◎荒行で剛的な締まりを極限まで追求していくと、そのピークにおいて真のリラクゼーションが現われ始める。それはフニャフニャした単なる柔らかさではない。
◎ゴータマ・シッダールタも長年の荒行によって自らを締め上げていった末、自然に「ほどけ」てブッダ(ほとけ=仏の語源)となった。このような「ほどけ」のプロセスを、<強調→レット・オフ>のインナー・テクノロジーを応用して自然に、無理なく引き起こす手法が「レット・オフ」だ。
◎ヒーリング・アーツは、地球神道であると共に、宇宙仏法(ほどけの法)でもある。
◎オフをなぜ強調するかといえば、現代社会においてはあらゆるものごとがオンの位相に偏っているからだ。
同様の理由で、ヒーリング・アーツでは女性原理を重視する。それはある意味で、女神的なるものの復権を讚える道といえるかもしれない。
◎しない(しようとすることを抑圧する)のではなく、することをほどく。作為的に押し広げようとするのではなく、ただ自然にほどけるに任せる。それが起こり得る状況を造り出す。
これが無心へと通じる。
◎その、「きざし」が起こるのを静かに、厳粛に見守り、待つ。すると、「それ」が起こる。
◎予断、予測は、現在のオンの流れの延長あるいはUターンとして、ある。そこにレット・オフは決して見つからない。Uターンではなく、Iターンだ(ただし、自然な結果として、着地点は出発点とは異なる)。
◎二元性の超越とは、白と黒、オンとオフ、その間にある無限の彩りに目覚めることだ。
◎匂いを嗅ごうとする気配を、粒子レベルで<強調→レット・オフ>すれば、鼻のブロックがたちまちほどけ、鼻がスースーし始める。
抽象的なことを言っているのではない。鼻の重さがなくなったかのように、びっくりするくらい鼻が軽くなる。鼻が透明になって消えてしまったように感じられて、思わず手で触れ合って確かめたくなるほどだ。何だかやたらに鼻の風通しがよくなって、だからスースーする。
◎通常、力を抜くといえば、体の外の空間に力を捨てている。
これに対してレット・オフは、自らの内面に向って力を抜く。いきなりやろうとしても難しいが、段階を追って正しく練修していけば、(社会生活に支障がない程度の心身の状態であれば)誰でもできるようになるはずだ。そして、あらゆる方面に応用し、自らの潜在力(変化の可能性)を最大限まで引き出せる。
◎いかなる道においても名人、達人と呼ばれる人たちは、特殊な力の抜き方を心身一如で体得している。それを私は仮に名づけてレット・オフと呼んでいる。
◎初心者は、身体のごく一部しか1度にほどくことができない。不充分かつ不完全であることはいうまでもない。しかし、そのわずかな開放でさえ、何がしかの自由さの感をもたらす。自由の質とは、軽やかさや晴れやかさ、伸びやかさが渾然として融合した開放感のことだ。それもまた、ヒーリングの一側面にほかならない。
◎オン/オフは鏡に映したように正反対方向に力が働く。にもかかわらず、同一のものとして感じようとする思い込みに囚われているケースが、初心者には多い。
◎「鏡に映し合うように」という比喩を私はよく使うが、その意味に深く瞑想すればレット・オフの何たるかが明らかとなるだろう。
カガミはカゲ・ミだ。カゲすなわち事物の正反対の相(裏=裡)を映し出すのが鏡だ。鏡は古代人にとっては驚異だったろう。英語のmirrorも、「不可思議な」とか「驚嘆する」という意味のラテン語から来ている。
「至人の心を用いるは鑑(かがみ)の如し」、「聖人の心は天地、万物の鑑なり」(『荘子』)。ここでいう鑑とは、レット・オフによる内観状態にほかならない。
◎ヒーリング・タッチは「触れ合い」の芸術だ。私たちが普通に「触れる」時は、意識の流れはこちらからあちらへの一方通行のみであり、触覚による情報は表面的質感、温度、硬軟などに限定されている。しかし、どこをどうやって探せばよいかを学びながら、触覚の中に含まれる情報を細かく感じ取っていくと、そこには驚くほど豊かでヴァリエーションに富む感覚が含まれていることに気づく。
◎レット・オフによるヒーリング・エクスタシーを起こす秘訣は・・・・形を作為的に変えようとしないこと。流れを自分が引き取り、引き受けて采配を振るおうとしないこと。
オンとオフが、鏡に映したような正反転の鏡像関係に置かれるようにすること。力の向きだけでなく、質も。
◎あなたは気づいているだろうか? 「右の感覚」と「左の感覚」は、まったく違う正反対のものであることに? 上と下、前と後ろもそれぞれ正反対だ。存在とは、天地(上下)と四方によって規定される感覚だ。
◎身体のある部分を体感的に正しく特定するには、上寄りか下寄りか、右寄りか左寄りか、前寄りか後ろ寄りか、方向感覚そのものをレット・オフによって内的にスイングさせながらサーチしていけばよい。
◎反対のもの同士を向かい合わせる時、エクスタティックなたまふりが起こる。エクスタシーとはたまふりの別名だ。セックスよりはるかに精妙で細やかで奥深くにまで浸透する快感が起こる。これが「セックスなきセックス」だ。
◎その艶やかさ、滑らかさ、鮮やかさ、活き活きとした実感、清らかさ、官能性、目覚めと眠りの両方が溶け込んで一体となった絶妙境・・・・それを私は「粒子的」という言葉で表現しようとしている。
◎子供時代、レット・オフでなく抑圧を教えられたことこそ、私たちが自らの欲望をコントロールできない最大の要因だ。欲望を押さえつけ、遮断し、閉じこめ、押しやり、目を背けることで「ブロック」が生じる。すると、欲望はさらに強くなって戻ってくる。
◎掛け算ではなく、割り算を緩めに適用。1で締め1で緩めていたのを、緩める度合いを2分の1、3分の1、4分の1と割ってみる。つまり、同じだけ緩めるのに2倍、3倍、4倍の時間が結果的にかかるようにする。
私たちは、速さというものが増したり(足し算)減ったり(引き算)するものと考えがちだが、そうではなく割り算で捉えるやり方もある。
力を緩める術(わざ)を正反転させていけば、強大な力を瞬間的に発する方法がわかってくる。より緩むほど、より強い力が出るようになる。上質の発達を遂げた筋肉は、緩めると真綿の如く、あるいはバターが溶けるが如くに軟らかで、瞬間的に緊張させると鋼鉄のようになる。
ブッダの目覚めたる意識を容れるための身体は、こうした筋肉を備えている。逆に、このような身体を練り鍛えるうちに、意識がブッダフッド(仏性)へと陶冶(とうや)されていく。神を招く清浄な空間へと、心身共に掃き清められていく。ヒーリング・アーツとは意識のアートであり、開悟のための身体調整術だ。
<2009.02.22>