨日は凄い境地が開かれた・・・と思ったら、今日はそれがあっさりと超えられてしまう。毎日がそういう繰り返しだ。
例えば花の香りをかぎながら、手の裡を柔らかく凝集→レット・オフするだけでも、「嗅ぐ」という行為が粒子的となり、情報量が圧倒的に増大する。生きるという行為に、これまでになかった新たな質がクロスオーバーされる。それは、生がより多層的に、豊かになることを意味する。
触覚神経のセンサーは元来、皮膚面と直角に向かい合っている。
にもかかわらず、例えば上腕の皮膚と触れ合った際、そこが実際と違う角度に傾いて感じられる状態、これが仮想身体だ。
本来であれば皮膚面に直角であるはずの触覚神経が、何らかの理由によって斜めに引き攣(つ)れている。その余分な圧迫が神経信号にノイズを混入させ、脳内で構築される身体像を歪める。それが仮想身体だ。
皮膚という境界面に囲繞(いにょう)された空間内で、骨格は弾力のあるロープ(腱)や布(筋膜)によって絶妙なバランスのもとに吊り上げられ、吊り下げられている。その上と下が調和した状態を保ちつつ、全体的統合の元に筋肉がそれぞれの働き(オンかオフ)をなす時、「運・動」が起こる。ヒーリング・アーティストにとって、運も動も共に裡なる流れを表わす言葉だ。
この自然なムーヴメントに対して、脳が考えたイメージに基づく指令が運動神経に発せられ、身体本来のあり方との間で葛藤を引き起こす。これが仮想身体だ。
* * * * * * *
行き来する者同士がすれ違うのにも困難を覚えるほどの狭い山道を、この先で私たちを待つ聖地目指して歩き続ける。・・というよりは、聖地へと至る流れ、彼の地からの呼びかけに全心身を委ね、その流れに乗ることを常に心がける。すると、聖地への歩みの1歩1歩が禊祓いとなり、ヒーリングとなる。それがヒーリング・トリップ(巡礼)だ。
[フォーミュラ1]
山道を歩みつつ、骨盤の左右に両手を柔らかく充(あ)てて凝集→レット・オフ。
とたんに腰の間が溶けて消えたようになり、身体が軽やかに前に進み始める。実際に歩いてみるとわかるが、山道というものは、街中ではあり得ないような複雑至妙の刺激を足に与える。グニャグニャ、あっちに傾き、こっちにねじれ・・・そういう態勢で骨盤の関節を開放すると、どうなるか? そういう修法だ。
仙腸関節のみならず、前方の恥骨結合でも凝集→レット・オフを感じてみる。・・・・・・・骨盤が締まる(閉じる)のがハッキリわかる。骨盤全体がギュッと圧縮されて、明らかに小さくなる。まるで深い海の中にいるみたいだ。この圧縮状態をレット・オフで開放すると、どんなことが起こるだろうか? 直ちに試してみる。
・・・・・!!!!・・・・・腹の奥底から、丸太のように太い透明な流れの束が、真っ直ぐ前方へ向かって突き出されるようにドッと湧き溢れこぼれる。それによって歩みが起こる、そういう状態へと歩くことの質がシフトする。まさに、「腹で歩く」だ。
[フォーミュラ2]
悠然と歩む。そうしながら、脇を凝集→レット・オフ
骨盤をオープンにして歩きながら脇を開放すると、腕が肩からぶら下がったロープみたいにユラユラ揺れ始める。
前回説いたように、肩・胸の硬さは脇の無意識的/慢性的な緊縮と対応し合っている。
脇が硬い人は、歩くとき腕が棒のように振られる。実際にやってみるといい。歩きながら脇を凝集すると、腕が本当に棒みたいになるから、あなた方も面白くて笑い出すだろう。
そこから脇をレット・オフすると、肩・胸の力がスッと抜けて再び腕がブラブラ揺れ始める。そこから脇を再び凝集・・・たちまち、腕が棒になる。
肩から上腕へと丁寧に触れ合い、そっとなで回しながら、掌と上腕とが触れ合っている感覚を、その箇所そのもので感じていく。難しければ、口や耳など、比較的意識しやすい箇所からスタートして、感覚を体表面に沿って拡げていくといい。亀の子タワシによる摩擦は大いに助けになる。
上腕の体表面と可能なかぎり触れ合っていき、その感覚をつなげ、上腕の形が徐々に顕われてきたなら、その複雑なフォルムに初めて気づいてあなたは驚くだろう。あなたはこれまで、自分の上腕を単純な円筒形であるかのように仮想していたのではないか?
しかも、よくよく感じてみると、その仮想の上腕と実物のリアルな腕とは、角度が違っているようだ。
それについて確かめるために、上腕骨を筋肉ごしにつまみ、その空間性(骨の形)を触覚で丁寧に感じてみる。・・・・手がつまんでいる空間内で(仮想の)上腕骨が角度を変える感覚が起こり、リアルな本物の上腕骨が顕われてくる。本物と触れ合っている、という確かな実感が生じる。
上腕の中に意識が通ってくる。上腕というものが初めてトータルに感じられるようになる。何度体験しても、仮想の呪縛が破れて実体が出現する時のこの感覚は衝撃的だ。
脇が縮むと腕が棒になる。同じことが、骨盤と脚についてもいえる。
だから脇と骨盤の開放は、何の目的でどんな風に手足を動かそうとするにせよ、私たちが常に心がけるべき身体のトリートメント(手入れ)法の1つとなる。
ロシアの神秘家・グルジェフは、「人類の大半は機械だ」と言ったが、単に意識の面のみならず、身体感覚についても述べていたのだろう。なるほど、ユラユラ揺れる流動的で自由な真(まこと)の腕と比べれば、仮想の腕は無機質なロボットのアームみたいに感じられるではないか。
以前、手が前腕の橈骨(親指側の前腕骨)のみとつながっている事実について語った。尺骨は手首付近で橈骨と関節を成しており、手首側から見ればまるで橈骨の付属物みたいに見える。
ところが肘側から見ると、上腕骨と肘関節を成しているのは尺骨のみであり、橈骨は上腕骨と直接つながっていないという(おそらく大半の人にとって)驚くべき事実が判明する。
私たちの多くは、上腕が橈骨につながっているものと、なぜか仮想している。先ほど、上腕にヒーリング・タッチしてその位置と角度を意識化していった際、あなた方が感じた主観と客観のズレは、この仮想に淵源していたのだ。
上腕骨をしっかり持ち、ゆっくり柔らかくユラユラと振り始めれば、やがて尺骨へと振るえが及んでいくことを体感できるだろう。前腕や手そのものを無意識的に振ってしまわないよう注意すること。
前腕、上腕をヒーリング・タッチで交互に優しく包み込み、前回終盤で紹介した修法を試みる。すなわち、つかまれている側の手指でワンフィンガー・ゼンを行なう。
例えば肘を曲げた状態で腕の中に流れが生じる時、上腕の流れは上腕内部を、前腕の流れは前腕内部を動いていく。ごく当たり前のことだが、実際に行ない、自分自身の身体を使って調べてほしい。
曲げた腕の中をそのように屈折しながら流れる2方向の動きが、「同時に」感じられるという体験を、あなたはこれまで味わったことがあるだろうか? パートナーに前腕と上腕を同時にヒーリング・タッチされた状態で一指禅を行なえば、私がここで語っていることがさらに明瞭に理会できるだろう。
[フォーミュラ3]
歩みながら、尻にヒーリング・タッチして意識化。
尻の中で骨盤のパーツがバラバラにほどけ、ユラユラ揺らめいている。まるで柔らかな風にそよぐ花びらのようだ。
尻が開かれて初めて、私たちは自分が真っ直ぐ直立しているのだと、全身的に感じることができるようになる。骨格と引力との関わり方を、身体内で生理的に実感することが可能となる。それ以前には、「直立」の真の意味を体で理会することはできない。
偉大な人物や神々を、かつての日本では「柱(はしら)」という単位で数えた。「真っ直ぐに(柱のように)立つ」感覚を体験すれば、日本人独特の身体/言語感覚が自らの裡に甦ってくる。
[フォーミュラ4]
様々な態勢で骨盤を凝集→レット・オフ
座位、立位、椅座(椅子に座った体勢)、あるいは床に寝ころんでもいいが、姿勢を様々に変えつつ仙腸関節・恥骨結合をヒーリング・タッチで解放していくと、興味深い事実を発見するだろう。私の言葉を聴くだけでは意味がない。あなた自身の身体において、あなた自身が新たに発見しなければならない。
骨盤が開放された状態から動き始めると、ほどなく骨盤が締まってくる。そこでヒーリング・タッチで再び解放、そして動こう・・・としたら、もう固まった。
いろいろな動作で試してみるといい。あなた方が毎日よくやっていることも、詳細にチェックしてみれば、やはり骨盤を固めるような体の使い方をしていたことが明らかになる。
力を出そうとする際にも、ほとんどの人は骨盤を締めつけている。しかも、偏って締めている。そういうやり方で出るのは、部分的で偏った筋力のみだ。
[フォーミュラ5]
力を出(そうと)しながら、骨盤をトータルに凝集→レット・オフ。
押す、引く、持ち上げる、抑える・・・何でもいいから、力を入れながら、骨盤の全関節を同時に、均等に、凝集→レット・オフ。
最初は粒子状にゆっくり、柔らかく行なう。骨盤の関節をオフにした後、外形を変えないよう心がければ、その姿勢動作における身体内の力学的バランスが組み換えられていく。つまり、身体のどこがどのように働いて必要な力が必要な方向に作用するか、その「あり方」がまったく変わってしまう。
いかなる動作であれ、骨盤がギュッと閉じる感覚がしたら、その際の姿勢をチェックし、ヒーリング・タッチで調整していくことだ。すると、身体の外側の空間へとバラバラに働いていた力が、すべて内向して身体内に収まるようになる。腰腹間に自然な緊張が、四方八方から球状に集約し始める。
いわゆる「煉丹(れんたん)」のプロセスは、ここから始まる。煉丹術とは中国の道教に伝わる秘教的ヒーリング・システムであり、生命力のエッセンスを凝縮して結晶化させ、心身の活力を極限まで高めていこうとする修法だ。
骨盤を開放した際に、ゴルフボール大程度の「力学的無形の緊張」が下腹の奥ではっきり感じられるようになってきたら、あなたにも「それ」が起こり始めたということだ。結晶化という言葉が比喩ではなく、現実の身体感覚であることをあなたは理会するだろう。
ディスコースでこれまで説いてきた内容を一通り体得した人なら、私がちょっと手助けすれば、比較的短時間で(時にはその場で直ちに)腰腹間に生じる球状緊張を感得することが可能だ。
心身修養の新たな段階が、ここから始まる。
* * * * * * *
木々の向こうで響く浦内川の水音は、道中、時にすぐそばで大きく聞こえたかと思えば、遠ざかってかすかになったりすることを繰り返していたが、それは今や前方にあって、賑やかに弾けるような音を盛大に立てている。
いきなり視界が開けた。下ではなく横へと拡がっていく大小の滝が、約300メートルに渡って連なっている。「神々の座」の名を持つ聖地・カンピレーの滝だ。
なだらかな岩場を慎重に伝い降りて、流れのすぐそばまで近づく。そしてかしわ手を打ち、たまふり法で心身を全開して、あたりの岩場一帯に響き渡る滝のヴァイブレーションに身を浸す。
全身全霊で音と共に振るえる。・・・・・これも滝行の一法だ。
水はここから渓流となって密林の隙間を割り拡げつつ下っていき、マングローヴ林の緑の壁の間を蛇行した後、海へ注ぎこんで大洋と結ばれる。
妻が最近作曲した『カンピレー』は、こうした流れや循環の動きが、音楽として結晶化した作品だ。
カンピレーの滝
・・・・・・私は今回、神々と出会うために西表島を訪れた。
海と山での禊祓いを済ませ、カミ(精霊)と対面する準備は整った。
<2007.08.11>