Healing Discourse

ヒーリング随感 [第21回] ヒーリング・ライト

◎「私(自分)は誰か?」
 これはラマナ・マハルシ(1879〜1950)の有名な公案だが、ヒーリング・アーツは、南インドの美しい自然の中で生きた賢者の言葉と響き合い、そこから叡知を汲み上げることができるだろうか?
 言うまでもなく、正しい答えなど最初からありはしない。言葉を超えたある状態へと、探究者たちを導き、追いつめるのが公案の役割だ。
 具体的作業はいたってシンプルだ。私とは誰かと自らに問いかけ、それに答えようとするコマンド(私は○○という名前である、私の職業は○○である、私は○○の子供である、私は○○国民である、私の宗教は○○である、私は○○を愛している、憎んでいる・・・・・)を1つ1つ丁寧に身体的に感じ取り、レット・オフしていくのだ。最後には、問うことそのものもレット・オフしてしまう。
 これはヒーリング・メディテーションの1手といえるが、それを実践するうちに、「私」を構成する要素が1つずつ消えていくという、面白い現象が起こってくる。つまり自分が消去されて、透明になっていくわけだ。だんだん自分が存在しなくなっていく。・・これは、「準備」が整っていない者には、時として途方もない恐怖心とパニックを呼び起こすものらしい。
 心身両面の一定の訓練を経ると共に、深淵へと飛び込む覚悟を決めた者にとって、それは至福の体験にほかならないのだが。

◎私たちの本性は大空であるにもかかわらず、そこに描かれる様々な雲の相(かたち)を自分自身であると、誤って強固に思い込んでいる。・・・そんな風に語ったのは、インドの覚者OSHO(旧名、バグワン・シュリ・ラジニーシ)だ。
 世界認識における図と地を転換させれば、雲としての私(me)は大空としての<私(Me)>に座を明け渡し、いにしえ・今・未来のあらゆる覚者たちが集い出会う場所ならざる場所に、あなたも参入することができる。
 この大いなる器・聖殿の質は、「超越性」において万人万物に通底する。そこでは、あなたから分離した私、私から分離したあなたはいない。ただ大いなる一者としての<自己(Me)>だけが、ある。
 これを知りたければ、どこか外の場所、時間を探すことをやめ、自分がそれそのものであることを発見しさえすればいい。それは「発見する」というよりは、「気づく」と呼んだ方が適切だろう。あなたはこれまでずっとそうであったし、これからも変わることはなく、そもそも変わることなどあり得ない。
 
◎図と地の転換を起こすにはどうすればよいか? 
 粒子に対して徹底的に働きかけた上で、今度は粒子間に注意をシフトする。粒子を背景に押しやり、何もない隙間の方を前面へと招くのだ。ただし、一切余計な力を使わない。努力を払わない。
 やがて・・・・光ならざる光、ヒーリング・ライトをあなたは見出すだろう。
 粒子の呼吸(凝集と拡散)を自在に使いこなせるようになった者は、「転換」へとごく自然に移行することができる。粒子が凝集したり拡散したりする時、常に動くことのない背景、空間へと注意を向けるだけでいい。

◎もちろん、こうした図と地の意識的シフトを意のままに起こせるようになるためには、心身の粒子的感覚に基づく徹底した修練がなされている必要がある。そしてそのためには、個人差もあるが、ある程度の時間がかかる。

◎印堂(眉間)へのヒーリング・タッチも助けになる。・・・ちなみに、「両眉の間」とはどこか? 眉はカーブを描いているが。

◎ヒーリング・ライト体験談を、参考のため2例ご紹介しておこう(抜粋)。いずれも中級レベル入り口の体験であり、私とヒーリング・タッチで触れ合った際に起こった意識変容について報告したものだ。
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 <体験談1>
 先生のヒーリング・タッチによって意識の光が内部にともる時、全てが落ち着く所に落ち着いた透きとおった感覚に満たされます。
 なぜ、どうして、これでいいのか、これからどうすればいいのだろう・・・。いつもの生活の中では疑問ばかりがあふれ、答えを求めながらも何1つ確信が持てず、何か出来ても本当にこれでいいのだろうかと考え出すと途端にあやふやになってしまう事を繰り返してしまいます。
 ところが意識が光のように内面を照らす時、それらの疑問は消え去り、これまで問いかけから答えに向かっていた方向性が、先に答えがあってそこから疑問の方を振り返っているような逆転の感覚が存在していました。最初に「落ち着いた透きとおった感覚」と書きましたが、混乱した状態から少しずつ穏やかに変化が起きるのではなく、真っ暗闇の中で突然、目の前でカメラのフラッシュが焚かれるように瞬間的で強烈な体験で、新鮮なおどろきの衝撃です。
 これまでの人生の中で、ごくごくたまにずっと分からなかった事が急に分かった時、あるいは全く無関係でバラバラだと思い込んでいたものが偶然別の角度から見えていきなり関連が繋がった時、それが予測もしなかった瞬間であればあるほど衝撃は新鮮で大きくなりましたが、同じ事を繰り返しても2度と衝撃はありません。
 ですが、このヒーリング・ライト体験が起きる時は、どんなに心構えをしていても「突然」としか感じられないように急激で、同時に「こんなに強烈だったのか」とその度ごとに目が覚めるような新しさに出会います。<K.M. 男性・山口県>

<体験談2>
 何度もヒーリング・タッチを受けると、身体がまるで水のような柔らかさに感じられ始めました。柔らかさと一言で表現してしまいますが、心身が微細な粒子レベルで一瞬一瞬内側から花開いていくようで、潤いと同時に、どこまでも澄んだ透明感、柔らかさがありました。このような感覚が全身に伝わって、心身がほどけていく体験は、ほんとうに素晴らしいものでした。
 視覚にも大きな変化が起こり、目に見える世界が実際に光の粒子の集合体のように感じられました。周りの空間に限りなく透明な液体が満たされているようで、波の触感を実際にともなった瑞々しい光に満ちていました。人間の感受性とはこんなにまで可能性があるのかと、心から感動せずにはいられませんでした。自分の内側の心の動き、感情の動きが、そのまま空間に波紋となって影響しているような、不思議で、どこか懐かしく、自然な感覚に包まれました。
 ふと自分の手を見ると肌の色つやがよくなっていて、驚くほど身体が滑らかに動き、心身には瑞々しい感覚が充満していました。体のすみずみまで生命力に満たされていることが実感されて、真の健康とはこういう状態なのだろうかと感じられました。<Y.S. 男性・神奈川県>

◎永遠不滅の魂とは、1個2個と個別に別れて人数分存在するようなものではない。私の魂とかあなたの魂といったものは、ない。もし仮にあるとしたら、魂は不滅でないことになる。1や2があるなら、0、すなわち消滅の可能性もまたあり得るからだ。
 生と死を共に超越するものについて、私は語っている。
 生にも死にもいまだ分かたれていない。生と死が融け合って1つになっている。生まれることも死ぬこともなく、生と死を常に産み続ける。・・・それが霊(スピリット)という言葉の本来の意味だ。

◎「私は誰か?」・・・・・・・・・自らに問いかけ、その谺(こだま)が静まると、答えを探そうとするコマンドがうろちょろ動き始める。それはある方向、流れとして起こる。目もそれにつれて動く。訓練されていないマインドであれば、変則的に右往左往するかもしれない。1つ1つの「意」に伴う目の動き、ある方向に何かを探し見ようとするかの如き動きは、すべてまったく違う。
 その、見よう、探そうとする意図の流れを感じ取りながら、流れに乗って最後まで行ってみる。・・と、「私の名前は○○だ」といったアイデンティティ・ファクターが収められた「部屋(チェンバー)」にたどり着く。人間の記憶は、こういう風にチェンバーを単位とし、それらが互いにネットワーキングを形成している。ラマナ・マハルシの公案に対して「ゆっくり、柔らかく、粒子的に」取り組むなら、自らの記憶システムの建築学的構造について、いくばくかの洞察も得られるだろう。
 このようにして、最初の意図(記憶のありかの検索)から始まって1つの情報に行き着くまでの心身プロセスを、方向性(流れ)として体感したなら、それをごくわずかに強調し(それそのものとなり切り)、フッとやめてしまう。ただし、身体の外に一切何も放棄することなく、やめる。
 心を捨てずして心を用いる。そして受け容れ、待てば、小さな小さな1点からレット・オフが起こり、裡へ裡へと爆発的に拡がり始める。
 こうやってmeの構成要素が1つほどけ溶けるだけで、人は途方もないほどの開放感を味わうものだ。初めて体験する者にとって、それは実に意外な発見だろう。
 どこまでもどこまでも、見渡す限り視界を遮るものが何もない・・・それほどに開き、開け放たれた大いなる解放の感覚。同時に軽い。沸々と爽快感が裡で沸き立ってくる。
 どうやら、・・・・「私(me)」とは、鎖であり重しにほかならないらしい・・・・・その事実が、誰か(何か)から得た外来の知識としてではなく、自分自身に元々内在していた本来的叡知として、理会され始める。

<2009.03.05>