Healing Discourse

ヒーリング随感 [第29回] いやしの道

◎数日前、『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』が刊行された。
 私たちの活動を、これまで様々な形でバックアップしてきた人々のため、感謝と敬意を込め、肉筆署名入りの単行本を贈呈することにした。
 ところが、私はこれまでサイン(autograph)というものを1度もしたことがない。一体どういう風に書くべきか、あれこれ考えたが埒が明かないので、ヒーリング・アーツ流でいくことにした。
 まずは斎戒し(食事を制限する)、沐浴し(身を清める)、2〜3時間ほどヒーリング・アーツで徹底的に禊祓い、その上で1冊1冊に対してかしわ手を打って向かい合う。
 たまふりを喚起し、筆を持って無念無想のヒーリング意識に入る・・・と、身体が自然に動き、ヒーリングの舞を影絵の世界に写し取るかのようにして、自然に文字=形が顕われてきた。最初は遠慮がちだったが、1冊1冊と記し進むにつれ、次第に奔放に、自由に、<たまふり>の舞を舞っていった。
 その上からさらに、ヒーリング・タッチで手形を捺し、1冊1冊に祈りを込めてヒーリング作用を通じさせていく。隻手の音声。
 流れに乗ってきたから、手元にあった本全部に署名し、手形を捺すことにした。一々かしわ手を打ち、たまふりを弾けさせ、ヒーリング・タッチしていくから相当時間がかかったが、私の常の流儀として、1回1回、本気で真剣に取り組んだ。

◎第8回でご紹介した罪悪感のデリート法に関して、その後もいろいろな人からフィードバックが届いている。そのうちのいくつかをご紹介しておこう。
 誰かのちょっとした一言がヒントとなって、ある修法への理会が一気に深まることは、ヒーリング・アーツではしばしば起こる。

 <体験談1(抜粋・以下同)>
 ここ数週間、頭痛がとれず、悩んでいたのですが、この修法を行なっていきますと、あれほどきつかった頭痛が次第にとれていきました。今年に入って新しい仕事を始め、順調にいってはいるのですが、多忙になり、また始めたばかりなので改善点も多く、そのため一日中考え事をすることが多く、そのため頭が固まっていたのであろうと思っているのですが、それに対しましても、この修法の効果は絶大でした。
 去年脱サラをし、ハンバーガー屋を始めた人がいたのですが、行き詰まり、とうとう夜逃げをしてしまったそうです。大手の製薬会社に勤めていたそうなのですが、以前会って話をしていますと、どうしようもないくらい考え方が甘かったのが印象的でした。
 罪悪感を開放する修法を行なっている時、それをふと思い出し、人々の中には無意識に、あえて自分を不幸にしていく者がいるのではと思いました。まさかそんな人がいるはずはないと以前は思っていたのですが、周囲のいろいろな人たちの状況を見るにつけ、ひょっとしたら罪悪感ゆえに不幸への道を歩んでいるのではと思ってしまいます。自虐的行為を行なうことにより、自分で自分を罰しているのではと感じられたのでした。
 宗教にしましても、人間は迷える子羊であり生まれながらにして罪を背負っているようなことを人々に教え込んでいること自体、人々を罪悪感に染めているのだと思いました。
 私たちを知らず知らずのうちにからめ捕っているこうした罪悪感に対して、この修法は絶大な効果を発揮することが認識できました。呼吸が全身を通ることにより、身体も軽くなり、爽快感にあふれ、また頭もすっきりしてきました。気持ちも子供のときのように無垢になり、人生が楽しく感じられています。今年に入って体調が勝れず、自分も歳を取ってきたのかと初めて感じるくらい悪かったのですが、この修法を行なっていきますと、元気はつらつ、まるで20歳代に戻ったかのように元気になっていきました。まさに、罪悪感恐るべしといったところです。
 今後もこの修法を続け、有意義な人生を送りたいと思います。<H.I. 男性・兵庫県>

 <体験談2>
 自分自身が、日頃どんなことに罪悪感を感じているのか考えてみると、思い当たることがあまりにたくさんあり、自分でも驚いてしまいました。これまでに犯した過ちや失敗は言うに及ばず、こんなことをしてしまった、あんなことを言ってしまったなど、日々の生活の中で数え切れないほどの、大小様々な罪悪感に縛られていました。
 それは、自分で勝手に決めたルールに縛りつけられ、そこから少しでも外れることはいけないことだと思い込み、自分の世界を恐ろしく狭くしているような状態で、特に大きな失敗などを思い起こすと、呼吸はほとんど止まってしまっている状態になり、目はギュッと閉じ、眉間にシワがより、頭骨は絞めつけられ、耳の中までもが「何も聴きたくない!」と言わんばかりに閉じてきて、体を丸めてうずくまってしまいたい気持ちになり、罪悪感が私の息の根を止めようと躍起になっているようにすら感じられます。ここまでいかなくても、日々のちょっとした罪悪感ですら自らの呼吸を止めてしまっており、自分で自分の生命力を奪っているのが如実に感じられました。
 高木先生からご教示いただいたとおりに、息を止めようとしている状態に意識を向け、ごくわずかに強調してレット・オフし、外形は変えずに静中求動を保っていると、身体が内側からフワッと広がり、活力が充ちてくるのがはっきりと感じられました。何度か行なううちに、罪悪感からもスーッと開放され、呼吸は深くスムーズになり、さっきまでのあの閉塞感は、まるで霧が晴れるようにどこかに消えてしまいました。とろけるようなオフ感覚の中に浸りつつ、ゆっくりと目を開けてみると、目に映る光景は先程よりも明るさを増し、気持ちも清々しくなっており、生まれ変わったかのようです。
 これまでの凝り固まった考えの下に、相当な罪悪感を抱えていることは明らかであり、わずか数回行なっただけでもこれほどの開放感と充実感をはっきりと感じられるのですから、日々練修してさらに開放されていけば、今後の人生がより豊かなものに変わっていくであろうことは想像に難くありません。日常生活の中でも<凝集→レット・オフ>は習慣になってきていますが、漠然と行なうのではなく、どこに意識を向けてレット・オフするのかで、開放の度合いに大きな違いが生じることを改めて認識しました。
 おそらく多くの方が、意識的・無意識的な罪悪感によって生命力をすり減らしているのではないかと思います。しかし、私もそうであったように、それは開放されて初めて気づくことであるのかもしれません。まだ実践を始めてわずかな期間しかたっていませんが、ほんの少し開放されただけでも、素晴らしいいやしの感覚を味わっています。今後も徹底して行なっていきたいと思います。<M.K. 男性・岡山県>

 <体験談3>
 高木先生が書かれた罪悪感に関する修法を読み、これは素晴らしい術だと直感して実践しはじめましたが、最初はなかなか効果を実感できませんでした。
 罪悪感を感じつつ、注意深く身体を観察してみると、特に頭や目や胸が締め付けられるようになっていましたが、中々そこからレット・オフされ開放されるまでに至りませんでした。今考えてみると、呼吸に焦点を合わせず、罪悪感そのものを直接どうにかしようとしていたのだと思います。
 ある時、仕事でかるいミスをしてしまったのですが、結果それがお客様にかなりのご迷惑をかけてしまいました。その際に、どうしようもない程の後ろめたさや罪悪感が起こってくるのが感じられました。
 ここぞとばかりに、身体、呼吸を感じ取り、僅かに強調しレット・オフ。一度二度三度と行なっていくと、罪悪感にピントが合っていくかのように、とても奥深くに呼吸が染み渡っていくのが実感されてきました。そして圧倒的な感覚で、正々堂々とした自分自身が現れてくるのが感じられてきました。
 が、その直後から次々と、「迷惑をかけたのに、堂々としていてよいのか」等の気持ちが起こってきて、その度に呼吸停止を強調してレット・オフし続けました。
 修法を行なうたびに、潔く正々堂々とした自分自身を感じ、これまで罪悪感を感じていかに卑屈になり、自分を誤魔化してきたのかを理会しました。
 罪悪感を感じないようにして生きてきたために、罪悪感の本質を身体的に感じ取ることがなかなかできなかったのだとも思いました。
 罪悪感を開放することを毎日心がけた結果と思いますが、先日友人たちに、「子供の顔だ。小学生の顔をしている」と言われました。そう言われてみると、確かに子供の頃はこういう何にもとらわれない自由な感覚をいつも感じていた気がします。
「罪悪感に関する修法」に取り組んで実感していることは、悪いことを悪く思わなくなるのではなく、自分自身とより向かい合い、真の成長を目指して生きていく道であると思います。更に研鑽し学びを深めていきたいと思います。<H.M. 男性・東京都>

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◎耳の穴に指を入れ、ヒーリング・タッチ。
 労宮や指の腹の中心(指紋の中心)を意識すれば、術の切れ味は一段と鋭くなる。
 こうして観音修法を行ないながら罪悪感を喚び出してみると、罪悪感もまた一種のアンバランスであり、停滞(ブロック)にほかならない事実が明らかとなる。それが即ち「病」の本質だ。
 こうやって罪悪感を「(内的に)聴き」ながら、ハミングを起こしてみると面白い。両耳は塞がれているから、体の中で鳴っている音が聴こえる。その裡なる音を、右耳で内的に感じ・聴き(観音)、左耳で観じ・聴き、左右の耳をクロスオーバー。・・・これは、三半規管の整正作用を使って罪悪感を整体術的にいやす修法だ。
 その他の様々な「病」にも応用可能と思う。各自で研究してみると面白いだろう。

◎このようにして、ヒーリング・アーツの修法を自由自在に、縦横無尽に活用し、いろんな病を振るわせていくことができる。
 どういう病に対して、どういう術(わざ)を使い、どういう風に働きかけていくか、・・・そんなテーマの修法もこのところ頻繁に示現するようになってきた。「臆病」とか「腰抜け」をいやすこともできるらしい。

<2009.03.23>